四国遍路の旅記録  平成25年秋  その6

打ち継ぎの言い訳・・

私の四国遍路の旅 平成25年秋編は、10月4日、39番延光寺を前にした宿毛の街で終りました・・と私自身も思っておりました。
ところが、1ケ月少々の間を置いて再開していたのです。くたびれてひっくり返っていたはずなのに、何とまあ・・
一つの理由は、この10月「旧へんろ道[宿毛街道中道]復元整備事業」を立ち上げられた愛南町柏のOさんが「ぜひ、お会いしたい」と言ってこられたこと。
私と「中道」の係わりを訝る筋もおありでしょうが、実は3年半ほど前、この道の一部を藪を掻き分け強行突破したことがあるのです。(もちろん通れなかった所、通らなかった所も多かったのですが、その様子は、当日記「三巡目、第4回 その2(2010.4.7)「旧宿毛街道中道越えに挑む」をご覧ください。)
という訳で、Oさんにお会いする行程を含め、宿毛の前から打ち継いで宇和島まで行こうという算段となった次第。調子に乗って篠山の尾根道越えもと欲張っておりましたが、思わぬ寒波に震えあがって、それは中止。

いつものように寄り道と道草の多いゆっくり歩きですが、今回は通常の遍路行程以外の寄り道場所の多くは、いつもそのブログを愛読させていただいている「楽しく遍路」さんの後追いをさせていただきました。むろん、楽しく遍路さんのように博識でもなく、物事を系統だって探究する心も持ち合わせない私のこと、ただ、ぼーっと眺めてきただけではありますが・・ここに記して、感謝申しあげます。
それから、言い訳をもう一つ。この頃の私の遍路日記は、何となく遍路道の石造物マニア風になってきたなー。(この何百年もの間、四国の道を歩いた人が、それを見守った人々が、残してきた路傍の石、その、もの言わぬものが語ることを感じとりたい・・) 今回もよけいひどくなりそうな気配だけど、お赦しあれ・・


柏坂の上から・・


真念庵、伊豆田神社、成山峠、上長谷の宿へ

この度の打ち継ぎの歩き始めは、どういう訳か、その日の午後、真念庵に近い市野瀬からです。
ドライブイン水車の近くから遍路道に入ります。
道の入口には「足摺遍路道三百四十三丁石が置かれています。いかにも昔の遍路道を思わせる山道。三百四十四丁石・・三百四十七丁石も見ましたし、明和8年(1771)藝州と読める女性の墓、それに比較的新しい福岡の女性の墓が目を惹きます。
真念庵。やはりここは何か特別の雰囲気を持った空間だと思わせられます。
真念庵が建てられた時期については、「土佐国堂記抄録」に「天和二壬戌年。大坂、寺嶋眞念以願建立」とあるところから1682年とされているようですが、「空性法親王四国霊場御巡行記」(1638)(伊予史談会本)に「真念庵」との記述があるのはやや疑わしいとしても、澄禅も、足摺り打ち戻りが通常であったその時代に、その場合「荷俵ヲ一ノ瀬ニ置テ足摺山ヘ行也」と記しているように真念庵建立以前から、この場所に遍路のための宿泊施設があったであろうことが覗えます。
真念は大坂西浜町寺島に住む、高野聖系の一修行者であったと言われますが、土佐出身ともいわれ、その二十余回の遍路の拠点はこの辺りにあったのかもしれません。
「道指南」では、当然「市野瀬村。・・此村に真念庵といふ大師堂、遍路にやどかす。但さゝやまへかけるときハ、此庵に荷物をおき、あしずりよりもどる。月さんへかけるときハ荷物もち行。」と記しています。
中央のお堂の本尊は地蔵菩薩(成川にあった音瀬寺から移したものと言われます。)弘法大師像、薬師如来とともに祀られているため、地蔵大師堂とも呼ばれます。
境内の多くを占めるのは、明治初期の庵主、法印実道が浄財を集めて建立した四国八十八ヶ所本尊石仏。その荒削りな石仏群の独特な表情に魅惑されます。中には少し雰囲気の異なる文化15年の地蔵形式の墓なども混じります。
大師堂の前にある手洗鉢は、地元の六左衛門の寄進で貞享三年(1686)と刻まれています。境内にある最も古い石造物でしょう。建物は変わってもこの手洗鉢は庵の建立当時からここに居座っていたということですね。ついでに堂前にある三百四十九丁石について触れておきましょう。
表には「是より足摺山江三百四十九丁(九の字体が変で後刻では?と言われているらしい・・場所からいってもこれは三百四十八丁石)施主作州勝南郡百々村観音寺」と刻まれますが、裏面には次のようにあるのです。「其時庵住法瑞 弘化二乙巳年九月下旬立之 いざり立 目くらか見たとをしが云 つんぼか聞いたと御四国のさた」ちょっと風変わりな坊さまが住んでいた・・ということでしょうか。

 三百四十七丁石、作州 はが講中の字が読める

真念庵(地蔵大師堂)、右手前が手洗鉢

 手洗鉢(貞享三年銘)


四国八十八ヶ所本尊石仏


四国八十八ヶ所本尊石仏

さて、かなりくどくなってきましたがダメ押しを。 
境内の中心的な石造物はやはり堂の向いにある「真念法師 中開實道」と刻まれた墓形式の石の両側に置かれている二つの地蔵でしょうか。向って右側は「為西庵菩提 享保十五戌年(1730)三月十三日 生母佐(海?)賀茂郡玉川村住人四国行者」 そして向って左側の地蔵 「為大法師眞念追福造営焉 元禄五壬申歳(1693)六月廿三日終」。 これが真念の没年が元禄五年とされる根拠といわれます。

(追記)真念の没年について
上記のように真念庵の地蔵には「元禄五年六月二十三日」とあります。また、現在高松市牟礼洲崎寺にある真念の墓には「元禄六歳 大坂寺嶋住僧 大法師真念霊位 六月廿三日・・」とあります。これらより真念の没年は元禄四年であり、真念庵の地蔵は一周忌に、洲崎寺の墓は三回忌に建立されたとする説が有力のようです。(h29.7)


真念庵に長居しすぎました。趣あふれる石段を下ります。春にはきっと椿の花が、秋には紅葉が数枚散っています。
石段下には「あしずりへ/七リ/此うへ(指差し)あん」(嘉永元(1848))と刻す道標。


左、真念追福地蔵 右、西庵祈念地蔵

 真念庵の石段

 真念庵石段下の道標

三原に向う県道46号を200mほど、通称「三原分岐」。
ここには、多くの石造物が集められています。また、引っかかります。
一際背の高いのが、足摺三百五十丁石(弘化二年)。殆ど読み取れませんが「あしずり三百五十丁」の他に「寺山五リ、五社十四リ」などと刻されます。その前方の石がおそらく政吉の手指し。
その横が真念石。これも判読困難ながら「右 てらやまみち五里 左あしずり山みち七里 南無大師遍照金剛、願主真念 為父母六親 土州一野瀬村文助」と刻されます。その右 足摺道 寺山道を指す道標。右端に、丁石成就を刻す石。どういう訳かこの石は比較的読み易い。嘉永五子午三月二十一日の日付。「足摺山迄山川海(路?)遠近難有 いさめんため 奉蹉跎山建石 取捨御断申置候」と刻す。
なお、三原分岐に集められた石造物のうち一番左の標石には、読みとり難いながら「白王山へ かける人ハ三十丁 手まへより右へ登り・・」などと彫られており、赤婆辺りから直接白王山(嘗て38番奥の院であった白皇山)へ行く道を案内していると思われます。(この道については平成25年秋 その4に若干補足)



 三原分岐の石造物

 
三百五十丁石

三原分岐から1.5kほど、県道を外れ右に伊豆田神社へ行く道に入ります。
分岐道の入口には「伊豆田神社 鳴川谷に沿って0.8k高知山を背に鎮座」と刻んだ新しい標石。その左に、手指しの標石もありますが刻字は判読不能。 
この伊豆田神社は「延喜式神名帖(905)に記され、一般に式内社と呼ばれる古社で、幡多三古社の一つでもあります。
1500年以上前、東国伊豆の一族がこの地方に移り、その氏神の神社が勧請されたという説や、この地は昔、湧水が多く それをイデユタ(出湯田)と呼んだのが神社名の語源とする説などがあるそうです。また、この神社は元々伊豆田坂の麓にあったけれど、その地が汚れてきたので「ワシはいやじゃ・・」と宣うて、ひとつ山向こうの高知山の仙境に遷座したとの伝承が残っているそうです。その時期は室町時代以前とか。
参道に入ってすぐ神域、結界があります。その先に鳥居。
鳥居の後ろに石灯籠二基。「奉伊豆田大明神 元文三戌午年九月十九日 光明寺住法印厳覚」とあります。元文三年は1738年。
辺りは鬱蒼とした森林。イケイガシやナギの大樹があり社叢を形成しています。(土佐清水市指定天然記念物)

伊豆田神社の鳥居

伊豆田神社の鳥居

やがて左手、鳴谷川を小さな伊豆田橋で渡り、本殿に上る石段。
この石段は素晴らしい。玉垣も無ければまして手摺など・・ 山の斜面の上にそのまま中央が、やや凹んだ枕石を積んだようなもの。特に下るときは、いささか恐怖を覚えるほどです。
本殿は、比較的近い時に建替えられたもののようで、木の色も鮮やかですが、素朴な古い神社の形式を残しているものと思われます。殿前に狛犬一対。左手に摂社三島神社。 
鳥居から連なる参道、橋、石段、そして周りの森林、すべてを含めて古くからの神の姿を見せてもらった気がします。自然の中に住むことを願った神の意志も感じられるようでした。
神社はこうあるべきかもしれません。

伊豆田神社

上から見下ろすと・・

伊豆田神社の石段

神社への道分岐から直ぐ、カーブミラーのある所から、昔は成川、家路川の集落をバイパスする旧山道があったようです。少し入ってみましたが、今は通り抜けは困難のようです。
集落の家の庭に居られる人に聞きます。「そういう道は知らんぞなー、旧い道は今の県道より南側の川沿いを通っていたけどなー」。山道はもう忘れられた道なのかもしれません。
成山の集落を過ぎると、左手山の斜面に地蔵堂と伊平墓があり、案内板もあります。
阿波の人、伊平さんは明治5年遍路の途上病み、ここで命を落としたそう。里の人々は、温かく供養したとか。 
ここから1.4k、成山峠を越えて狼内、川平郷に至る旧道、山道に入ります。
案内板に「この道は昭和の始めまで三原の百姓が下の加江へ米売りに馬で通った道であり、魚を担うた浜の魚売りが越えた道である。江戸時代の遍路記に「谷間い長く木重なり淋し」とある」と記されています。後段に出てくる遍路記とは「名所図会」と思われ、この記述は同記では上長谷村の後の地蔵越えの道を記述したもの。誤記と思われます。
成山峠は、峠といっても標高差は100m程度。整備も行きとどいた歩き易い道です。峠前の道には、飲用の水道まで設けられています。
峠近くからは曲がりくねる県道46号の姿も見渡せます。若い男女の遍路は山道を通らず、県道を通って行きました。その二人の姿も見えました。

 成山峠の道

峠から県道を見る

 成山峠の出口

 政吉の手指し

山道の出口には、政吉の手指し標石があります。その両手の形の何とも言えぬ素晴らしさ。 
左手の仁井田神社の前から右の道を選び、県道に出る人が多いようですが、神社の前を直進、左手に見える山際の道が旧道のようです。淋しい道ですが、道から少し上がった山際には、遍路のものと思われる墓もいくつか見られます。 
私は、以前にも見たM小学校分校跡に思いがあり、その辺りを目指して県道に戻ります。
分校の校舎はまだ残っています。
その前で地元の人にお会いしました。私よりも少々年長でしょうか。
「あいの子供が5年生のとき廃校になってのー、今その子も45や・・ 建物はまだしっかりしとってなー 手を入れれば使えるかもなー・・」 
こういうものは中に入って見てはいけないのかもしれません。でも、気持ちは抑え難く、その方と一緒に校舎の中を少々見せていただきました。
廃校、30有余年。
そこで学んだ子供達の、そこで教えた先生達の思いが、まだ何処かに宿って潜んでいるようでした。

廃校30余年の思い







廃校30余年の思い

二組の狛犬が鳥居前に並ぶ上長谷の天満宮の前を通り、真念石のある地蔵峠への道の分岐点。 寄り道はしましたが、市野瀬からここまでですから、15k程度しか歩いていないでしょう。でも、晩秋の日は山端に近づき、私はもう宿の近くまで来ました。今日の宿は農家民宿○。
私はブログに宿のことを書くのを好みませんし、若干ルール違反ではないかとさえ思っています。ですから、これまで殆ど書いてこなかったのですが・・
でも、とてもいい宿だったので少々違反して書いておきます。
宿だと聞いて訪ねた所は実は食堂。そこから1k少々離れた自宅の敷地内に小綺麗な家を建て宿としているのです。食事の前後はそこまで車で送り迎え。泊りは一晩一人しか受けません。 
ご主人は建設業を息子に譲り、美人の奥様と二人で、今はどぶろく造りと食堂と民宿経営。すべて奥様主導かな・・ 
奥様、ご主人とサービスのどぶろくを戴きながら、一緒につつく鍋の楽しさ。
民宿経営の厳しさを多く聞く昨今。「民宿は趣味で・・」と言える余裕でしょうか。
何といっても、奥様、御主人の心遣いがうれしい宿でした。推薦宿です。

 市野瀬.成山付近の地図を追加しておきます。(再掲)
                                                  (11月11日)


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コメント
 
 
 
Unknown (楽しく遍路)
2013-12-02 09:38:48
枯雑草さん こんにちは
私は枯雑草さんを追いかけていたのですが、円環の遍路道です、いつしか枯雑草さんは私に追いついてきて、また抜き去ってゆくようです。枯雑草さんは遍路の(そしてブログ作りでも)、私の手本になっています。
改めて勉強させていただきました。同じところを歩いても、ずいぶん違うものです。私は安手のスーパーのように手を広げていますが、「四国遍路の旅記録」は老舗専門店、です。
宿のこと、やはり意図的に書いていなかったのですね。ブログを始めた頃、私はいっぱい書いていたのですが、近頃は特別の場合を除いて、書かなくなっています。枯雑草さんから学んだつもりだったので、うれしいです。
今後ともよろしくご指導下さい。
 
 
 
遍路宿 (やすし)
2013-12-02 14:59:35
同じ時期に私はもうすぐ後期高齢者になる姉を連れて慈尊院から高野山まで町石道を歩いておりました。姉と一緒に歩いたお四国の総仕上げです。天気も良く平均コースタイムを少しオーバーしましたが無事大門に到着。すばらしい紅葉が出迎えてくれました。
遍路宿についてはわたしは宿名だけは載せるようにしています。内容については最近の日記では極力書かないようにはしていますが、居心地が良く若干スケジュールを変更してでも泊まりたいところはいくつかありますね。
中道復元に関するニュースにも期待しています。非力ですがお手伝いなどできればと思っています。
 
 
 
楽しく遍路さん (枯雑草)
2013-12-03 11:19:34
こんにちは。
私のブログが見本だなんてとんでもありません。
楽しく遍路さんのブログは、その範囲、奥行きとも、私の変なの含め、多くの遍路記を凌駕するものと私には思えます。
私も尊敬する宮本常一。多くの道を歩き、カッタイ道については語っても、遍路道については語りませんね。いろいろ考えさせられます。
私は、この日記では遍路道を離れられません。
また、ご指導ください。よろしくお願いします。
 
 
 
やすしさん (枯雑草)
2013-12-03 11:26:34
こんにちは。
コメントありがとうございます。
町石道歩いておられましたか・・私は1度だけ
で、四国以外の道はどうも気がすすまなくて。
違反して書いたこの宿。ほんとにいい宿です。
食堂には多くの遍路札が貼ってありました。
また、よろしくお願いします。

 
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