四国遍路の旅記録  二巡目 第6回 その1

二巡目結願へ

二巡目の四国遍路も区切り6回目を迎え、香川県観音寺まで来ましたから、いよいよ88番札所大窪寺での桔願が見えてきました。
今回は、最初からちょっと脱線します。
この旅記録は、日記の形式を採っておりますが、ブログ掲載なので公開の形。遍路記録は、経験のある方またはこれから遍路しようと思ってる方を対象に書かれるのが普通です。(そうしないと、とても書き難いって面もあるのですけれど・・)
おもしろくない、というのは拙文のため、文才の無い私には仕方ないことですが、一般の方には前提となるところで大変わかりにくいというこになってしまいます。・・で、少し脱線して、四国遍路というものの歴史と、どういう方法で歩いているのか・・について(もちろん私なり、ですが)触れておくことにします。

既に平安時代末から室町時代にかけて、四国の辺地(へじ:海岸)を行道(ぎょうどう:修行の道)として廻ることから発した辺路(後に遍路)が行われていたと言われます。そして、江戸時代の初め頃までに巡礼地八十八箇所の原型がかたちづくられてきたようです。
江戸時代の前期、無名の僧真念が著した「四国偏礼道指南(みちしるべ)」は、八十八の札所(巡礼したしるしに自分の名前を書いた札を納める霊場)とその巡礼の道順を紹介した画期的なガイドブックとなりました。もちろん、札所と札所の間を歩くルートは一つではなく、遍路が通ればいづれも遍路道となるのですが、真念の道しるべは近年に至るまで、遍路道のメインルートの原型として保たれて来たようです。
近年は、へんろ道保存協力会という組織が、詳細な地図(以下へんろ地図と呼ぶ)を発行しており、歩き遍路の殆どはこの地図を持参して、四国を廻っているのです。へんろ地図には、八十八札所の他、40年ほど前新たに名付けられた別格20霊場(別格札所とも呼ぶ。88札所と合わせて108札所となる。)や総てとは言えないまでも多くの奥の院などお大師さん(弘法大師)所縁の番外霊場への経路も示されています。
では、この地図さえあれば、実際に歩けるか?・・そうはいきません。協力会や篤志の遍路が、道々に道しるべやシールやへんろ札を貼付するのです。これを頼りに歩きます。別格霊場、特に番外霊場は参る人も極端に少なくなるということもあるのですが、こういった札やシールが殆どありません。ですから、迷いに迷うということになるのです。これも番外霊場を廻る遍路の宿命です。

脱線ついでに、何故遍路をするか・・についてもちょっと触れておきましょうか。一口で言えば、人それぞれで千差万別ということでしょう。
親や子や妻や親しい者を亡くし、その菩提を弔うため、また亡くなった人に会いたいという願望のために・・四国を廻る人もいます。私もこの目的で廻る何人かの遍路にお会いしました。
また、もう一つの端に、ハイキングや山歩きの延長に四国を歩き始めるという人もおられます。でも、何日かの後、失望を感じ始める人も多いようです。舗装道歩きの退屈さです。そこで、自分が求めるものとは違っていたと気づくのではないでしょうか。
ところで、お前の場合はどうなんだ!と言われそうですから・・。一応、精一杯カッコ付けて書いておきましょう。本心、偉そうなことは言いたくねーんですが・・。できうれば、以下の数行読み飛ばされんことを。
多くの遍路が被る菅笠には次の句が墨書されています。
  迷故三界城  悟故十方空  本来無東西  何処有南北
  迷うがゆえに三界は城  悟るがゆえに十方は空  本来東西無し  いずくにか南北あらんや
と読むのだそうです。この「空(くう)」という語、遍路が唱える般若心経の心をなす言葉としても出てきます。(・・色即是空 空即是色・・)それとこれとは、同じ意味ではないかもしれません。でも私は同じように思っています。
「空」とは、何もないということを意味するものではありません。世の中のあらゆる現象は、常に変化するもの、そして、それ自体が独立して存在するものではなく、他に依存してあるのだということを認識することにあると教えています。これも仏教の言葉である「縁起」(世の中すべてのものは因(原因)、縁(関係)、果(結果)の連鎖であるという考え)と通じていると言われます。
自己中心的、人間中心的・・・・と対極にある言葉。自然の中を、風土の中を、人々の中を・・自らの心をできるだけ無にして歩き、受け入れられることを願いながら・・といってはあまりにきれいごと過ぎるかもしれませんが。

なお、私の四国遍路は2巡目です。従って、1巡目では参らなかった別格や奥の院などの番外霊場に記述の重点が移ります。お許しください。それと、今回連れてったカメラ(コンデジ)のご機嫌が悪くてねー。(言分け)(平成21年3月)
 




平成21年3月10日     弥谷寺の石の仏

香川県観音寺の駅は、高等学校が近いためか、やたらに学生の姿が目につきます。そういえば、ここの観音寺高校、かなりの有名校。でもさすが遍路の本場。駅のベンチで白衣なんぞに着替えるおっさん(じじいかな)には誰も頓着しません。
69番札所観音寺への道を歩きながら、去年の秋まで半年の時間が縮じまってくるのを感じます。
観音寺門前から70番本山寺(もとやまじ)に向かう5kの道は、財田川の土手を通る、私の好きな道です。あたりは野菜畑、川には葦が密生して、時にはその中から白鷺が飛び立ったりします。
もう、本山寺の五重塔も見えてくるでしょう。そんな道でアメとピーナッツのお接待。おばちゃんと少し話しながら歩く、爽やかな朝。

本山寺の塔が見える

畑では野菜の収穫

本山寺の本堂は、国宝なのです。鎌倉時代(1300)の再建、奈良の著名な寺院を手掛けた工匠の作だということが分かっているそうです。何とも美しい屋根の形です。
八十八札所で国宝を有する寺はここの他、伊予の石手寺(二王門)、太山寺(本堂)だけです。
本堂の隣の五重塔は、明治末の建立だそうですが、大変立派な塔です。
境内で髭を蓄えた五十代と思われる遍路と言葉を交わしました。網代笠を被り、錫杖をもっています。

70番本山寺

本山寺本堂

本山寺五重塔

71番弥谷寺への道、歩いていると軽自動車が止まる。窓からおばさん(おばあさん?)の声。
「あんた、あんた・・ワシはイヤダニの病院まで行くんよ、あんた乗るの・・」
ちょっと変、「乗るの」の語尾が上がらないのです。だから強制みたいに聞こえますが、ほんとは「乗るかい?」の意味。
初日から乗せてもらっちゃ、お大師さんに申し訳がたたん。お礼を言ってお断りしました。
それにしてもこの頃車のお接待受けること多いなー。喜ぶべきか、いや喜ぶべきか。

弥谷寺に近づいて、その長い参道の石段を登っていると、周りの岩に吸い込まれてゆくような感覚に囚われます。
真念は、「四国偏礼道指南」の中で「三つの峯が聳え目を遣る所すべてに仏像がある。とても人間の為したこととは思えない・・」と書いています。現在は、岩の風化に消され、苔に覆われ、その多くは見ることがないけれど、湿った岩の一つ一つは、一種の遠い時間の恐ろしさを持って迫ってくるのです。

71番弥谷寺山門

弥谷寺参道の観音

弥谷寺磨崖仏

ここに来ると思い出すことがあります。「イヤダニマイリ」です。
イヤダニマイリとは何か。弥谷寺は死霊の行く山とされる。亡くなって間もない人の霊(具体的にはその人の髪の毛や着物)を背中に背負って、弥谷寺まで運んでくるという習俗が古くから行われてきたというもの。
この習俗は、多度津在住の民族学者武田明が1950年頃発見し学会に発表、認められるようになったと言われる。
私事に渡り恐縮ですが、実は武田氏の夫人は私の母の妹なのです。(母は岡山生まれ)武田夫妻が故人になって既に久しいけれど、私は子供の頃からこういった話をよく聞かされたものでした。(おっとこの話、初めて弥谷寺にお参りしたときの日記にも書きました。また、書いちゃいましたよ。)
実際にイヤダニマイリの習俗があったかどうか、最近、疑問を呈する意見もあるようですが、この地が死者の霊の集まる場所と信じられていたことは確かのようです。
嘗て、遠い昔、死者の霊は山に帰るという信仰があり、またさらに古くは、死者の霊は海の彼方に行くと信じられていたといいます。そのことが、瀬戸内海を隔てた対岸の山陽の人々はこの弥谷が死者の行く場所、また四国の人は広島、厳島の弥山(みせん)が霊の集まる場所とする信仰を生んだのではないでしょうか。 
そんなことを考えていました。

(追記)「イヤダニマイリ」
武田明の「巡礼と遍路」のなかの「イヤダニマイリ」の主要部分を引いておきます。
「人が死ぬと死者の霊をこの山に伴っていくのがイヤダニマイリで、死後七日目、四九日目、ムカワレ(一周忌)、春秋の彼岸の中日、弥谷寺のオミズマツリの日などに、死者の髪の毛と野位牌(のいわい)などを持っていくのである。
いちばん濃厚にこの風習が残っているのは三豊郡の旧荘内村(詫間町)であるが、それをごく簡単に説明をしよう。
旧荘内の箱浦ではイヤダニマイリを死後三日目、または七日目に行なうことになっている。七日目の仏事のことをヒトヒチヤという。まず、死者の髪の毛を紙に包んだものと死者が生前に着ていた着物とを持って血縁の濃い者が四人とか六人といった偶数の人数で参る。はじめに墓へ行き、「イヤダニへ参るぞ」と声をかけてから、その中の一人は後向きになって背に負うまねをする。そして負うまねをしてから、八キロばかりの道を歩いて弥谷山まで行くのである。ちなみにこの地方は土葬地帯だからこの墓はいわゆる埋め墓である。 弥谷山へ着くと、比丘尼谷の洞穴の中へ髪を納め、野位牌を洞穴の前へ置いてから水をかける。着物は寺へ納める。洞穴の前には小さい小屋があって、彼岸の中日やオミズマツリの日には人がいるので、その人に頼んで経木に戒名を書いてもらい、その経木に櫁(しきみ)の枝で水をかけるのである。それから一行は本堂・大師堂とお参りをしてから帰途につくのだが、山を下りて仁王門の前にある茶店に上って、一行は会食をする。会食がすむと、後すなわち寺の方を振り返らないで家に帰ってくる。一方、一行がイヤダニマイリに行って留守になると、葬家の者は墓へ女竹(めだけ)を四本持っていき、四つ又にして二五センチ四方ぐらいの板で棚をかける。その棚に「ふきん」をつるし、白糸を通した木綿針をふきんにさして白糸を垂らしておく。イヤダニマイリから帰ってきた人は、すぐに家へは帰らず、まず墓へ行き、鎌
を逆手に持ってその棚をこわし、後を振り向かずに葬家へ帰ってくる。そこでそろって本膳につく。
荘内半島の箱浦の例について述べたが、イヤダニマイリの風習の古い型というのは大体このようなものである。偶数で行くというのは、帰りに死者の霊がついてくるのを防ぐた
めであり、帰りに仁王門の傍の茶店で会食をしてから後を振り向かないで帰るとか、家に帰ってからも本膳で会食をするというのは、死霊との食い別れを意味する。墓に設けた棚をこわすのも、死霊が墓にとどまるのを嫌うからである。要するに、再び死霊が家に帰ってくるのを防ぐための風習といえよう。死んでから後に何年かたって、彼岸の中日やオミ
ズマツリに弥谷山へ行くのは死霊に再会するためのものであるかもしれないが、死して間もないころに行なわれるイヤダニマイリの行事は、明らかに死霊を家から送り出すための行事であった。」
                                    (平成30年11月追記)                                 


大師堂から更に急な石段を上った本堂の脇に阿弥陀三尊の磨崖仏があります。破壊と風化が進行し、中央の阿弥陀仏の温和な表情が微かに伺えます。ぜひお参りしておきたい仏です。

私は弥谷寺から標高300mの天霧峠を下って別格18番海岸寺奥の院に行きます。多くの遍路は通らない道と思われますので、「道しるべ」として、特記しておきましょう。

道しるべ  弥谷寺から海岸寺奥の院への道
納経所では、この道の通行は極力反対されます。通行できないだろうと・・。万一事故でもあれば困るということでしょう。だめなら戻ってきます、ということで出発。
でも、結論から言えば通れます。
寺から緩い登り600mで天霧峠、ここより西国33観音石仏のある道を下ります。250mほどで天霧八王山奥の院お堂。お堂の奥は洞窟になっているようですが、相当に荒れており樹木の中に埋もれかけています。
さらに150mほどで砂防ダム。この間、倒木が道を塞いでいる所数ケ所、潜ったり、上を越えたりします。この道、基本的に沢の中を歩く感じですから、雨の日は止めた方がいいでしょう。
砂防ダムより下はよく整備された道です。もう虚空蔵寺が見える場所、護岸された水路の橋の横、3番石仏が山道の終わる場所です。
ここから海岸寺奥の院まで2k、舗装道ですが、新しい遍路標識やシールは皆無ですから注意です。私は大いに迷いました。大きな小学校が見える所、左に向かう坂を登ります。古いへんろ石に注目。小学校からはきっと、「あーへんろさんだー」の黄色い声がかかるでしょう。
弥谷寺から海岸寺奥の院まで3.6k、私の遅足で、迷いも含め1時間40分でした。


天霧峠の石仏

天霧八王山奥の院


砂防ダムから白方方面を望む

海岸寺奥の院には、丘の上に塔婆がある。それが遠くからでもよく見えます。
納経所で「立派な塔ですね。多宝塔ですか」と聞くと二重塔だという。
10番切幡寺には有名な二重塔があるが、多宝塔でない二層の塔は珍しい。
「相当傷んでいて、遠くから見てる方がいいですよ・・」とおっしゃるものだから、遠巻きに眺めて歩きました。
ここより500m、別格18番海岸寺です。大師ご生誕の産屋が寺の始まり。山門には仁王さんの代わりに、琴が浜、大豪という四国出身の関取の像が立つ珍しい寺。
後で気づいたことですが、奥の院に大師堂、本寺に本堂があり、いずれでも同じ納経ができるということであったようです。

海岸寺奥の院

別格18番海岸寺山門(右琴ケ浜、左大豪)

弘田川を渡り、佛母院に寄る。
ここには、大師の母玉依御前の屋敷跡や大師の臍の緒を納めたという胞衣塚などがあります。

海岸寺から6kの道を行き、72番曼荼羅寺に着いたのは、もう17時に近い。
急いでお参りをし、門前の宿へ。宿の若女将(?)が、気さくで話好き、「お疲れねー」とドリンクのお接待、玄関に話込んでなかなか部屋にあげてもらえないのです。
同宿の歩き遍路は、本山寺でお会いした五十代の神奈川の男性、退職前という富山の女性、それに足を傷めた若い男性。あと車遍路、団体遍路多数。

     本日の歩行:      41806歩
     地図上の距離:     26.3k

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