四国遍路の旅記録  平成28年春  その2

観音道を上って大山寺へ

別格1番札所大山寺へ行くには、5番地蔵寺から6番安楽寺へ行く道を神宅(かみやけ)の小学校の前で右折して北上、飛地蔵堂の手前から山道に入る道筋。これが遍路道とされています。(小学校より少し西、宮の前の五差路に大山寺と彫られた石碑や寺所縁の千手観音を祀った観音堂があり、こちらの方が古くからの参拝道入口かもしれません。)
この他の大山寺への道筋は二つ存在します。
一つは、4番大日寺へ行く道の途中、山神社から「四国のみち」を辿る道。
この道は2009年9月に歩きました。(三巡目第2回その2)当時はかなり荒れた道でしたが、今はどうでしょう。
もう一つは、上坂町の県道34号を北に向い泉谷から山道に入る「観音道」と呼ばれる道です。
私は予てからこの観音道を上って大山寺と大山山頂の奥の院に参りたいと願っておりました。
なお、大山山頂より尾根を東に少々行った大山越の道は、前の記事に書いた一本松越に隣接する阿波から讃岐の引田への道の一つでもあります。(古道ではないようですが・・)
この日、私は観音道を上り大山山頂の奥の院、そして大山寺、帰りは遍路道を下って地蔵寺まで行く計画です。

県道34号を北に辿ると、阿波三盆糖の岡田製糖所の前を通ります。全国の和三盆の中でも特に品質の高さを誇る阿波の三盆糖についても少し触れておかないとならないでしょう。
この地の製糖は、丸山徳弥が安政5年(1792)日向から甘蔗を持ち帰り、寛政4年(1792)同じく日向で製糖技術を習得して帰ったことに始まると言われています。
(讃岐地方の制糖の中心地、白鳥、三本松、津田地方から伝来したとの異説もあるとか。白鳥、三本松地方と上板町とは交流が盛んで、婚姻圏でもあることもその裏付けであるかもしれません。先日、大坂越で聞いた板野と引田の関係。阿讃国境の山を対称軸とした不思議な符合と道の役割。「まれ人」は峠道を越えてやってくるのでしょうか。さて、さて・・)
その後、藩の支援も得て、板野町、上板町、土成町の阿讃山地が形成した扇状地に適した甘蔗の作付と製糖業は発展し、江戸時代末期に最盛期を迎えることになるのです。
その後は、他地方とともに製糖業自体の衰退へと推移してくるのですが、阿波三盆糖の製糖は少量ながら、昔からの製法と最高品質を頑なに守り続けているのです。

阿波三盆糖岡田製糖所

 大山に向う

行く道の正面に大山が迫ってきます。
道傍には古びた常夜燈や石標が多く見られます。石標の刻字は判読できませんが、あるいは大山への信仰を示すものでしょうか。
和泉寺に参ってから観音道に入るのが慣わしであるかもしれませんが、私は直接山道の入口にに向いました。畑の中の道を行き、廃電話ボックスの前を右に入るのが観音道の入口。
向いに、西国三十三観音と善光寺の参拝碑。中央に阿弥陀如来像を配する立派なものです。
観音道は大山寺への参道で、江戸時代後期に30番から1番の観音像がその道に置かれたといいます。その後、歩く人もなく荒れ果てていた道を、地元の人々の努力により道整備や道案内の札掛けが行われて、すばらしい祈りの道となりました。
上り始めて直ぐの畑のおばちゃんから「ごくろうさん、お気をつけてお参り・・」と声が掛ります。やはり地元の人々の道なのだと思わせられます。
「猪が出るでのー・・」猪の鼻先に触れるよう低い位置に張られた電気柵を跨いで通るよう、手をとらんばかりの案内です。山道に入る所まで案内するというのをお断りして、少し行くと30番千手観音と文字だけの馬頭観音が並んでいます。
山道への石段を上ると樹林の中の道。かなりの急坂です。25番十一面千手観音。
小さな渓流の傍で赤いカエルを発見。絶滅危惧種であるニホンアカガエルか!多分違うでしょうが、とにかく赤いことは赤い・・


30番千手観音、馬頭観音

 山に入る

 アカガエル発見

急坂の林を抜けると展望が開けます。上板町の田園が春霞の向こう。23番千手観音。
石積みの上の21番聖観音、励まし観音と呼ばれます。椿の下を潜って、子育て地蔵。限りなく穏やかな表情。熊野修行行者の納め札を見ます。
道の上りは緩やかになり、19番千手観音。
18番如意輪観音の先、舗装林道に合流します。


25番十一面千手観音

 林を抜けて

 上板町展望

23番千手観音

21番聖観音

 椿の道

 子育て地蔵

19番千手観音

18番如意輪観音

すぐにまた山道。緩やかな上り下り。13番如意輪観音。谷を渡る丸木橋、落ち椿。
炭焼窯の跡を見て12番千手観音。11番馬頭観音。
6番千手観音と手指し道標が並んでいます。道標には「右 いづみたに くはんおんみち」と刻まれます。4番11面千手観音、そして座姿の1番如意輪観音。
観音の一つ一つに手を合わせ上る、何と素晴らしい道であることか。

 谷を見る道

13番如意輪観音

 谷を渡る

12番千手観音

10番千手観音

 7番如意輪観音


6番千手観音と手指し道標

 手指し道標


4番十一面千手観音


3番千手千眼観音

1番如意輪観音

大山寺へは右の道を行きますが、ここから標高差200mの急坂を大山山頂近くの奥の院黒岩大権現に向います。急ですが石や凹凸がなく意外に歩き易い。
奥の院参道の燈籠には文政七酉年の銘。歩き難い石段をのぼります。黒岩大権現は本殿と拝殿のある神社の形式。波切不動尊が祀られています。
ここは元は大山住大明神であったとする説を主張する方もおられますが、私には理解を超えた話です。
拝殿下に二番と彫られた菩薩(?)像。光背に何やら歌のようなものが刻まれています。暫く考えておりましたが読みきれません。御存じの方お教えください。

奥の院黒岩大権現

 拝殿下の石仏

 黒岩大権現本殿、拝殿

三角点のある山頂へは200mほどですが、山頂でも展望がある訳ではありません。
半ばコンクリート舗装された車道を大山寺まで下ります。
道傍には短歌を刻んだ石が点々と置かれています。素朴で心情を素直に詠った歌が多く、思わず涙を誘われそうに。「短歌の小径」と名付けられています。
大山寺にお参り。数人の遍路にもお会いしました。
大杉に囲まれた参道の石段はすばらしいものですが、蹴上げが高く手摺の無い石段はすこぶる危険。こういう所では、私は必ず転ける。ここでも・・
古色の仁王門も趣あるもの。残念ながら屋根にはビニールシート。

 大山寺

大山寺参道の石段

大山寺を下る

 大山寺仁王門

下りは遍路道を辿ります。
協力会へんろ地図(10版)では、しばらく車道を通るように指示していますが、現地では仁王門から400mほどの右手にへんろ道の標示。1k弱の地道に入ります。
この道は以前から歩けた道ですが、整備され格段に歩き易い道になっていました。
その先500mほど再び車道を下ります。この道から見下ろす上板町の田園、吉野川、見事です。

 遍路道の下り

下り車道からの展望

満開の桜の木の先を左へ、再び地道。
この道の3ヶ所に立派な草刈り鋏が下げられ、Tさんの草刈り接待のお願い文。草はまだ殆ど伸びていませんが、道の脇まで草刈りに協力。
地道は文字の馬頭観音と巳年生男奉納の二丁石の所まで。(以前は直進できましたが・・)
飛地蔵堂前を舗装道で下り一般道に出ます。

 下りの地道、名所草刈り接待

 遍路道山道の入口

神宅の田園。多くの古い墓を見、桃の花や草叢のハナニラを見て神宅小学校の前に。そこから5番地蔵寺まで行きました。
遍路道の途中、寛文10年(1670)銘の庚申塔、嘉永3年の地蔵を見、八坂神社の前を通って寺近くの町史跡の地蔵と197度目、明治36年の茂兵衛標石を見ました。


ハナニラ (私がやたらに好きな花)

羅漢の地蔵尊と茂兵衛標石


懐かしい地蔵寺裏の道

 地蔵寺

 地蔵寺

地蔵寺の銀杏はまだ芽を吹いたばかり、寂しい境内でした。
ああ、去年もここに座っていたな・・5月の連休が終わった頃。銀杏は緑だった。
おばあさんとお孫さんのような案内人の二人のお参りの情景を想い出していました。

地蔵寺、お参り

想い出しついでに、この日記のどこにもまだ出していませんから、6番安楽寺から10番切幡寺まで、去年5月の想い出の写真を貼っておきましょう。
6番安楽寺。門前の茂兵衛標石(181度目、明治34年)と特徴ある山門。安楽寺先の地蔵堂前の真念石、何度も見ながら写真を載せていないようです。忘れずここに・・
7番十楽寺。8番熊谷寺。変化に富んだ境内は美しい。安永3年(1774)四国最古の多宝塔も。しかし、現在は境内から離れているのが残念ですが最もすばらしいのは、貞享4年(1687)四国霊場最大の仁王門(二重門)。


安楽寺、門前の茂兵衛標石

安楽寺山門

上板町引野の真念石

 十楽寺

熊谷寺多宝塔

熊谷寺多宝塔

熊谷寺多宝塔

熊谷寺中門

熊谷寺境内

熊谷寺仁王門

熊谷寺仁王門

熊谷寺仁王門

熊谷寺仁王

9番法輪寺。10番切幡寺。参道が333段の石段で著名ですが、建築物としては何といっても大塔(二重塔)。豊臣秀頼が慶長12年(1607)大坂住吉神社に建立。明治6年切幡寺に移築。私は特にこの塔が好きで、この日記にも何度か載せています。

 法輪寺

 切幡寺から

 切幡寺大塔

 切幡寺大塔

 切幡寺大塔

切幡寺大塔

切幡寺大塔

切幡寺本堂屋根

切幡寺参道


大山寺付近の地図

                                                            (3月31日)

 

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四国遍路の旅記録  平成28年春  その1

昔から多くの人が歩いた道を

私の四国遍路、もう少し正確に言えば「四国歩き旅」かも。
春と秋を中心とした1、2週間の区切り遍路を始めて10年を超えました。もうあとどのくらい歩けるだろうか・・という思いは強い。
数年前の日記にも、その何処かに、もっともらしく書いておいた気がしますが、札所と札所を繋ぐ最も近く便利な道を歩くということよりも、信心の道(あるいは信の道)と生活の道が重なりあって数百年もの間その上を人々が歩いてきたような道、今に残るそんな道を、その人々の思いを探り確かめながら辿ってみたいという願いは一入強くなったきたように思います。

この春は讃岐と阿波の国境にかかる二つの道を歩きました。先ず・・


大坂を越えて阿波へ

この日歩くのは、引田から阿讃国境の大坂を越えて板野への道。
引田は播磨灘に面した港町。
中世から近世、特に江戸時代後期には大いに発展したようです。街の北に見える半島は城山と呼ばれ、豊臣秀吉の時代の城跡。旧街道に沿って古い商家の街並も残り、もう一度ゆっくり訪ねてみたいという気持に誘われる所です。でも、今日は先を急ぎ通り過ぎます。
旧阿波街道を東に向います。左手の海には通念島、松島、毛無島と呼ばれる崖に囲まれた小島が見えています。道で出会った人。
「おー あの辺は磯釣りの魚場での・・チヌじゃ・・通念にゃ弁天さんも祀られとる・・」

 引田の沖、通念島、松島が見える

 東海寺

真言宗海蔵院東海寺。行基の開基、弘法大師の再興を伝える。源平の屋島の合戦では源義経らが宿営したとも伝えます。
この辺り、「馬宿」という地名があり、今も住所表示とされています。古代律令制による南海道では30里(当時の1里は530mほどで約16km)ごとに駅屋(えきや、うまや)が置かれ駅馬が常備されたと。
馬宿という地名は、この地が阿波と讃岐を結ぶ南海道の駅屋があった所であることの証であると言われます。
ここより東へ約2k行った坂元より大坂峠越えの道は始まります。
辿る道とその周囲の古い事柄、少々調べました。折角ですから少し書いておきましょう。
香川県(讃岐)東部から徳島に至るには、昭和34年に海岸沿いの国道11号が開通するまでは坂元(東かがわ市)と徳島県板野町を大坂峠で結ぶルートが主道でした。徳島に向っては阿波街道、高松に向っては讃岐街道と呼ばれた道ですね。(金毘羅街道の帰路として三頭峠を越えて阿波に至る道も阿波街道と呼ばれますので紛らわしいのですが・・)
平家物語に「阿波と讃岐とのさかひなる大坂ごえといふ山を、夜もすがらこそこえられけれ」と屋島の戦いに向う義経軍の様子に書かれているのはこの道です。(弁慶の一隊は、後記の一本松越えの道を進んだとも。)
二つの地域を結ぶ、大坂越以外の道についても触れておきましょうか。
江戸時代初・前期の阿波国大絵図(慶長版(1609頃)、寛永版(」1641頃)、元禄版(1700頃))を見ると、名称を含め若干の相違はあるものの、ほぼ共通して一本松越、黒谷越の道が示されています。一本松越の道は阿波側の神宅(かみやけ)から大谷薬師堂を経て尾根道を国境まで上り、讃岐側は川股を経て引田への道筋。
私は2009年2月(三巡目第2回その2)、大日寺近くの山神社から「四国のみち」を上り大山寺に
行く途上、一本松越の分岐を確認しています。現在も通行可能と思われます。
黒谷越は大日寺への道をそのまま北上、国境の鉢伏山の西を越えて一本松越の道に合流します。この道は長らく廃道となっていたようですが、最近の山歩き流行の風潮のなか、ハイカーにより踏み跡はしっかり確保されているようです。
大坂越を主としたこれらの道を通じて、古くより阿波板野地域と東讃引田との間で物資や農作物、製塩・製糖技術などの交流がおこなわれてきただけでなく、両地域は婚姻圏でもあって、独特の文化圏、言語圏を形成してきたと言われます。それも引田の隣、白鳥とは一線が引かれているという興味深いことも指摘されているのです。

阿讃国境を越える古くからの遍路道についても触れておきましょうか。
88番大窪寺から1番霊山寺へ行く道として、江戸時代の遍路記では、澄禅「四国遍路日記」、真念「四国遍路道指南」、細田周英「四国徧礼絵図」が揃って長野から日開谷川に沿っって切幡寺へ行く5里の道を案内しています。この道は、阿州十里十ヶ所と言われる寺を経るこになるものの、大きな峠の無い歩くに楽な道で、今もまた最も多くの遍路が辿るルートとなっていると思われます。
「四国遍礼名所図会」のみが、大坂越の道を案内しています。
「馬宿村浜辺とふる、坂本村是より坂に懸る、逢坂、不動尊坂中に有、滝あり。讃岐・阿波国境、坂の峠にあり。阿波板野郡、大師堂、坂の峠あり。峠より徳島城・麻植郡南方一円見ゆる。大坂村、番所有り切手改む。・・」
なお、この日開谷川に沿う道と前記の一本松越、黒谷越の間の国境越の古道としては、土成の宮川内谷と三本松の狩居川を結ぶ宮河内越の他、鵜峠(うのたお)、上畑越があったようです。

さて、坂元から大坂を越えて板野の東谷へ下りる道は3筋あります。古代の南海道を継承し、峠まで谷筋を上る「古道」。明治8年の大改修により尾根筋を上る道となり峠付近では古道と合流する「旧道」。四国のみちに指定され、現在の遍路道にもなっている道です。それに、大正10年に開通した「新道」。この道は後にアスファルト舗装された車道で、極端なほどのヘアピンカーブを繰り返して峠を上り下りします。
私はできるだけ古道を通りたいと思っています。しかし、今の私は以前の一時のように鋸、鎌を携えた歩きではありません。無理はしません。

東海寺からは2k程、山が海岸まで迫る手前が坂元。大坂越古道の始まりです。
道傍に「大坂越え古道」の白い標柱、その横に一体の舟形地蔵。峠迄17丁と刻まれる二丁石。(ほど近い国道沿いにある文化14年(1817)に置かれたという「寿可多美乃地蔵(すがたみのじぞう)」の台座には「右大坂道 左なる戸」と刻まれている。)
その先の高所には「文化庁選定 歴史の道百選 讃岐街道 大坂峠越」のうす汚れた標示板。平成8年、文化庁は日本全国の歴史の道百ヶ所を選んだのです。四国ではこの道の他、土佐北街道笹ヶ峰越、梼原街道韮ケ峠越、野根山街道が選定されています。

大坂越古道の始点

二丁目の丁石地蔵

文化庁、歴史の道百選の標示板

鉄道を潜り、山側に猪害防止の金属柵を張った道。丁石地蔵が集められた道。
農小屋の前で人に会います。「うーん、この先行けるかのー・・」
小さな渓流を渡り新道に出ます。古道は谷を上る道、ヘアピンカーブを繰り返す新道を峠まで3ヶ所横断することになります。
道は次第に荒れ、最後の新道横断まではどうにか辿り着けますが、その先は草木繁茂。藪漕ぎの苦手の人は止めた方がよいでしょう。新道が旧道を横断しており、新道を介して旧道にエスケープできるので安心です。
道の途中から振り返れば、播磨灘の青い海、あの三つの島も見えています。

(追記)旧道へのアプローチルート
ここで、旧道へのアプローチルートについて少し詳しく紹介しておきましょう。
二丁石地蔵より南へ進むと「高徳線」の線路が見えてきます。その下をトンネルで潜ります。三丁石と古道の表示板があります。
左手の溜池の堤へ上がるのが古道のようですが、ここは水路を越える橋を渡って水路左岸に沿う道へ出るのがポイント。少し行くと畑の前、水路を渡る丸木橋。これを渡って獣防柵に沿った山際の道を進みます。
丁石が集められています。(4・7・8・9丁)少々荒れた道、水路を渡ったり、新道の石組が見えてきます。新道に上がり少々東、古道の表示板。次の新道横断箇所は、その先草木繁茂で戸惑います。赤テープ、ロープが頼りです。三つ目の新道横断以降は道筋は比較的明確です。やがて不動明王の近く、朽ちた旧道表示板を見て旧道に合流します。もう県境も近くです。(令和4年12月追記)



丁石地蔵のある道(古道)


小さな流れを渡って(古道)

 草木繁茂の古道

振り返れば海

以下、旧道ルートについて記しておきます。
現在の遍路道でもある旧道は、幅も広く緩やかでよく整備された道です。
道途中の案内板には様々なことが書かれています。物流の増大に対処するための明治8年の道改修が「歩荷(人が荷物を運搬する)」の道から「駄荷(牛馬によって荷物を運搬する)」の道への変換を齎したこと。この先の小さな平地には昭和10年の高徳線全線開通まで営業されていた「豆茶屋」(豆茶とは、半搗米と大豆を一晩水に浸け蒸し塩味を加えたものに谷川の清水を煮立てて入れたもの、とか)があって、おへんろさん接待の場にもなっていたこと。など、など。

旧道(土道)の始まり

 旧道の石畳

その先、道の山側にやや大型の不動明王がおられます。怖い表情ではなく、素朴で何処か少年の面影をもった懐かしいようなお不動さんです。
不動のすぐ先で、谷から急坂を上ってきた古道が合流してきます。その道は石だらけの荒れた表情です。
道は県境に沿うようになだらかに上り、途中明治11年の女性遍路と思われる墓を見て、峠の最高点に達します。

 不動が見える

 不動明王

 古道の合流

 峠近く

 峠の墓

峠を下る道は旧道と新道が交差し、複雑な急坂となっています。長い階段の道、特に雨の日は注意が必要でしょう。
卯辰峠への道を左に分け東谷に下ります。
古道は旧道の南側を下っていたと思われ、途中常夜燈が置かれ寺跡と思われる場所(清水庵跡)で旧道に合さっていたようですが、その道筋を追うことはできませんでした。


東谷の集落を望む(2009年4月) 金泉寺への道も見える

 階段を下る

卯辰峠への道の分岐

 清水庵跡付近

 大坂御番所跡

東谷には、天正14年(1586)阿波に入った蜂須賀家政が置いた大坂御番所の跡があります。
そこから、私は大宮、中村、関柱、吹田と昔から多くの人が歩いてきたであろう道を探るように辿って三番金泉寺まで行きました。更に、二番極楽寺、一番霊山寺へも足をのばしました。
道中や札所寺で同方向に向う結願間近の遍路姿の数人と声を掛け合い、また逆方向から来る緊張した面持ちの真新しい遍路姿も見かけました。
これまで見落としていた「四国中千躰大師」の照蓮標石(三番、二番間)や、庚申堂、寛文10年(1670)銘の地蔵、地蔵堂横の真念石にも出会えました。(二番、一番間の旧道)真念石は現在の遍路道を外れており目にする遍路は少ないと思われますが「右いど寺のみち、左里やうぜん寺の○○」(劣化が進み不明瞭ながら)霊山寺と井戸寺への道を示しているのです。(なお、極楽寺の境内の横から入る畑の中の遍路道は無くなっていました。)
そんな、こんな・・で、讃岐から阿波への大坂越の道歩きでした。

 金泉寺

 金泉寺

 照蓮標石(左)

 極楽寺近くの墓

 極楽寺

 極楽寺長命杉

 1、2番旧道の真念石


 霊山寺

 霊山寺


地図(大坂越付近)古道ルートにも注意

地図(大坂から金泉寺、霊山寺)
                                               (3月28日)


(追記)付録1   
1番札所から徳島への遍路道

何だか変なタイトルですが、ここで言っているのは1番札所霊山寺から2番、3番・・と順に巡って徳島に至る遍路道のことではありません。88番札所まで巡り終え歩きの円環を完結するため1番札所に戻り、船で和歌山に渡り高野山に参るといった状況などで、徳島の港まで歩くその道のことです。
その霊山寺から徳島への道は古くより(江戸時代)やはり遍路道と呼ばれていたようですが、道筋はどうなっていたのでしょうか。
この道、私自身で一時期に歩き通した訳でもなく、道中の写真などもありませんが、日記本文が霊山寺に到着したことでもあり、文献等を手助けに辿った結果をここに記しておきましょう。


霊山寺辺りから徳島への遍路道略図

江戸時代の初期、澄禅は井戸寺から始め、阿波、土佐、伊予、讃岐の札所を巡って大窪寺から切幡寺へ行き、ここから阿波十里十ケ所に参って霊山寺に至っています。
澄禅の「四国遍路日記」(承応2年(1653))(伊予史談会版)の終わりは「霊山寺ヨリ南エ行テ大河在リ、此河ハ雲辺寺ノ麓ヨリ流出テ渭津(:徳島の古名)迄廿里也。淀川ノ様ナル川ナリ。島瀬ト云ヲ舟ニテ渡ル、夫ヨリ井戸寺ノ近所ニ出テ大道ヲ往テ渭津ニ至ル。・・(略)舟ニ乗テ廿八日ニ和歌山ニ着。」と結ばれています。
文中の「島瀬」は原文では「嶋瀬」で鳴瀬とも読め、旧吉野川沿いの「成瀬」とも考えられますが、ここは今も新吉野川に伝えの残る「隅瀬の渡し」が当たるという説が有力のようです。
真念の「四国遍路道指南」では、徳島より霊山寺まで二里半の道筋として「〇徳島佐古町九丁目より右へ行やそう川、〇屋さう村、此間にあくい川有。〇高崎むら、此間にすミぜ川有。〇さだかた村〇しやうずゐむら、此間に吉野川といふ大河舟わたし、〇川さき村。」と紹介しています。
霊山寺を出て、今の坂東駅の北側を掠め南下、旧吉野川を川崎の渡しで越え、勝瑞城館跡の西を行き貞方、新吉野川を隅瀬の渡しで渡って矢三町へ、佐古六番で大道に繋がる。この道は霊山寺から徳島への最短ルート、徳島と大麻比古神社を結ぶ道「大麻街道」とも呼ばれ、古くより遍路道として知られる道で、江戸中期以降に残る道標や地蔵の分布を見ても最も有力な道筋とみてよいと思われます。
川崎の渡しから勝瑞に入った所、旧道沿いに文政13年(1830)の道標「(手指し)大麻宮 霊山寺道」と地蔵(寛延3年(1750))、台座に「是より北遍んろ道」。少し先の堂内に地蔵(安永2年(1773))、台座に「左遍ん路道」。その先、勝瑞字成長に残る丸彫りの地蔵座像(寛延2年(1749))には「右むやみち 左遍ろ道」と刻まれています。その他の立派な道標地蔵としては道筋は少し外れますが、勝瑞字正喜地の地蔵(宝暦11年(1761))があります。
道筋を示した地図を示します。北より 板東付近勝瑞付近北矢付近、この南は遍路道地図「阿波、徳島北部・地蔵峠付近」に繋がります。

もう一つ、阿波北部から徳島に至る有力な道は「旧讃岐街道」です。大坂を越えた道は金泉寺への道を分け大寺へ、旧吉野川を大寺の渡しで越え東中富、奥野、名田、新吉野川を名田の渡しで渡り不動本町、北島田町、蔵本元町を経て佐古八番に繋がります。
この道は当然のことながら道標、地蔵などの石造物は豊富。藍住に入ると、東中富龍池(りょうち)の地蔵(安政3年(1856))、これは見事な高地蔵です。そのすぐ南、東中富の道標地蔵(宝暦7年(1757))、「従是讃州金毘羅迄十八里/従是當国城下徳嶋迄二里」と刻みます。さらに東に進んだ奥野字猪熊に道標地蔵(宝暦4年(1754))、台石正面に「右遍路道/左徳島道」、台石左面に「是ゟ井戸寺迄五十七丁/是ゟ昇仙寺(霊山寺?)迄四十弐丁」と。この道も「遍路道」と呼ばれることがあったと知れます。
この道筋を示した地図は北から、遍路道地図「阿波、霊山寺付近」、東中富付近勝瑞付近北矢付近、で徳島へ。
上記の二つの有力な道の他、地図を眺めていると、旧吉野川を乙瀬の渡しで越し真っすぐ南下、奥野で旧讃岐街道に繋がる道も見えてきます。

さらにもう一つ江戸中期の資料、細田周英「四国遍礼絵図」(宝暦13年(1763))を見てみましょう。ここに遍路道として記されているのは二筋。(括弧内は現地名を当てはめてみました)


「四国遍礼絵図」(部分)

一つは「霊山寺より バントウ(板東)、カワサキ(川崎)、(吉野川)、シャウズイ(勝瑞)、サタカタ(貞方)、スミセ川(隅瀬)、タカサキ(高崎:今の不動東町)、(アクイ川)、ヤソウ(矢三)、(ヤソウ川:今の田宮川か)、(徳嶋)」とあります。正に前記一つ目の道です。(前記のように真念が「道指南」で紹介した道だと思えます。)
「四国遍礼絵図」に記されたもう一つの道は「霊山寺より (吉野川)、ヲトゼ(乙瀬)、ヤカミ(矢上)、モト(元)、ヲクノ(奥野)、ヒガシクロダ(東黒田)、(吉野川)、ヒガシクロダ(東黒田)、タカワ(高輪)、井戸寺」となっています。
この道は旧讃岐街道ではなく、前記の地図から想起される道筋、乙瀬で川を渡り南下、奥野で旧街道と交差、小塚辺りで川を渡り旧街道より少し西寄りに真っすぐ井戸寺に向かう道筋をとっています。
この道筋を地図に示しておきます。(略図に破線で示す。)北から南へ、板東付近 東中富付近 東黒田付近で井戸寺に至ります。
主要な道標とその刻文も示しておきましょう。
霊山寺を出る。大麻町板東鍛冶屋川、安永7年(1778)の道標、「右遍んろ道」。乙瀬の渡しの先、藍住町乙瀬出来地、大師堂前の照蓮道標。藍住町矢上、春日神社前の安政3年の道標、「右へんろ道 井戸寺江一リ ふ志ゐ寺江三リ/大麻宮江一リ 四国第一番江三十丁 乙せ渡江八丁」。藍住町奥野原、文政10年(1827)の道標「(右手指し)右へんろ道 十七番井戸寺〇〇」。藍住町前須西、地蔵堂脇の文化8年(1811)の道標「北左 井戸寺道 是〇二十〇〇/東右 一番霊山寺江一里八丁 讃岐金毘羅江十八里」。 小塚の渡し場近くに板野16地蔵12番、弘化4年の標石「溺死諸聖〇」。
吉野川を越えて東黒田の高地蔵前に嘉永5年の道標と「右いど寺道」と刻す道標。国府町東黒田、飯尾川を渡る手前、不動尊の脇「是より井戸寺江八丁/是ヨリ霊山寺江一里半」の道標。井戸寺へは直ぐ。

以上、霊山寺あるいはその近くから徳島に行く古くからの遍路道について探ってみました。
地図を眺めて昔の道を探ることは楽しいことではあります。 でも、ことによると思わぬ間違いをしているかもしれません。ご指摘いただければありがたく思います。    

                                           (平成30年10月、令和3年1月追記)

(追記)  付録2 「淡路街道とその脇街道」

淡路街道、下板道、中央道略図

ここで阿波の北東端に存在した道について触れておきましょう。
江戸時代の前期、徳島城の鷲の内を起点として、讃岐、伊予、土佐、そして淡路に通ずる五つの街道が整備されたと言われます。即ち讃岐街道、伊予街道、土佐街道、撫養街道、淡路街道です。
そのうち最も短い街道が淡路街道で、徳島城下を出て助任川渡り助任本町を左折、吉野川を古川渡しで越え、今切川を鯛の濱渡し、旧吉野川を牛屋島渡しで夫々越えて立道辺りで撫養街道と合流、撫養(昔は牟屋と書かれた)岡崎湊に至ります。ここよりは海路で淡路の由良、さらに紀伊に至る道程です。
淡路街道には二つの脇街道がありました。下板道(下板街道または淡路往還下道とも呼ばれる。)と中央道(淡路街道と下板道を結ぶ道。)です。下板道は、淡路街道のより海側を直線的に北上し撫養街道に至る(いわば近道としての)道と言えましょう。徳島の助任本町を直進、吉野川を別宮渡しで、今切川を加賀須野渡しで越えて居屋敷辺りで撫養街道に合流します。
淡路街道は官の利用が、脇街道は民の利用が多かったとか・・ 
街道、脇街道を含め道標は殆ど残っていませんが(3基のみを確認)、江戸中期から幕末の多くの地蔵尊を見る道でもあります。    地図 吉野川河口付近 北島町付近 立道付近



(追記) 付録3 讃岐国の海岸、島嶼、港を訪ねる(地図遊び)

讃岐国藩政時代の一つの絵図が目を惹きました。讃岐国地図(聖心女子大学図書館蔵)です。
全体にかなり精緻な作図で、特に海岸、島嶼、港に関する記述は他には見られない絵図と思われます。
作成年代は不明ですが、図中に各郡の石高が掲載されており、藩政期の石高推移から推定すると、18世紀の中頃、宝暦年間頃と思われます。
日記本文では、香川県の最東端引田辺りの海岸を歩きました。この辺から始めて西に向って(絵図の左から右へ)海岸を辿って行きましょう。粗雑な表記で申し訳ありませんが、藩政時代讃岐の海岸の様子、島の様子、船便の様が生き生きと蘇ってくる気がします。また久しぶりに始めた「地図遊び」の醍醐味といえましょうか・・ 誤読蒙御免。
現在の地名・島名等を細字で、絵図に書かれた当時のそれらや事柄を太字で表示しています。紛らわしいですが、島名・地名等が重なっている箇所は細字が現在、太字が当時となります。


讃岐国地図 (宝暦頃?)                    (クリックすると拡大します)


絵図部分 (弘田~津田)

弘田を発つ・・
    馬宿、引田、古城山(城山) 弘田の沖に三つの島あり
                  松島 沖ノ嶋 松有石山、高廿間(実高32m)
廻り七十四間人家ナシ
                  通念島 弁財天嶋 松有石山、高十八間(実高25m)廻り三丁五十七間人家ナシ
                  毛無島 殆ど岩礁 ケナシハヘ(ハヘ:殆ど海中にある暗礁、岩礁をいう)
       弘田沖近くに「平ハヘ 満汐ニ深一丈三尺干汐ニ六尺」 「紀ノ国ハヘ 満汐ニ三丈干汐ニ二尺九寸
              古城山 山ノ上ニ池有十間ニ九間深五尺 (現在も「化粧池」として残る)
タトウ鼻(現在は鹿浦越岬と呼ぶ)の沖
       東嶋 石山高十六間廻り一丁 二子嶋(双子島) 石山高十六間廻り一丁五十一間人家水ナシ
       西嶋 石山高十七間
(実高26m)廻り二丁廿七間人家水ナシ
白鳥大神宮 
西の松原 河口(湊川)「滝口」  東南風舟掛ヨシ    (舟掛:舟を繋いで停めること)
三本松  古舟番所 磯ヨリ沖へ廿七丁南風舟掛ヨシ (少し西、小磯の辺りに「番屋」「番屋川」の地名が残る)
北山山地の沖に女島、丸亀島がある。
             女嶋 笹竹有高十六間廻り五丁三十八間人家ナシ
             尾神嶋 萱山高四十四間四尺(実高69m)廻り五丁十四間人家ナシ 東南風舟掛ヨシ
             この付近には五山岩他多くのハヘが記されている。
             柱状節理で知られる絹島は絵図には見られない。あるいは鶫部がそれか。
             鶫部 高十五間廻り三丁五間人家ナシ(絹島は実高30m)
             沖迄廿六丁東西南風舟掛吉 北風ニ入浪アリ
津田の東 鶫部の鼻の沖に名古島、西に弁天島あり。
             ナコ嶋 汐行コモリ大小舟往来、近くにカシラ白ハヘ 仲ノイソリハヘ あり
             弁財天
鶴羽(霍羽)の港     磯ヨリ沖ヘ一里六丁西風ニ舟掛吉
津田の港         磯ヨリ沖へ一里六丁西風ニ舟掛吉 但 強入浪有 大小舟出入



絵図部分(猪塚~高松城下)

猪塚の港         沖に猿子島 鷹島がある。
             ハタ嶋 東西一丁十二間  竹嶋 ササ竹有廻り六丁高廿一間 東西ニ舟掛吉 
             竹嶋沖ニハヘあり ハヘ満汐ニ深九尺五寸 干汐ニハ深三尺
馬が鼻から小田の港へ   岬の先に馬歯、遠見番所あり  小田に弁財天
             小田港 磯ヨリ沖ヘ廿三間 東南風ニ舟掛吉  ハヘ満汐ニ深一丈ニ尺干汐ニ深五尺
大串岬          薬岩
岬より長浜へ       長濱 磯ヨリ沖ヘ廿八丁 南風ニ舟掛吉  白方 弁財天、東南風西風ニ舟掛吉
小串岬より志度港     新珠嶋
房前港          房前浦 磯ヨリ沖ヘ一里十五丁大小舟出入有、ニ丁沖ニ舟掛有南東西北風吉
太鼓鼻          篠尾 高女木の沖  高嶋 萱山高四十間廻り廿丁 人家水ナシ
竹居観音岬        観音崎、竹居鼻の沖 稲毛島 稲木嶋 萱山十三間(実高20m)廻り九丁三十間人家水ナシ
                 鎧島  鎧嶋 萱山高三十間(実高41m)廻り五丁 人家水ナシ 西風ニ舟掛吉
                 兜島  冑嶋 その西に瀬長四丁栱廣三丁 干汐ニ干上ル
根太鼻へ         三与ケ鼻 その沖ニ 弁天島 矢竹島、大嶋、乃嶋、ハタカ嶋 
        大嶋の沖に男木嶋、女木嶋、柏嶋、大ソ洲(ハヘ)連なる。ハヘは満汐ニ深六尋、干汐ニ三尺
庵治港          庵治濱分 磯ヨリ沖ヘ一里四丁満汐ニ四十石舟出入有テ、干汐ニ五丁廿間干上ル
高松城下
ヘ   沖に屋嶋を見る 檀浦、駒立石、祈石、洲崎、相別川
        城下舟番所   西鳩崎ヨリ屋嶌長崎ノ鼻ヘ一里十二丁、海手舟番所ヨリ(屋嶋)枯木村ヘ三十四丁
                屋嶌天王ヘ廿九丁
                高松ヨリ引田碁ノ浦迄十里ニ丁廿二間
(実は阿波國碁浦(現鳴戸北灘町碁浦))
                丸亀堺土器川迄六里十九丁三十五間
        西濱舟番所
(現瀬戸田町)  備前鞆ヘ十六里 淡州三原ヘ二十一里 阿州徳嶌ヘ廿一里
                      播州室ヘ十八里  備前岡山ヘ九里
        穴薬師舟番所
(現西宝町辺り)  磯ヨリ沖ヘ十七丁廿間 干汐ニハ三丁廿間干上ル
        笠居口
(現香西本町辺り)    磯ヨリ沖ヘ十八丁三十間 干汐ニハ沖ヘ五丁干上ル


絵図部分(高松城下~惣社)

住吉鼻             柴山西南風舟掛吉 干汐ニハ深一丈、ハヘ水底ニ有
神在鼻
(現神在辺り)      東南風舟掛吉 汐時不嫌
生嶋
(現生島町辺り)  古舟番所  磯ヨリ沖ヘ十二丁五十間 干汐ニハ磯ヨリ二丁干上ル
                  西南風ニ舟掛吉 汐時不嫌 高峯下風強
高峯山
を過ぎ 平石、コマハリ鼻(現紅ノ峰鼻 亀水(たるみ))
            古舟番所  磯ヨリ沖ヘ十二丁 干汐ニハ沖ヘ四丁干上ル
                  東風ニ舟掛吉 汐時不嫌
大崎ノ鼻、小槌瀬戸を越え小槌島 大崎、大槌、小槌 萱山高五十間(大槌実高170m)(小槌実高112m)
                廻り一二丁人家ナシ
大崎
を越え黒越山との間(現木沢港 「番屋」の地名残る) 古舟番所
                  磯ヨリ沖ヘ一六丁四十間、汐干ニハ四十間干上ル
                  西風ニ舟掛吉 汐干時不嫌
宮ノ鼻、アミノ浦          東風舟掛吉 汐時不嫌
王越町乃生       乃生  舟番所 磯ヨリ沖ヘ十三丁 汐干ニハ二丁廿間干上ル
乃生岬を越える     カフトウ 西南風舟掛吉
            乃生崎鼻 遠見番所 東風ニ舟掛吉 汐時不嫌
惣社、西梶、東梶、林田町、綾川を渡り川尻、坂出に至る。
惣社 (浜にシヲの表記)古舟番所 磯ヨリ沖ヘ廿七丁四十間 汐干ニハ十三丁干上ル 荷舟不入


絵図部分(塩飽嶋付近島嶼部)


絵図部分(梶取~船越)

梶取 林田口 江尻        磯ヨリ沖ヘ廿五丁 磯ヨリ十一丁干上ル 荷舟不入
       塩濱        磯ヨリ沖迄十八丁・・
坂出 聖通寺山麓 御供所 弁財天 
沖に洲あり
       洲長十七丁 干汐ニハ干上ル(埋立地に「番ノ洲」として名を残す)沖に 四阿弥(沙弥島)二表(島)
坂出から丸亀の沖に塩飽諸島に連なる多くの島がある。絵図には次のように記される。
       瀬居嶋、小瀬居嶋、小与嶋、与嶋、カマシマ、ハサシマ、塩飽内岩里、塩飽内松嶋、塩飽内櫃嶋、
       塩飽嶋、園ノ洲、廣嶋、カハラス
長三十丁汐干ニハ干上ル、佐柳本嶋、塩飽内手嶋、塩飽内尾嶋、
       高見嶋、木笠嶋
人家ナシ 十間洲有洲上深六尺)等
       (現在、多くの島は瀬戸大橋の橋脚の島および橋に連なる工業地帯(埋立地)に取り込まれている。)
青ノ山を南に見て 宇多津、土器を経て丸亀へ
       宇足津 古番所 磯ヨリ沖ヘ十二丁 沖迄八丁廿間干上ル  満汐ニ 五十石舟出入ス
       ウブスナ鼻
(宇夫階:青ノ山の北端)
             沖に上間嶋(上真島)地ヨリ九丁東ノ方舟掛有南洲有 廻り五丁高九間人家水ナシ
               下間嶋
下真島)ヨリ廿五丁 廻り三丁半高廿間人家ナシ 南洲有
          土器      土器川領堺川手分 汐入 満汐ニハ 五十石舟出入有
               川ハ三十五間舟渡 干汐ニハ川尻歩渡 汐干ニハ沖八丁干上ル
丸亀港         丸亀城下 舟入出ヘ向テ方十五丁汐時百石舟出入ス
                 塩嶋ヘ三里 備前下津井三里半 備後鞆ヘ十里 宇多津一里
多度津港   今津、中津、下金蔵、堀川、地蔵鼻を経て多度津
東白方         弁財天鼻  北向 三十石舟出入ス 丸亀迄一里廿丁
西白方、海岸寺より見立の詫間港へ
            西白方、屏風浦、福嶋、単嶋、大見松崎古番所
               沖にカラ嶋(現唐島(地続き)) 廻り三丁五反高七間
            吉津   干方廿五丁 汐時ニハ 百石舟出入ス
船越、箱浦港へ     越八幡、箱浦、箱添
               箱添
沖に粟島あり  此ハヘ上汐時ニハ三尺干汐ニハ出ル
                  箱添マデ三十丁シシ嶋迄四十丁 嶋高三十六間
(実高109m)廻り二里人家水有
                  (絵図には無記なれど粟島、その西にシシ嶋(志々島)がある。)


絵図部分(下金蔵~三崎)


絵図部分(三崎~余木崎)

三崎をまわり仁尾町家の浦を経て仁尾港へ
            三崎大明神、家浦  舟入出干方五丁 汐時ニ 三十石舟出入ス
               沖に大蔦嶋あり
            有明濱    沖に伊吹嶋あり 廻り一里高十三間(実高122m)人家有大雨後廿日計水有
観音寺
へ        観音寺、坂本、 川口西向干方廿丁 汐時ニ 百五十石舟出入ス 西風ニ舟掛ナシ
            備後鞆迄十里  福山迄十一里
余木崎へ        和田濱 地ヨリ十五丁沖上ハヘ有(大汐ノ時)、干汐ニハ廿間出ル 汐時岩上深一丈
                    丸亀マデ海上十三里  豫洲河江マデ海陸廿一里
            箕浦
            鳥越      洲宇間郡ヨキ村ヘ出ル  観音寺ヨリ鳥越マデ三里
            ヨキ崎     丸亀ヨリ伊予堺鳥越マデ陸八里十七丁

                                            (令和5年5月追記)

付録2の追記「両
墓制習俗について」

両墓制とは、遺体を埋める埋葬地(「埋め墓」)と、詣るための墓(「詣り墓」)の二つを作る墓制習俗の一つ。(その発生、展開は江戸期以降という。)詣り墓には、石塔を作るのが一般ですが、埋め墓には墓標のないもの、木製墓標や石塔を建てるものなど様々であるといいます。
佐柳島、志々島、高見島など塩飽諸島では、埋め墓は土葬から火葬に変わっているものの、習俗形式としての両墓制を今も見ることができます。                                 

                                           (令和5年7月追記)

 

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