四国遍路の旅記録  三巡目 第5回 その2

昔からの生活道の趣 (平成22年10月1日)

今日は窪川から今年春に区切った土佐佐賀まで。
ここも市野瀬から先は、協力会指定の国道は通らず、四国の道を通ります。全長22kほど、午後の早い時間には着くでしょう。
けっこう荒れていて薄暗い市野瀬遍路道を下り、自動車修理工場の所で国道を横切り、四国の道に入ります。
家の前から墓の前、ついついそのまま進んで山道に入り道を失いました。まさかこんな道が四国の道である訳はない・・下に畑は見えていますから藪漕ぎで畑の畔道へ。
「あんたまー・・どこから・・」と畑のおばあさん。「いやいや・・道ばまちごーて・・」それを機会にしばらく世間話。正しい四国の道を教えてもらいます。


市野瀬の先、四国の道を行く

露の彼岸花

彼岸花と蝶

秋の空、水鏡

拳の川天満宮

拳の川天満宮



秋の空


伊与喜川の畔

畑の畔には彼岸花が露に濡れて光っていました。そのあと一度国道に上って、また川の畔のみちに降ります。それから伊予喜までは国道を左上に見ながら伊予喜川の右岸を辿る道なのです。この国道と併行した四国の道が何故遍路道に指定されていないのか不思議な感じです。全体の距離は国道と殆ど変わらない。づっと川に沿った道ですから、高低変化も殆どなく国道を通るより楽です。そう、自転車の道としても適してますね。
それに何といっても今は通る車も殆どありませんが、古くからの生活の道。人々と神々が今よりもっと近かった時代の道であったことの証は数キロ毎にある神社。市野瀬の河内神社に始まり、拳の川の天満宮、荷稲(かいな)の八坂神社、伊与喜の熊野神社、坂折の曽我神社、天満宮と続きます。
神社をひとつひとつ訪ねる道中の間は、久しぶりに覗いた秋の雲を浮かべる青空。
青空の下、ゆったり流れる川の水鏡、水草の色に魅せられます。ほんとによい道です。
途中、川に面して森の中の一軒家といった風情の小奇麗な家があります。この地に憧れて家を建てた人の気持ちが分かるようでした。
道の何処かで遍路道しるべ札一枚を見ました。誰かが戯れに下げたのかもしれません。
伊予喜の手前の道で休んでいると、同宿の香川の人がやってきます。この人もこの道が気に入ったよう。お互いこの道の良さを語り合いました。
伊与喜の駅から電車に乗って香川の自宅に帰るとのこと。駅で杖を振って別れました。


熊井トンネル

熊井トンネル

熊井トンネル

熊井トンネル

熊井トンネル

伊与喜からは遍路道もこの四国の道と合流します。あの熊井トンネルを経由する道です。熊井トンネル。明治38年に完成した延長90mの煉瓦造トンネル。昭和14年に新道が出来て以来、地元の生活道として通る人も少ないながらよく保存されています。
私にとっては3度目の通行ですが、入口から真っ暗な空間を通して望む出口の明かり。そして中を歩いて、暗黒の道を一人通過して異次元の世界に渡るような感覚はそう滅多に味わえるものではありません。
異次元の世界では輝く緑の樹木に彼岸花が仄かな赤い色を添えていました。
ただ、熊井側のトンネル入口の上に彫られた文字の意味、今だに分かりません。

そして土佐佐賀の街へ。この度の区切り遍路の前半、土佐の旅の終わりです。


番外、四万十川中流域を歩く  (平成22年10月2日)

JR予土線で窪川から宇和島までの移動です。
変な遍路・・どうして?土佐佐賀から宇和島までは、既に今年の春歩いているからです。逆打ち気味でしたから、厳密には宇和島から土佐佐賀ですけれど。
この予土線の高知県側は、四万十川の中流域に沿って走っています。
一昨年の秋、四万十の下流域に沿う道、江川崎から中村近くまで32kを歩いています。感激の歩きでした。折角ですから、その上流域も歩いてみようと思い立ったのです。鉄道の駅では十川(とおかわ)から江川崎までです。
この辺りの四万十川は深く山に食い込むように存分の蛇行を繰り返しています。新しい国道(381号)と鉄道は、その蛇行をショートカットするようにトンネルと橋で通じているのです。でも川の両岸には昔からの道と点々とした集落がありますから、できるだけその道を歩いてみたい。実際に歩いた距離は20kほどでしょうか。
天気予報は昨日までは雨を告げていましたが、どうにか持ちそう・・でも曇り空。そう、天気だと四万十川の水は活き活きとして輝くような色を見せるのですけれど。今日、川の水は、その傍の集落は、そして沈下橋は・・どんな表情を見せてくれるでしょうか。
予土線の汽車(気動車のこと)は上下夫々1日4本ほどですが、朝夕の便は殆ど通学用となります。今日は土曜日。窪川の辺りから乗ってきたのはジャージーを着た女高生二人だけでした。それも学校のある土佐大正で降りてしまうと車内は私一人。
十川の駅で降りて最初に寄ったのは道の駅「四万十とおわ」。大きな市場や食堂、サイクルセンターなどがある広い道の駅ですが、早朝でまだ開いていません。
国道から川に沿った道に入ります。川傍の道は大抵は1.5車線の簡易舗装の道ですが、所によってはもっと細い、山道のような所も。
道に沿って所々に集落があります。道や畑で出会う人、特に若い人から「おはようございます・・」と元気な声と笑顔をいただきます。この道、遍路姿の人など滅多に見ないでしょうに、訝ったような表情ひとつせず、声をかけ話かけていただくほどうれしいことはないのです。
この辺りの四万十は川原に岩が多く水量はそれほど豊かではありません。曇天を映した水面は白い顔。

四万十川


四万十川


四万十川


半家沈下橋

半家沈下橋



淀み


川原


彼岸花の咲く道

最初に現れた沈下橋は、半家(はげ)沈下橋。名前はよくない・・けど
森の中から発し森の中に沈んでゆくようなこの沈下橋。それはそれは美しい橋でした。
橋の傍で釣り竿を持った若者に会いました。「魚釣り・・?」 「ええ、釣ったり、突いたりしてねー・・、おじさん八十八か所廻り?」とちょっと不審顔。「今日は外れててねー・・」 
次に出会ったのが中半家沈下橋。この橋の近くには鉄道橋と車道橋とが併行しています。
強度上問題があるのか、この沈下橋には車止めがあり車両は通れません。
蛇行する川が袋の形をつくり、その口に当る部分が峠道になっている所があります。その道も通ってみました。道は彼岸花で飾られていました。目に眩しい赤い色。
この秋の遍路では、ほんとによく彼岸花に出会いました。一際暑かった今年の夏が開花を遅らせた所為もあるでしょう。
道の終り、江川崎に近くなってから出合ったのが長生沈下橋。
その袂に座って見ていると、引っ切り無しに軽トラや軽乗用車が通って行きます。この沈下橋は人々の生活のなかで堂々と生きている橋なのです。
川原に止まった軽トラから男が一人。繋がれた舟に乗って、仕掛けた罠の点検のようです。さて、何が獲れるのでしょうか。
こういう舟、手漕ぎだけではありません。ちゃんとモータを持っているのです。軽いポンポン・・という音が川面のこだまします。


四万十川


四万十川


中半家沈下橋


中半家沈下橋


釣り人

長生沈下橋 

河原 

江川崎に近くなってやっと食料品を売る店を見掛けます。やっと遅い昼食にありつけます。
曇り空を映した川面は輝くように美しくは無かったけれど、四万十はやはり四万十。淀みの水は深い青色で、河畔の彼岸花が咲く道で出会って声を掛けていただいた人の表情とともに、きっと終わってから振り返れば、いい旅をしたと思いだすであろう・・そんな四万十河畔の遍路番外の道草でした。

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四国遍路の旅記録  三巡目 第5回 その1

土佐の国から飛んで伊予の国へ

この春の三巡目第4回の遍路は、宇和島から旧宿毛街道を上下して、月山神社を回って中村、土佐佐賀までくるという変な逆打ちルートを選んだため、この第5回は、土佐の歩き残した所と、飛んで宇和島から松山まで歩くということになってしまいました。
須崎から二つの峠を越えて37番岩本寺へ。それから土佐佐賀まで。
雨の憑かれていました。でも山道以外は、協力会指定の国道主体の道ではなく、「四国の道」を選んで歩くというヘソ曲がりぶりです。
宇和島への移動は鉄道。でも、ただ汽車に乗っているだけではありません。一昨年秋に歩き魅せられた四万十川のその川上、中流域を歩こうというのです。
宇和島からはまた雨でした。41番、42番、43番を打って宇和町へ。歩いたのはトンネルと車道。中心は卯之町の古きもの。観光でした。大洲、内子も観光主体の落第遍路。
一念発起して松山に行き、久万から旧遍路道、ほうじが峠越えに挑戦。さて、どうなることやら。小田からはおとなしく真弓トンネルで43番へ。
45番の後はまた道草。旧遍路道、六部堂越えに挑む。結果は失敗でしたが・・終りは、また雨の中、46番から51番、松山へ。

今回は雨に祟られ、その所為ではないけれど失敗が多かったかも・・
でも、四万十川は美しかったし、夏の異常な暑さのせいで遅れた彼岸花が、道々で待ってくれていました。ありがたいことです。  
では、スタート・・                     (平成22年9月29日~10月8日)



安和から二つの峠を越えて  (平成22年9月29日 30日)

須崎の街

午後、須崎の駅に降り街を抜けると、小高い山の上に鐘楼が見えます。別格第5番大善寺です。お参りして、門前の柳屋旅館の趣あるランプ看板などを眺めて歩きます。道の駅などがある川の畔を過ぎ坂道となります。トンネルを抜けるとやがて、ほっとするようなあの安和の海が見えてくるのです。
実は、今日はゆっくりで6、7kも歩いて、安和の宿に早めに入るつもりでいました。ところが、天気予報を聞くと明日は雨らしい。雨の中の二つの峠越えは辛い・・ということで焼坂峠を今日歩いておくことにしました。

安和の海

この焼坂遍路道は、安和から国道56号を右折、鉄道に沿う道を経て山道に入り、峠までの0.5kが直登の急坂になっているのですが、現在砂防ダムの工事中。前半の0.3kほどが通行止め、2k以上もある迂回路を行きます。
この焼坂峠を越える道は、遍路道とは別に等高線に沿うようにクネクネと曲がった未舗装の車道が通じています。迂回路はその道の一部です。車道は、地元の若い人に聞くと、この山で採れる名産の虎班竹を運び出すための林道だろうと説明されますが、元々は明治時代に開削された県道であったようです。安和から久礼に通ずる海岸の道、さらに焼坂トンネルを通る国道が開かれるまでは、メインの交通路であったらしい。
焼坂遍路道がそれより古くからの道であったことは、真念の「道指南」に「○カとや坂(角谷)○あわ村○やけさか峠、右の方冷水有。○くれ村・・」(例によって( )内は該当すると思われる現在の地名) とあることからも分かります。
迂回路を通ることにより0.2kほどの急坂で峠に着きます。楽といえばそうですが、距離は長くなります。やはりこういう峠道は、急坂をゆっくり、ゆっくり上るのが相応しいようで・・もっとも砂防ダムの工事は、もう完了しているように見受けられ、元の遍路道が回復するのも近いのではないかと思われました。

迂回路と遍路道の交差

焼坂峠からの眺め

焼坂峠からの眺望は1個所だけ。安和の街と海が望まれます。
切通しの峠を越えて2kほど下った所で、高速自動車道の開設工事中。その傍の道を通ります。やがてこの道も自動車道の側道として舗装化されてしまうのかと悲しくなります。
高速自動車道の延長開設工事は四国の各所で行われています。もちろんそれによって恩恵を受ける面があることは分かりますが、自然をこうまで破壊して無理やり道を造ることが本当に妥当なことなのでしょうか・・大いに疑問を感じます。

さて、ここまでは9月29日分。ここから30日の朝です。
やはり予報通り雨です。カッパを着てそえみみずの山道歩きです。
国道から分岐、県道41号に入ると、上空の高い所に巨大な陸橋が見えてきます。工事中の高速自動車道です。こんなに高い所を通さなくても・・と思いますけどね。
遍路道の山道に入る直前に、昨年1月にオープンした31号へんろ小屋「そえみみず酔芙蓉」があります。ここは、お接待おばさんとして遍路の間では有名な奥代初子さんご縁の場所。奥代さんにお会いしたくて、この道を歩く遍路もいるとか。今は早朝だし、雨だし・・誰もいません。寂しいへんろ小屋でした。

自動車道を仰ぐ

へんろ小屋酔芙蓉

自動車道を潜って

山道に入ってすぐ高速自動車道の下を潜ります。これが悪評高いコンクリートの階段道。下がってまた上がります。雨の中、滑らないように注意するので一層膝に応えます。ただ、このコンクリート道、思ったより長くはなく休憩所の先、道標にもなっている遍路墓の先からは、今まで通りの山道が続きます。急坂ではなく緩い上りなのですが、二日目の遍路にはやはり相当厳しい道です。いえ、いえそれがいいのですけれどね・・
七子峠に着きます。期待していた峠の茶屋はお休み。
茶屋前のベンチで思います。前半のコンクリート道の所為で、楽という面で大坂道との差は更に開いた感じだと。この日の夜、大坂道を歩いたという人と同宿でした。雨の心配な大坂道ですがこれくらいの雨ではどうということなかったそう。
ちょっと気になったこと。そえみみず道を出て七子峠に向う県道の傍に、石神さまと呼ばれる舟形石の碑があります。すでに戦国時代からあったこの地区特有の貴重なものだとか・・板に手書きの解説書。早くちゃんとした解説板にしてほしいものですね。

そえみみず道の終り

山辺の道

影野への道

影野への道


七子峠から影野までは、山辺の遍路道を通ります。彼岸花も残っていますし、その他にも草の中から顔を見せる様々な花が。前回も通りましたがこの度も、如何にも自然のなかといったその雰囲気に感動させられる道でした。
37番岩本寺に行く前に、旧札所高岡神社(仁井田五社)に向います。
国道56号ではなく、直接高岡神社に向う「四国の道」を通ってみたい。実は雨でなければ、七子峠から影野の寄らず四国の道の魚ノ川に直接通づる峠道を通りたいと思っていたのです。
影野から高岡神社への四国の道は、協力会指定の平串大鳥居分岐で神社に行く道より3kほど長くなりますが、メリットとしては、天然記念物のヒロハチシャノキ見物、静かな田園と山辺の道、それに四万十川の眺めというところでしょうか。雨の日は国道では常識の、トラックからの跳水を浴びる恐れがないというのも利点でしょう。
さて昔の遍路道はどうだったのでしょうか。また真念さんの登場。
「○そえみみず坂○とこなへ(床鍋)村○かげの(影野)村、武兵やどかす。○かい坂(替坂本)村○六たんち(六反地)村○カミあり(神有)村○かわゐ村、しるし石あり。此間に少山越、うしろ川、引舟あり。これハねねざき(根々崎)村善六遍路のためにつくりおく。過て、大河洪水の時は手まえの山に札おさめどころあり、水なき時は五社へ詣。・・」とあります。ほぼ協力会の国道、平串大鳥居分岐、高岡神社への道そのものとと思われます。
洪水の時の札納め所とは、現在の滝山神社あたりでしょうか。
私はヘソ曲がりだから、影野から四国の道を行きます。
2.4kで天然記念物のヒロハチシャノキ。案内の矢印がとんでもない方向を向いていたもので迷ってなー、大きなテレビの音が家の外まで漏れているお宅の前で「たのもー・・」と一声。
おばさんが出てきて、うれしそうに「あっちじゃー・・」
ヒロハチシャノキというのはムラサキ科の樹で、九州大宰府のものと並んでチシャノキの巨樹、樹齢700年と言われるそうだ。と説明板に書いてある。大きな空洞内に小祠があり乳を授けるという謂われ・・とも。

ヒロハチシャノキ

笹の越トンネルを経て、山辺の道や田畑の中の道を辿り、四万十川を渡る。高岡神社まで3.6kの標示の場所に五社の一の鳥居があります。
ここより五社の境内。昔は当然前の川あたりで身を清め参拝したのだそうです。この五社の境内が開けていて、何処となく明るく、それでいて幽玄な雰囲気を醸し出しているのは、大河四万十が大きな役割を果たしていると感じます。偉大な川です。ましてこの季節は、広い河畔の田圃は黄金の稲穂とその狭間の彼岸花。


四万十川を渡る


四万十川


四万十の畔

五社東大宮

そこから少し行くと、宮内という所に大日堂があります。千年の昔より大日如来を祀ってきた古刹大安寺の故地であると言います。
高岡神社の五社。東大宮、今大神宮、中ノ宮、今宮そして長い石段の上の森の宮、すべてにお参り。私にとっては二度目のお参りですが、簡素で何処か尊い五社の空気の清々しさを改めて感じたものでした。神社前の電柱の工事にきていた電力会社の人の視線を背中にじっと感じたお参りでもありました。ここに参る遍路は少ないのかもしれません。

(追記)「五社鎮座伝記」
「南路志」には仁井田五社の創始伝記が記されます。極めて興味深いものですのでここに略意記しておきます。

諸書の伝えに基く五社の伝記は次の如し
三十代欽明天皇のとき、三韓大乱に際し、伊予23代小千守興が渡唐する。戦いのなか唐女との間に男子一人をもうけ帰国。その子が成人し父訪ねて伊予の三津の浜にあがり、父子対面する。
子は氏を「河野」、姓を「越智」と称し、小千廿四代玉興と名乗る。伊予生まれの異母弟玉澄との間が不仲となり、玉澄は神託を得て土佐の国に移る。上陸地を御畳裏(ミマセ:後に御畳瀬)(長岡郡仁井田の地)という。
神のお告げにより西方の山の麓に移る。その地に老翁一人鍬をかたげて現れる。老翁は此の地の地主で名を仁井という。玉澄は仁井と力を合わせ地をひらき社を建てた。(玉澄は名を新田橘四郎小千玉澄と云い仁井と同名であったとも)神名、仁井田大明神。
玉澄は自らの祖神一女四男を併せ祀る。玉澄にしたがって伊予より来た人々は、上陸地の長岡郡仁井田に社を祀っていたが、新たに開いた高岡郡の地まで遠くなったため、この地に仁井田大明神を祭り、村号も仁井田村を称したとも云う。(長岡郡仁井田(種崎の東に今も残る地名)の仁井田神社は高岡郡の仁井田大明神を勧請したとも伝わる。)



岩本寺山門

岩本寺の大師像

今の札所、岩本寺までは、3.2k。窪川の街中を抜けて、珍しくも風鈴が下がる立派な山門を潜ります。今晩は宿坊に泊めてもらいます。
宿坊仕切りの女性には何かと面倒を見てもらいます。ぐっしょり濡れた靴に古新聞をぎっしり。3度は詰めかえろとご指導。同宿は、神戸の自転車遍路60代、香川の50代、徳島の車遍路。マイクロバスの団体10人ほど。自転車さんとは後に不思議な出会いが待っていました。
あの独特の天井画のある本堂での朝のお勤めもよいもの。ありがたい宿でした。


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