四国遍路の旅記録  平成25年秋  その2

久礼から大坂を越え岩本寺へ



朝の安和の海

昨日に続いてまた安和の海を眺め、電車で久礼に移動します。安和の海は今朝も静かでした。

久礼から七子峠への遍路の道は、添蚯蚓(そえみみず)道と大坂道が充てられてています。
今回は大坂道を行きます。これで私は、夫々の道を2回づつ歩いたことになります。
この区間、江戸時代の遍路記を見ると殆ど全てが添蚯蚓坂の記録であって大坂が現れることはありません。
古くから土佐往還と呼ばれた主往還は、尾根を通る添蚯蚓道であったということです。しかし、この道は標高差が400mもある厳しい道。それを解決するため、現在国道56号となっている道の近くに、久礼坂という道や、その南の谷の大坂道が開かれたという経緯もあるようです。

追記「久礼坂道について」
中土佐町久礼から七子峠に向う道。最も古い道は中世以来江戸期を通じて主道(往還道)であった添蚯蚓坂。そしてその後に南の谷「奥大坂」集落を経る道を延長した奥大坂道(遍路道)がありました。

明治に入り、添蚯蚓坂の山道の不便さを解消するため建設された道が久礼坂道であったようです。(久礼坂道の開通は明治25年という記録もあります。この時期は他の国道化整備に比べ早期です。このことが明治後期より始まる車道化としての目的を十分達成することができなかった理由になったとも考えられます。)
明治から昭和前期の久礼坂道(旧国道56号)は、久礼から七子峠まで延長9.5km、狭く急カーブの連続で「魔の久礼坂」と呼ばれたといいます。そして、昭和42年、久礼坂の北方にその道に接するように建設に着手されるのが新国道56号であったのです。
明治末期の地図(今昔マップ)を見てみましょう。北から南へ、添蚯蚓坂、久礼坂道(旧国道)、奥大坂道と並ぶ三つの道が、その存在した役割を果たした時を主張しているように思えます。
国道56号が通じた現在、久礼坂道の現状はどうなっているでしょうか・・ 久礼の街から西へ太陽光パネルが広く並ぶ山中を過ぎ、中坂峠辺りまでは生活道です。(奥大坂遍路道の一筋北側の道)それから西は・・ 危険が伴うので勧められることではないでしょうが、廃道マニアも結構おられるようです。その情報によれば、新国道と繋がる標高200m辺りまでは通行可能。それより先は廃道、通行不能のよう。役割を終えた道の行く末を見る寂しさを感じます。


明治末期の地図、添蚯蚓坂、久礼坂、奥大坂道
                                  (令和5年6月追記)


(道草を食う) 古い道を好んで歩いていますと、往還と呼ばれるような主要道は、近くに川に沿った平らな地形があっても、尾根を通る山道が多いということに気付かされます。最短距離を結ぶということもあるでしょうが、出水などの時の道の保全ということを考えてのことなのでしょうか。実際、尾根に残る、今は利用されなくなった古道の堀割を見ることが何度かありました。

さて、この大坂谷川に沿った道は、花と緑と水が織りなす、なかなか見事な人里の風景を堪能できる道・・と私は思います。ただ、奥大坂辺り、天空に架る異様な四国横断自動車道は目を瞑って通りたいですね。
最後の山道、大坂は急坂ですが距離が短いので、添蚯蚓よりづっと楽です。

 大坂への道、彼岸花

 大坂への道、田圃と彼岸花


大坂への道

 七子峠へ

七子峠を下り、山裾を通る緑溢れる古道。今夏の異常な暑さは、既に彼岸花の姿を殆
ど消してしまっていましたが、床鍋青木丸と呼ばれる場所にあるという一里塚跡、そこにある徳右衛門標石を見られることを期待していました。
五社迄三里の場所。標石は五片に破断していますが、文化十一年十月の年号が入っているらしい。それは、徳右衛門が亡くなる二ケ月ほど前、最後の標石と見做されています。
私は以前この辺りを通ったとき、多くの石造物群を見た記憶があります。でもその頃は徳右衛門標石のことは知らなかった・・ 
この度は、道を行ったり戻ったりしながら探しましたが、見付けることはできませんでした。少し行った民家で尋ねてみました。
「一里塚の松はもう随分前に無くなっとるよ・・ああ、石標ね、それももう今は無いよ・・」
と素っ気ない。
探し方が悪いのか? 本当に無くなったのか? 草の中に埋もれたのか?それとも他の場所に移されたのか・・

影野から37番札所岩本寺への道は、昔の大道(主往還)に沿ったもので、大略の部分は国道56号です。しかし、江戸時代までの37番札所は通称、仁井田五社(明治以降は高岡神社)であったのですから、その道筋も異なります。
真念の「道指南」では、「○かげの村(影野)・・かい坂村(替坂本)○六たんち゛村(六反地)○かミあり村(神有)○かわゐ村(川井:平串村の別名)」(括弧内は現地名)までは大道。
平串より南西に道をとり、今は高岡神社の鳥居を通ります。
(今ある鳥居は昭和3年の設置。以前、影野から西に道をとり四万十川沿いを高岡神社まで行ったことがあります。この道の西川角には現在ある石の鳥居の以前に木造の「五社一ノ鳥居」があったといわれます。こちらの方が古い参道なのかもしれません。)
「道指南」では続けて 「此間に少山越、うしろ川、引舟あり。これハねゝざき村善六遍路のためにつくりおく。」 ねゝざき(根々崎)は今も残る地名。うしろ川は今の仁井田川。善六が仁井田川を渡るため善意の舟を置いたことを意味しています。
「道指南」に記された「少山越」の場所に今は「計り場の由来」の案内板が立っています。
「ここより西の東川角地区は広大な原野であったが、土佐藩奉行野中兼山の命により仁井田川に堰を設けて導水路を整備する計画に着手。工事は難行するが、その打開策として、土工が掘った岩盤の量によって賃金を払う策を打ち工事を完成させた・・」
(要旨こんなとこ。野中兼山、こういう話には必ず登場する名奉行!) 
今もこの東川角地区は見渡す美田。この時期、それは黄金です。

東川角の旧道は現在「計り場の由来」の案内板が立つ辺りから少し北側の丘陵の上を通っていました。その道に宝暦8年(1758)の道標が立っています。
「左 へんろみち 従是四丁計行 子々崎村有渡舩 邊路為信施渡之/右意趣者先祖為菩提 市川仲右衛門守光自分以後渡守壹人之附置者也/渡領壹ケ年分井損田米一石六斗代二拾石買求備置」
「道指南」が書かれてから70年後、善意の渡し船が続けられていたこと、渡船者への手厚い保護があったことを示しています。「名所図会」(寛政12年(1800))にも「…後川 行ふねあり・・・」と記されます。

仁井田川を渡り、根々崎からは時々河畔の竹林に入り、四万十川の表情を確かめながら進むうち、川向こうに微かに仁井田五社が見えてきます。
この神は良い場所に座っておられる。見晴るかす田畑とそれを潤すように流れる深い川。長い間、人の心に豊かなものを与え続けてきた神にように思えてなりません。

ここで仁井田五社について少々書き加えておきましょう。

追記 仁井田五社
伊予の豪族、越智氏の一族(河野氏とも)がこの地に移り地主神と協力して開墾し、祖神を祀った仁井田明神がこの神社の始まりとされます。現在五の宮が置かれる山上の地は元々墓であったとも云われます。
天平年間(8世紀前期)、行基が来て仁井田七福寺を開創、弘仁年間(9世紀前期)、空海が社を五つに分け夫々に祭神と本地仏を置く神仏習合の神社としたとされます。また神宮寺(別当)
を福円満寺に定めます。後に37番札所となります。 
一の宮(東大宮)大日本根子彦太迩尊=不動明王、
二の宮(今大神宮)磯城細姫命=観世音菩薩、
三の宮(中ノ宮)大山祇命・吉備彦狭嶋命=阿弥陀如来、
四の宮(今宮、西今宮)伊予二名洲小千命=薬師如来、
五の宮(森の宮、聖宮)伊予天狭貫尊=地蔵菩薩。 

16世紀、福円満寺が火災により廃寺、窪川の岩本坊が岩本寺として仁井田五社の別当となります。
岩本寺に伝わる伝承として、「空海の七不思議」があります。これは「三度栗」「桜貝」「口なし蛭」「子安桜」「筆草」「尻なし貝」「戸たてずの庄屋」というもので、これらのなかには四国各地にある同様の伝承も含まれています。また各地の伝承と同様に空海に託けられるものも多いと思われます。これらはもともと仁井田五社に伝わるものですが、注目すべきは「桜貝」と「筆草」は、この地より東南へ行くこと10kほどの海辺「小室ノ浜」の伝承であることです。このことは仁井田五社の大社としての影響力の及ぶ地域の大きさを表すとともに、江戸時代の四国遍路の活動の前、平安後期から鎌倉期に存在した海辺の難所を回遊する辺地修行、それに続く観音を主尊とする補陀落信仰が受容された場所を示していると言われます。
四国の外海に面した辺地修行と補陀落信仰の場所としては、大きく見れば室戸と足摺といいうるでしょう。この室戸の範囲は八浜八坂の辺りから室戸岬、(その昔は室津から室戸付近も「足摺」と呼ばれていました。)行当岬、羽根岬、大山岬までが含まれます。また、足摺の範囲には竜串や月山、篠山までも含まれると言われます。これらの地域の間にある修行地としては青龍寺奥の院不動堂裏の絶壁、そして上記、仁井田五社南の小室の浜と三崎山が当たるとされています。江戸時代以降の遍路道とは遠く離れた小室の浜周辺にも、その昔の辺地修行地が存在したということに気付かされるのです。
                                       (平成30年12月追記)


四国遍礼霊場記 仁井田五社

 平串の高岡神社の鳥居

 東川角の水路

黄金の稲田

仁井田川

仁井田川


四万十川の畔


四万十川の畔

四万十川の畔

四万十川の畔

四万十川の畔

「道指南」には、先の引用に続いて 「・・大河洪水の時は手まえの山に札おさめどころあり、水なき時は五社へ詣。」とあります。

ちょっと脱線。
江戸時代前期の澄禅や真念の記録を見ると「札を納む」という表現はあっても、今のように「納経帳に印」という慣わしは無かったのではないかとも思われます。
もちろん、写経を納めるということはそれ以前から為されていたことでしょうが。(それもやはり寺に限られることでしょう。)
四国遍路においては元々「納札」が慣わしであったけれども、江戸時代の中期以降、寺々の整備とも併行して「納経」や「納経帳」が加えられるようになってきた・・ということなのでしょうか。
この疑問に答えるべく、ここに、四国遍路における納経と納経の歴史について、研究者により明らかにされた最近の知見の一端を追記しておきましょう。

(追記) 納札、納経について
上にも引いた澄禅の日記、例えば「新田ノ五社」の項に「札ヲ納、読経念仏シテ、・・」とあるように各札所で札を納めて巡っている様子が伺えます。また、真念の「道指南」では納める札(紙札)の仕様、うち様を細かく記したのち「・・男女ともに光明真言、大師の宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり。」とあります。いずれも納経については一切触れられていません。
ここで、澄禅は札所によっては「南無阿弥陀仏」の六字名号を唱えていたこと、真念においてはそれが「光明真言」に変わったことは注目されることで、四国遍路の弘法大師一尊化への動きと見られているようです。
その動きはともかく、江戸時代初期までは四国遍路において納経とその行為への何らかの請け取り状を渡すという習わしは無かったと見られています。
一方、日本全国の社寺参詣に伴う経典の奉納は古くから行われ、納経請取状(後のいわゆる納経帳)の古例は南北朝時代にまで遡れるといわれますが、江戸時代の初期までの間のそれは専ら六十六部の廻国(そのなかに四国遍路の札所が含まれることはあっても)
においてであったようです。
四国遍路のみを行う者が納経を行い納経帳を作成するようになるのは宝暦年間前後(18世紀中期)と言われ、それは廻国行者との交流が契機であったと見られています。
奉納された経典についての実態は不明(大部の経典が頻繁に奉納されたとは考え難い)ながら納経帳への記入に依れば、六十六部廻国については「普門品」(法華経の一部観音経)から「大乗妙典」(法華経(大部経典))に移行、初期の四国遍路もこれを踏襲しますが、後には経名が記入されなくなります。また、江戸時代を通じ、遍路の増加に伴って納経帳の版木押しも増加したといわれます。(h29.7)
なるほど・・これで大体わかった・・

さて、仁井田五社(五社大明神)には、8世紀、行基が開いた福円満寺という神宮寺があったが、16世紀廃れた後、岩本寺が別当になったということのようです。(今は中ノ宮の境内に、福円満寺跡の標示が立てられています。今も、高岡神社で朱印を戴くと、そこには「元三十七番札所藤井山五徳智院福圓満寺ノ裔」と印されています。不可思議なことです。) 
江戸時代後期の記録である「四国遍礼名所図会」には、三十七番仁井田五社の項に「納経所ハ 十八丁をへて久保川町ニ有。」と書かれています。

大分寄り道(この日記の上で)をしてきましたが・・四万十川を前に高岡神社対岸の地。二つの標石があります。
政吉の手指し標石、一つは「(手印)三十七ばん五社 三丁」、もう一つは「(手印)大しどう」と刻します。
標石の元の場所は、一つは五社への渡船の渡し場、一つは岩本寺への小峠(宮向越)の分岐に置かれていたということです。「大しどう」とは岩本寺のことを指しているのでしょう。

追記 政吉の手指し道標について(ここに記すのは適当な場所ではないが・・)
ここで、他の日の記事と重複することを覚悟の上で、四国の遍路道で見られる政吉の手指し道標について纏めて記しておくことにします。
川の屋政吉は五島の福江の行者(と思われる)で、江戸時代末期に四国中の遍路道に素朴な開いた手形の自然石標石を残した人として知られます。
手形以外の刻字は少なく、その手形はまるで自らの手を見ながら刻んだように生き生きとした表情を見せ魅せられます。選んだ石質の所為か、保存状態の良いものが多いのも特徴でしょうか。
五島の福江(島)といえば、江戸時代中期、長崎大村藩外海(そとめ)(現長崎市)の多くのキリシタンが開拓のため、信徒であることを隠し移住してきた・・そんな所、そんな時代でした。その地に生をうけ、この独特な手指しを石に刻んで四国中を歩いた川の屋政吉が、何を祈り、何を考えたのか・・大いなる関心をそそられる事です。

四国の遍路道中には多くの政吉の手指し道標が残されている(あるいは存在した)と思われますが、私が確認した(政吉のものではないかと感じた)ものを以下に記しておきます。

・8番9番の間。阿波市土成町土成。「八ばん 九ばん」と刻した両手指しの道標。なお、この先9番法輪寺境内にも「八ばん 十八丁」、両手差しの標石があるといいます。(私は未見)
・9番10番の間。阿波市土成町水田。「南無阿弥陀佛 手指し 九ばんへ八丁 手指し 十ばんへ十七丁 當所弥右衛門 五嶋政吉」と刻す。当所の人と共に捧げた道標と思われます。
・10番、11番の間、阿波市市場町大野島、地蔵堂前。「十一ばん」とのみ刻まれます。

・12番焼山寺への山道、長戸庵の先。  「五嶋政吉」と刻まれます。
・12番、13番の間建治寺近くの道。  手指し以外は無刻。政吉のものとの確信はない。
・21番、22番の間、阿瀬比の手差し「右へんろ道」。

・27番、28番の間、田野町旧地名芝の商店街入口。  珍しく多くの刻字のある標石。「肥前五嶋 福江 川のや 政吉 此手四国中へ何百有 ミなへんろ道」と刻まれます。
・28番大日寺への道、香南市夜須町手結千切。刻字なし(判読不明)。
・28番大日寺の先、野市市母代寺。手指しは政吉のものと見られている。手指しの下「右遍路道 二十八番 大日寺 天明5年(1785)」刻まれており、その年代からみて手指しが後刻と思える。
・32番禅師峰寺境内、夫々手指しに「へんろ」「ぎゃく」と刻します。

・37番五社手前。2基(上記本文中に示す)1基 「三十七番五社三丁」 1基 「大しどう」と刻します。
・38番金剛福寺への道、土佐清水市市野瀬、三原分岐。真念石の隣り。手指し以外は無刻。
・39番延光寺への道、幡多郡三原村成山峠出口。両手指し以外無刻。政吉の手指し中、両手の表情が最も見事に表現されたものと私には思えます。(遍路日記「平成25年秋その6」の写真でご確認ください。)
・40番観自在寺への道、愛南町豊田。徳右衛門石の隣り。「へんろ ひぜん五嶋政吉」と刻みます。
・54番先、今治市阿方引地の手差しのみの自然石。確信は持てないが・・

・56番泰山寺手前、今治市小泉2丁目。道路縁石の傍。小さな石で手指し以外無刻。政吉のものとの確信はない。
・67番大興寺前、観音寺市粟井町、土仏観音。殆ど見えませんが「是より 小松尾行道」そして政吉のものとしては唯一年号、天保2年(1831)が刻まれている。
(以上18基、遍路道地図上にも示しています。)         (R2.8追記 R4.7改)

私が勝手に確認した政吉の手指し道標は以上のとおりですが、見落としている道標も相当数あると想像できます。
ここに記していない道標のうち、特に気になっているものがあります。ここに追記しておきます。
一つは白鳥温泉の近く入野山黒川の高さ105cmほど、三角形の自然石道標。劣化が進行し読み難いところも多いのですが、
・(左手指し)「 白鳥へ百十丁 大くぼじ九十丁 兼八」
この石、政吉の特徴を十分備えているように思えます。
もう一つは焼山寺下杖杉庵前(近くから移動されたと思われる)の標石。くずし字が巧みで私ごときには読むこと不可能なのですが、えいや・・と思い切って。
・自然石 「右ろ(道)? 三丁 古跡  為父母 五嶋 政吉」
古跡が杖杉庵の衛門三郎の墓(大杉)を指すものかどうか・・手差しは前面からはみることはできませんが、何しろあの独特の書体で「五嶋 政吉」と記されていますから。ご存じの方どうぞお教えください。


杖杉庵前の政吉?石


                                                                                                   (R4.9 R5.5追)



政吉の手指し標石(1)


政吉の手指し標石(2)

 高岡神社(東大宮)

高岡神社前の徳右衛門標

昔の遍路のように、高岡神社にお詣りし、岩本寺へ納経に向います。
おっと、中ノ宮の前に徳右衛門標石「是ヨリ足すり迄廿一里」がありました。これは忘れず書き留めておきましょう。

この時季としては矢鱈と蒸し暑い日。窪川の街外れで珍しく「氷」の旗を見付け、カキ氷をいただきました。
どうしたことか、今日の日記にはまだ余談が続きます。四巡目ともなれば書くことも尽きた・・と言ってはそれまでですが、この日記自体が余談のようなものですから・・お赦しください。

追記「岩本寺への古道」
明治以降の37番札所は、それまで別当寺であった岩本寺に移ります。当然ながら遍路道もまた平串を直進し(現在の国道56号(旧道)またはその周辺の道筋)岩本寺へ向かうことになります。
国道が窪川の街に入る最後の小峠を今は呼坂トンネル(昭和5年開通)で抜けますが、以前は呼坂峠と呼ばれる山越えの道でした。この道は江戸時代には高知から幡多地方への大道(往還道)の一部でもありました。呼坂峠の道筋は今はもう消えつつあると思われますが、嘗ては多くの旅人が辿った道でもあり、峠には地蔵堂が残り、幕末期には岩本寺を案内する遍路道
道標もあったと言われます。(窪川の街の入口、北琴平町にある道標は呼坂峠に在ったと伝えられている・・)
呼坂峠の道(想定を含む)を遍路道地図の「窪川付近」に示しておきます。

さて岩本寺です。

本文上記でも少しふれましたように37番札所仁井田五社の大師堂および納経所は岩本寺にありました。
山門を入った裏側に文化13年(1816)の道標が残されています。
「卅七番大師堂」/並 五社納経所」、「(指差し)ぎやく邊路みち/是ゟ五社へ 十八丁/卅六番へ 十三里」、「(指差し)じゆん邊路道/是ゟ卅八番迠 廿壹里/四万十川まで 十壹里」と刻まれます。

添蚯蚓坂の途中にあった海月庵。そこに、あの高田屋嘉兵衛が建てたとされる、願主聖心の標石が岩本寺境内に移されていると聞いています。
高田屋嘉兵衛は、江戸時代中後期の神戸の海商。蝦夷地経営に活躍、ロシア船に捕えられカムチャッカに連行されるなど・・というより、司馬遼太郎の「菜の花の沖」で知られる人でしょうか。
納経所で尋ねてみます。ベテランのご婦人が「あー、時々お参りにくる団体もいる・・あの鐘楼前にある石でしょう・・」。 調べてみても該当する名は見当たりません。(因みに、この墓形式の石は巡礼途中に客死した越後の阿部定珍の供養塔であるらしい。)
ふとその右、手指し、大師像のある徳右衛門形式の標石が目に入ります。聖心の標石ですから(聖心は徳右衛門に影響を受けたとい
われる照蓮のグループの人と言われます。)きっとこれです。
劣化が進み刻字は殆ど読み取れませんが、正面に微かに、高田屋嘉平・・の文字が。文献に依ると、文化11年十月一四日、施主勝浦屋留之助、正面に「當庵施主 攝州兵庫 高田屋嘉兵衛 願主聖心」彫ってあるようです。(奇しくも、今日床鍋で見れなかった徳右衛門石と同年同月・・それより、この文面に拠ると海月庵自体、嘉兵衛が建てたもののよう・・) 
文化11年(1814)といえば、嘉兵衛がカムチャッカを解放され、帰国した翌年に当たり、それ以前、妻おふさが嘉兵衛の無事を祈って四国巡礼をした、との言い伝えもあるとか・・(「菜の花の沖」はこれを採っていましたね。)

施主高田屋嘉平の標石

今日の宿は岩本寺の宿坊。団体が入っていないので食事は出ません。

 七子峠付近の地図
 影野付近の地図 仁井田付近の地図 窪川付近の地図を追加しておきます。
                                                (9月29日)


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四国遍路の旅記録  平成25年秋  その1

1年ぶりの四国へ

ここに私ごとを書くのは気が進まないのですが、お赦しください。2月から半年の母の看取り、そして別れ。今年の春は遍路に行く時間もありませんでした。
ホスピス病棟のベッドの上で、母は昔行った四国遍路を想うこともあったのでしょう。私の撮ったあの足摺の大岐の浜に波が寄せる写真を見て、「ここにもう一度行きたい・・」と呟いていました。
それが「その浜の上に飛んでいってください。そこでお会いしましょう。供養させてもらいますよ・・」の何となくの約束ごととなりました。

加齢による体力の衰えは、この半年で拍車がかかったような気がします。歩けるうちに歩いておこう・・というのが、1年ぶりの四国歩きの動機でした。もちろん、母の供養ということも一つの口実です。
苦しい歩きでした。そのあまり、ほんの短い区間ですが電車やバスにも乗りました。それでも予定通りには進めませんでした。
足摺の前後の二つの浜、大岐の浜と益野の浜で、自分なりの方法で供養もすることができたことが、せめてもの自らへの慰めと思っています。

私が四国遍路の旅を始めて、もう8年になります。初めの頃は、遍路道の所々で地の人、お年寄りから話かけられることが多く、その話のなかに、その地に息づく生活の知恵のようなものを感じて、感動もしてきたのですが、最近はそういうことも随分少なくなったような気がします。そのことに対応するように、(いや、反動かな・・)昔より多くの遍路が、旅人が、その地の人が、周囲の自然や風物に多くの心を残してきた、そんな道を確かめて、歩きたいという希望は強くなったような気がします。そして、歩いた人達が、後に歩く人の心を思い、また自らの証しのように道に残してきた石の仏や標石や丁石や・・そんなものを見て、手を触れて確かめていきたいとも。
実際の遍路旅では、遍路仲間や宿の人との熱中した話、偶にはその地の人との短い会話など、そんな出会いから、思わぬ遍路(遍路道以外の場所を含めて)になったりするものです。それが旅の楽しみの一つに違いないのですが、この度の日記の上では、そういうことを極力排して、上記の趣旨に沿いたいと思っています。
退屈な面白味のない日記となります・・えー いつものことだって・・おっしゃる通り、こらえてつかーさい。
これもいつものことですが、私の遍路は、巡礼の掟を少々違えるところがあるのかもしれません。我儘、勝手をお赦しください。

これまでの日記にも度々登場していますが、今回も江戸期の遍路記を参考として、日記の随所にその一部を引用させてもらっています。それらのうち主なもの、改めてここに示しておきます。
  ・澄禅 「四国遍路日記」 (承応2年(1653)の記録)
  ・真念 「四国遍路道指南」 (貞享4年(1687)の出版)
  ・「四国遍礼名所図会」 (著者、出版年ともに不明ですが、寛政12年(1800)の写本)
文はいずれも伊予史談会版によっています。

では、行ってきます。
(この度、同伴したコンデジカメラの御機嫌がすこぶる悪く、写真が撮れなかった所もあります。所によっては、前回までの写真で補ってズルしています。)







池ノ浦の漁港の民宿で

昼、宇佐大橋の袂から歩き始めます。
去年の秋、もう36番青龍寺まで行っています。ですから杓子定規には、ここはもう歩かなくてもよいのですが、実は今日の宿は、横浪黒潮ライン(通称「スカイライン」)の途中の漁港、池ノ浦にあるのです。
青龍寺に向けて歩きます。その途中で出会った可哀そうな茂兵衛標石のことなど、書いておきましょう。
宇佐大橋から海岸に沿う新道を通れば出会うことはありませんが、橋を渡り終わってすぐ右折、丹生神社の鳥居前の石垣にもたれかかるように放置され、それはありました。
一見、苔生した石塊のようにしか見えないため、これまで見逃していました。よく見ると、「・・廻目供養 ・・島郡椋の村 ・・司茂兵衛」の字が辛うじて読み取れます。上部は破損して無くなっているようですが、確かに茂兵衛標石です。
何とも哀れな姿です。どうにかならないでしょうか・・
(冒頭で言い訳したようにカメラのご機嫌が悪く、こういうものはちゃんと写してくれません。よって写真はありません。)

ここまで来たら、青龍寺へはやはり旧道「龍の道」を通ります。
井尻の大師堂のまわりは、まだ百日紅が紅さを保っていました。お堂の前には文化二年銘の灯籠、台座に明治8年の日付けで由来が刻まれた地蔵など、昔からの遍路道沿い故の歴史の重なりが見てとれます。
龍坂の樹木の成長は早く、3年前の春には上り道から見えていた宇佐大橋は、もうすっかり樹木に隠されていましたが、「九丁目」丁石や日向国小内海邑の代右衛門さんの墓(天明4年)など、お約束の心安らぐ出会いでした。

龍の道、九丁目丁石 

 

龍の道から萩岬を見る

 青龍寺の遍路

青龍寺にお詣りして、大師堂の横から奥の院不動堂に行きます。
不動堂には、以前「靴を脱いでおまいりください・・」の立札と靴箱まで置いてあったように思いますが、この度は何もなし。お不動さんのお赦しが出たのでしょうか・・ 
奥の院の南は断崖絶壁、驚くほどの青さの海が見渡せます。前回もここに立ちました。崖の下には青龍窟という岩屋があるそうです。そこに籠って修行をする行者もいるとか・・
ここは青龍寺の発祥の地、古くからの霊場です。
鳥居が並ぶ不動堂の参道の途中から南へ30mほど、大きな巌の上に置かれた虚空蔵菩薩におまいりしました。私は初めてです。
幽玄な雰囲気の立派な霊場ですが、江戸時代の遍路記には記載されていないようです。あるいは明治以降の比較的新しいものかもしれません。

ここで「虚空蔵求聞持法」についてオーバーラン気味の追記をしておきます。
(追記)「虚空蔵求聞持法」について
わが国には、古来より山岳信仰という素朴な宗教形態が存在し、それが奈良時代に入り半ば伝説化した役の行者の修験道などへの動きとして進んでいったと考えられていますが、そういった動きの中で養老二年(718)、「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼」(略して「虚空蔵求聞持法」)の請来は大きな影響を与える事柄であったと言われます。
「虚空蔵求聞持法」は山林修行の中で「自然智」を得るための知的能力、記憶力の増進に功徳があるとして流行します。
青年時代の空海もまたこういった動きの延長線上にあった時代。「三教指帰」の中で「・・阿国大滝嶽に躋り攀じ、土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星、来影す。」と記されています。(求聞持法が成功したというしるしに虚空蔵菩薩の使いである明星天子が流星あるいは明けの明星となって現れるといわれています。(五來重))
空海の山林修行の足跡は焼山寺(奥の院)、大龍寺(舎心)、最御崎寺(一夜建立窟)と辿れます。これらの寺は現在も本尊は虚空蔵菩薩です。空海の生地に近い出釈迦寺(捨身ケ嶽禅定)は求聞持院の院号を持ちます。(真念「道指南」には「虚空蔵尊います」の記述) また、空海の伝えはないものの禅師峰寺や竹林寺でも辺路修行の求聞持法が行われた所との伝えがあります。(禅師峰寺も求聞持院の院号を持つ) 番外霊場では多度津町奥白方の八王山虚空蔵寺、西白方の虚空蔵堂も気になる所。さらに坂出市高屋町の松浦寺(遍照院)の(求)聞持石、砥部町の総津権現山付近(五十一番石手寺奥の院石鉄山とも)(ここには赤の水岳(閼伽水)、コクゾ峰(虚空蔵窟)の地名も残る)など。
当時の求聞持法は虚空蔵菩薩の真言を唱えるだけでなく、行道と火を焚く(海の神に火を捧げる)ことを伴う厳しい修行であったと言われ、この条件に合致する場所(海岸の近くの岩場、高地)で多く行われたと考えられています。(最御崎寺の「最」は「火(ほ)つ」であると。)
この青龍寺の奥の院の場所もこの条件に合致する所であり、空海との係わりはともかく、虚空蔵求聞持法が行われた場所として考えてもよいのかもしれません。
平安中・後期になると、後に「雑密」と呼ばれる要素の強い求聞持法は(空海の請来した)体系的な「純密」あるいは阿弥陀信仰、観音信仰などの流れのなかに埋没して行ったと見られています。

 奥の院不動堂


 巖上の虚空蔵菩薩


スカイラインの道から(外海)


スカイラインの道から(外海)


スカイラインの道から(外海)

スカイラインの道から(外海)

スカイラインの道から(外海)

スカイラインの道から(内海)

 白い彼岸花

スカイラインから眺める海の様はやはり素晴らしい。
今日は快晴。濃淡二色の青に塗り分けられた海、岬の緑と黒い岩の影、岩の周りの白い波、隠されたような小さな浜の渚・・ 
舗装道であり、けっこうな上り下りがあるので、歩くのを嫌う人が多いようですが、私はこの風景の見事さに免じて、好きな方の道です。
池ノ浦の漁港まで4、5kばかりの所でしょうか、道がカーブする先の広場にスカイライン唯一の出店。出店のおばちゃんも池ノ浦から。
「みっちゃん、お元気ですか・・」 「ああ・・元気よ・・」 
そう、今日の宿はみっちゃん民宿。辰濃和男さんの「四国遍路」(岩波新書)で紹介され有名になったみっちゃんはそこの女将です。
私にとっては、最初の遍路で泊ってから8年目の再訪になります。

スカイラインから池ノ浦まで、高低差150mの長い坂を曲がり曲がって下ります。
宿の前の道は井戸端会議風、おばちゃんたち数人の話声。その中から「○○さん・・」 声を掛けられました。
みっちゃんは元気そうでしたが、8年間の間にいろんな病気もしたようです。足も人工関節、手も骨折・・ 「津波が来てももう逃げないよう・・」と気の弱いことを。
辰濃さんからは今も励ましの便りが届くとか。
                                                     (9月27日)
南海トラフ地震の話も自然に出てくる。この池ノ浦地区には48戸の人が住むという。直接太平洋に面するこの浜に寄せる津波は20mという。到達時間は10から20分、スカイラインに向った高台への避難は悲劇的な結果を多く孕んでいるいるように思えます。「津波が来てももう逃げないよ・・」と言って眼前に迫る海に目を伏せたみっちゃんの顔を私は直視することができませんでした。(令和5年3月、思い出して・・)




須崎から焼坂を越えて久礼まで


スカイラインの道から(曇天の海)


甲崎の先端

朝、スカイラインの途中まで送ってくれたみっちゃんの軽自動車は、マニュアルシフト。エンジン音も元気です。ヘッドレストのカバーには、私が8年前に差し上げた浅草の半纏屋の手ぬぐいがありました。
うれしかったですよ。いま、私も同じ花柄の手ぬぐいを頭に被っています。

国土地理院25000地形図を見ると、池ノ浦から4kほど行ったところ、海に向って1.5kほども半島状に出た甲崎という岬があります。その狭い脊梁の上には山道が。
もし、両側に展望が開ける場所があれば、まるで「天空の道」。そそられますね・・
昨晩、みっちゃんに問うと、「あー、偶に釣り人が行く道かもねー・・、でも入口はわかんねー」 
その辺り見当を付けて、行きつ戻りつ探しました。やっと見付けた入口はガードレールが切れたところの小さな樹木のトンネル。
曇り日の薄暗い山道を蜘蛛の巣を払い払い進みます。道の下からはごうごうと波の騒ぐ音、樹の間から時折白い波が垣間見えますが、両側はづっと樹木に覆われています。
一つ目、二つ目のピークを過ぎて三つ目のピークへ。もう半ばです。でも、ここまでで諦めました。戻ります。
浦ノ内東分からは、内海を隔てて鳴無神社の赤い鳥居が見えます。いい神社でした。そこも懐かしい想い出の場所です。

 鳴無神社の鳥居

浦ノ内の舟


彼岸花の咲く道(浦ノ内西分)

鳥坂トンネルを抜けて須崎の市街へ。
この辺り、新しい道が縦横に出来ていて進む道筋は大層分かり難い。今回は観音寺にも大善寺にも寄りません。
新荘の道の駅に寄って、角谷(かどや)峠へ。
現在の遍路道は、峠の下を迂回する旧国道が充てられていますが、昔は、澄禅も「・・カトヤ坂ト云大坂ヲ越行。・・」と書いているように直登の道でした。
ちょっと探ってみます。旧国道が新国道のトンネル入口の上を越える少し手前、右手に上る山道。これは四国電力の保守用道路にもなっているようですが、途中までは保守用としてはかなり広い道。この道で尾根の送電鉄塔まで行けますが、旧角谷峠はこの道の途中から左に入る道。おそらく石積みが残っている辺りと思われます。残念ながら樹木繁茂です。
折角ですから、尾根まであがって、そこから須崎の街を眺めてから戻ります。

 角谷峠の入口(?)


角谷尾根から見た須崎の街

尾根から南側への下りは北側よりさらに急坂を思わせる地形。昔の道は残っていないでしょう。
この辺りの南斜面はみかん畑。急坂に設置された搬出用モノレールを見上げていると、地元の人に話掛けられます。
「昔の人はここを歩いたって・・ワシらー毎日命掛けだよ・・」

安和の海は今日も静かでした。
焼坂峠に向かう道の途中、消防屯所の横に一際大きな標石を見ます。徳右衛門の標石です。
梵字「ア」(大師像) 「是より五社迄六里」

安和の海

徳右衛門標石が出たところで、標石の御託を書いておきましょうか。(以前の日記にも書いたかな・・、私のメモとして書いている
ので、ここも読み飛ばしを)
今回の区切り(10月4日まで)では、今までよく登場してきた茂兵衛標石や真念石は、この日の冒頭の1基を除き、見られず、(実は、通った道筋に夫々1基づつあったのですが、熱中症気味とかと称して見逃したのです。)徳右衛門標石を4基見ることになります
武田徳右衛門は伊予国越智郡朝倉上之村の人。
徳右衛門の標石は、寛政6年(1794)から文化11年(1814)にかけて設置されたもので、多くは石の上部に梵字(「ア」:胎蔵界大日如来他諸仏、または「ユ」:弥勒菩薩)と大師像を彫り、その下に、最大の特徴である「是より○○迄 ○里」と札所までの里程が刻されています。
正確な地図のない当時としては、遍路にとって随分頼りになる道標であったことでしょう。
ただ、200年の年月は多くの石を劣化させており、破損し失われた石も多くあります。寂しい限りです。


 安和の徳右衛門標石

 焼坂峠の道

焼坂峠の道。他の道の選択枝はありませんから、私にとっては4度目の通行となります。
3年前に通ったときは、峠道の入口の砂防ダムが工事中で、2k以上もある迂回路(明治時代の県道らしい)を通り、距離は長いが楽ではありました。
砂防ダム工事の完了により、以前の遍路道が復活しました。
標高差200mを0.5kほどで登る急坂です。年齢を経るごとにこの道の厳しさが見に沁みる気がします。いえ、いえ、これは単に私の所為。
健脚であった昔の人も、この峠はきつかったと見え、澄禅は「・・焼坂トテ 跡ノ坂ニ 十倍シタル大坂在り・・焼坂ヲ上ル、土佐無双ノ大坂也。」と表現しています。
峠を越え、四国横断自動車道がトンネルを出て入る間300mほど、遍路道と併行する不思議な風景を味あうことになります。
久礼の街まで行きましたが、久礼の宿はどこも満員。安和に宿をとりました。一駅電車で戻ります。

須崎、安和付近の地図を追加しておきます。
                                                     (9月28日)


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