四国遍路の旅記録  三巡目 第6回 その2

今治街道を辿って、松山から北条へ   (平成23年3月13日)


51番札所石手寺。ここにお参りするのは、4度目でしょうか・・5度目でしょうか。いつも雨だったり、天候が悪かったり。でも今日は珍しく晴れています。参拝の人も閑散。ゆっくりお参りし、国宝の二王門や重文の三重塔や本堂をじっくり拝見できました。
三重塔、美しい塔とは言えないかもしれませんが、その素朴さと力強さは、やはり鎌倉時代後期の建物であると思わせられました。澄禅も真念も見ておられるのですからね。
澄禅は「・・与洲無双ノ大伽藍也。」と記してますが感想はありません。

石手寺だけではありません。近くの太山寺、浄土寺にも立派な文化遺産が今に残されています。太山寺本堂、浄土寺本堂などです。
豊臣秀吉の四国平定に先立つ長曾我部のそれは中部伊予や讃岐において未完であったとする見方もあるようです。戦術的な長曾我部軍に対しどちらかと言えば戦略的な豊臣軍団と言いうるとも。中部伊予において実質的な戦火が避け得たことが文化財の保全にも繋がったと言ってもよいのかもしれません。


 石手寺本堂

 石手寺三重塔

 石手寺三重塔

三重塔の前に

山上の大師像

石手寺山門

(追記) 「江戸期の石手寺と衛門三郎伝説について」

江戸前期の石手寺の様子を「四国遍礼霊場記」の絵図により見ます。また、澄禅は「四国遍路日記」の石手寺の項で「札所ノ本尊ハ薬師、本社ハ熊野三所権現、廿余間ノ長床有リ、つゝイテ本堂在り、本尊文殊菩薩。三重ノ塔・御影堂・鐘楼・二王門・予州無双ノ大伽藍也、扨、昔ハ熊野山安養寺虚空蔵院ト云タリ。・・と記す。(霊場記の絵図には、中央奥に熊野十二所、周囲に三嶋社、愛宕社 、白山社(疑問有りとされる)、蕃神社、弥勒、山門、二王門、本堂、大師堂、弁天堂、多くの坊、本坊などが見られる。)
つづいて澄禅は、衛門三郎伝説について詳細を記す。
「・・昔此国ノ守護河野殿・・石手寺の近所の温(ゆ)ノ泉郡居城ヲカマエ猛威ヲ振フ。・・河野殿ヨリモ執シ思テ、衛門三郎ト云者ヲ箒除ノタメニ付置タル。毎日本社ノ長床ニ居テ塵ヲ払フ。此男無双ノ悪人ニテ堅貧放逸ノ者也。大師、此三郎ヲ方便ヲ教化シテ真ノ道ニ入度思召ケルガ、或時辺路乞食ノ僧ニ化シテ長床ニ居玉フ。例ノ三郎来リ見テ、何者ナレバ見苦キ躰哉ト頓テ追出ス。翌日又昨日居玉フ所ニ居玉ヘバ、又散々ニ云テ追出ス。三日目ニ又居玉フ、今度ハ箒ノ柄ヲ以テ打𢷡シ奉ル。其時大師持玉ヘル鉄鉢ヲ指出シ玉ヘバ、此鉢ヲ八ツニ打破ル。其時此鉢光ヲ放テ八方ニ飛去ル。衛門三郎少シ驚、家ニカエレバ嫡子物ニ狂テ云様ハ、吾ハ是空海也、誠ニ邪見放逸ニシテ我ヲ此ノ如ク直下ニスル事慮外ノ至也、汝ガ生所ノ八人ノ子供ヲ一日ガ内ニ蹴死ベケレドモ、物思ノ種ニ八日死ヌ可シ云テ手足ヲチゝメ息絶ヌ。其後次第次第ニ八人ノ子供八日ニ死セタリ。其子ヲ遷セシ所トテ八坂ノ近所ニ八ツノ墓在り、今ニ八墓ト云。
其時三郎懺悔シテ髪ヲ剃、四国中ヲ巡行シテ子供ノ菩提ヲ弔。廿一度ト辺路ヲ修行シケル内、大師モ様々ニ形を替テ同行同修シテ彼ガ心ヲ鑑玉フ。実ニモ廿余年ノ修行シテ八旬ニ及ケレバ、邪見ノ心失果テ慈悲心深重ノ僧ト成。在時阿波ノ国焼山寺ノ札ヲ納テ麓ヘ下ケルガ、谷ノ辻堂ニ休居タリ。大師モ僧形ニテ爰休玉フ。大師ノ云ク、汝ハ老躰ニテ何事ニカケ様ニ数年修行スルゾト。三郎禅門承り由緒ドモヲ委語り、大師聞玉テ、汝知ラ不ヤ吾ハ空海也、汝ガ心ヲ引見トテ此年月付テ巡行シテ、今ハ早汝ガ心モ決定シタリ、此上ハ何事成共所望次第ニ叶エテ得サスベシトノ玉ヘバ、禅門承テ、我ハ河野下人ニ候エバ一度主ノ子ニ生度ト望申ス。大師聞召、何ヨリ安キ事成、サラバ此石ヲ握テ往生スベシトテ、八歩方ノ石ニ八坂ノ衛門三郎ト書テ下サル。此ヲ請取テ則其儘死タリ。大師是ヲ其辻堂ノ後ニ土中ニ籠、印ニ杉ヲ二本植玉フ。今焼山寺ノ麓三郎ガ墓トテ在。其後大師河野殿ノ城ニ往、エモ知ラ不僧ニ化シテ来テ、当腹ニ世継ノ子孫在可シ由、其印ハ衛門三郎ト云銘在可シト示玉フ。案ノ如ク其月ヨリ懐妊在男子ヲ生ズ。三日メニ左ノ手ヲ開ケルニ小石在リ、取上テ見バ八坂ノ衛門三郎ト在リ。親父河野殿奇妙ニ覚ヘテ則祈願所ノ安養寺ニ堂ヲ立テ、本尊ノ御首ニ此石ヲ作籠、安養寺ヲ改テ石手寺ト号ス也。・・」                  (令和5年3月追記)


                          「四国遍礼霊場記」石手寺



石手寺から52番太山寺への道はいくつかありますが、最も古くからのものは、道後温泉、護国神社を経て昔の今治街道(ほぼ現在の国道196号)に沿って北上、県道40号を西へ、そして安祥寺付近から大将軍神社を辿るルートであるらしい。この道を行きます。
松山し郊外の長閑な道、川の畔、菜の花の道を楽しむ遍路の姿があったりします。


菜の花の道の遍路

そんな道を通る前、山頭火一草庵に寄りました。
改築された庵自体は以前のままですが、その周りは広く開かれ記念館のような建物まで出来ています。たくさんの句碑をみながら、休憩には最適の場所です。
ここの句碑に刻まれた句、以前の日記にも書きましたけど、もう一度。

    鐡鉢の中へも霰
    春風の鉢の子一つ
    濁れる水のながれつつ澄む
    おちついて死ねさうな草枯るる


一草庵と遍路

太山寺の一の門から本堂は長く、きつい後半の坂。
真念は「・・爰に太山寺の惣門有、是より本堂まで八丁。ふもとに茶屋あり。」と書いています。
今も参道には旧い建物が並んでいます。昔は宿屋などとともに、餅やこんにゃくを商い多くの参詣人に親しまれたといいます。今は伊予柑の無人販売所くらいでしょうか。
参道で目にとまった句碑一つ。

 道ゆづる人を拝みて秋遍路 杏史

太山寺の本堂は四国八十八ヶ所霊場の本堂の中では、70番本山寺のものと並んで国宝に指定されています。私には、やや荒削りで繊細さには欠けるようにも感じられるのですが、その壮大さには圧倒されます。お堂の縁の上に椅子やら看板やらやたらと置かないでほしいとは思いますけど・・。
悪口言うといけませんね。納経所では若く美しい女性がお待ちですよ。

(追記)太山寺について
寂本「四国遍礼霊場記」では太山寺について次のように記されます。
「当寺天平勝宝年中聖武天皇の建立なり。本尊は行基ぼさつ唐土より得玉へる十一面観音の小像なるを、長六尺の尊像を作り其中に納められしとなり。・・」
この寺の辺り低山なれど山に囲まれた霊域(修行の地)。経ケ森、護摩ケ森、岩ケ森(岩子山)、経ケ森山頂に十一面観音を祀ったと伝えられます。(経ケ森が奥ノ院と呼ばれる由縁)
江戸中期の「四国遍礼名所圖会」には本尊十一面観音、大師堂、稲荷社、蔵王権現(五丁奥)、観音堂、大日堂、本坊、地蔵堂、仁王門が記されますが、今は変遷、さらに三重塔、護摩堂、阿弥陀堂、惣門等が加えられています。
霊場記の絵図を見ると、本坊を過ぎた辺りに茶屋が記されています。当時は崎屋、布袋屋、木地屋、門(かど)屋等と呼ばれ宿屋も兼ね繁盛したといわれます。その跡、今も立派な家屋となり並んでいます。
五来重は「稲荷」の名の起こりについてここで述べています。興味をそそられますので加えておきましょう。「稲荷」の古名は食の根「けつね」、(食は「け」、つは「の」、根は先祖の意だと・・)
              
(参考文献:五来重 「四国遍路の寺」、他)


四国遍礼霊場記 太山寺
                                                 (令和5年9月追記)



 太山寺本堂

 太山寺本堂

太山寺本堂

53番円明寺までは2.5k、またたく間に到着です。円明寺は太山寺とは対照的で小じんまりとした瀟洒なお寺です。山門の八脚門や中門も何やら洒落た趣です。
山門を潜るまえ、寺の塀の南西角にある石標には「右へんろ道 是ヨリあかた延命寺江九リ八丁」の標示とともに「左宮嶋道 是ヨリ船場ヘ五町/明治十六年・・」と彫られています。
納経所の婦人にその話をすると、「昔はこの寺はもっと港に近い所にあったと聞いています。港は和気浜港でしょうか・・。安芸の宮島に行く遍路も多かったのでしょう・・」などと話される。

 円明寺


内宮町の茂兵衛道標

寺を出て内宮町の遍路橋のたもとに文久三年の道標があり、そこには「あかた圓明寺九里六丁」とあります。この圓明寺は今の54番延命寺のこと。これについては後で書きます。
さらに堀江町に入った古い街並の角に茂兵衛道標があります。これは明治十九年三月、八十八度目、42歳の茂兵衛が88度の記念に道標を立て始めた、その最初期のもので後年のものとは形式を異にします。施主名も中司茂平。
ここにも「右遍ん路道/左逆辺路道/みやしま出舟所/」と刻まれています。この出舟所は、まさに堀江港でしょう。

堀江の街を抜けると、前方に海に突き出た丘が見えてきます。
昔、明治13年海岸を通る道が開通するまで、今治街道はこの丘を越えていました。粟井坂です。間ノ坂とも呼んでいたようです。
澄禅は「堀江ト云町ヲ経テ間ノ坂ニカカル。此坂ヲ間ノ坂ト云心ハ先此伊予ノ国ヲ二ツニ分テ南七郡ヲ道後ト云、北七郡ヲ道前ト云、惣テ十四郡也。其道前道後ノ境ナレバ間ノ坂ト云」と詳しく解説しています。
旧国道に面した食堂「たこ松」を右折して、予讃線の線路を越え新国道(松山北条バイパス)の側壁に沿って左折し直進すると山道となり、右カーブしてみかん畑の中で行き止りとなります。
昔の峠越えの道は右カーブの前を直進していたようですが、雑草に覆われ道は見つかりません。
戻って旧国道を粟井坂の先に行きます。道の左側に「粟の井戸」右側に大師堂があります。周りには粟井坂開通記念碑や句碑、こんぴら道標などが並んでいます。このお堂は元々茶堂として峠の中腹にあったようですが、江戸時代の末に大師堂となったと伝えられています。
ちょっと脱線。この「茶堂(ちゃどう)」というもの、愛媛県では西予市や北宇和郡中心に四国全土に広く残されています。遍路や旅人への接待所ように言われますが、それだけでなく、集落の行事に多目的に利用された重要なコミュニティ施設であったようです。昔の潤い豊かな暮らしの一角を見る思いです・・

粟井坂の入口

粟井坂大師堂

粟井坂関所跡


山の神古戦場跡

大師堂の横の道を入り予讃線の線路を潜り右側の舗装された山道を上がると峠の関所跡に至ります。寛保元年(1741)と昭和46年の郡境碑(風早郡と和気郡の郡境)、
河野通清供養塔などがあります。(なお、大師堂の右(南側)に山道があり、「河野通清公墓所」の標示があります。ここを上っても10分ほどで関所跡に行くことができます。おそらくこちらの方が旧道でしょう。)
丸い石には「この道を小林一茶も学信も、中江藤樹も蔵沢も、おへんろさんも其他みんなの人が通った道ぞなもし」と。
関所跡から南側をみると左手にみかん畑の道が上っているだけで直進する道は見えません。
少し下ったところに「山の神古戦場跡」があります。
源平合戦時の古戦場で、河野通清が平家方と戦い敗れ、この地で自害したと伝えられています。

ここよりやや北、北条との間に今も河野という地名が残りますが、河野氏は元々その河野郷を本拠とする一領主でした。通清の子通信はその後仇を討ち、「河野水軍」を率いて源氏方に投じ、屋島、壇の浦の海戦で勇名をはせたことが「吾妻鏡」や「平家物語」に明記されている有名人であるようです。
峠を下った道でお年寄りにお会いしました。「よー行かれたねー・・関所跡からまっすぐ南へ行く道が昔の道じゃー、道は残っとるじゃろーから草刈ると通れると思うがなー・・」
1.5kほど行くと左手に徳右衛門道標、風化が激しく判読不能。更に0.5k、蓮福寺の塀の外、粟井川を望んで大正八年の道標、先面「延命寺へ七里/」手前面「粟井坂高野山へ十三町」とあります。粟井坂高野山とは先に見た粟井坂の大師堂のこと。

蓮福寺横の道標

花へんろの町

2k歩いて柳原の駅前付近、中江藤樹の記念碑やその先河野川を渡ったところに西の下大師堂。
その傍に高浜虚子の句碑と胸像があったと後で教えられましたが、大師堂以外は見落としちゃいました。
句碑には「この松の下にたたずめば露のわれ」 そして「道の辺の阿波のへんろの墓あわれ
と刻まれているらしい・・。
高浜虚子は少年の頃、この西の下大師堂の近くに住み、老松の根元で遊んで前を通る遍路の「南無大師遍照金剛」の長く延ばした声を聞いていたという。多感な子供の心に残った想いが後の上記の句になったという話も聞きました。
あんまり道を急がず、こんなものもじっくり見て歩きたいと思いますねー。
やがて北条の街。早坂暁のテレビドラマ「花へんろ」の放送以来、出身地のこの町は「花へんろの町」と自称しているようです。街の中心にそんな看板や石碑があります。
この「
花へんろの町」と彫られた石碑、「松山札辻より四里」の今治街道の里程石と並んで立っていますが、裏に回ってみますと「左金毘羅三十二里」と刻まれたこんぴら道標なのですね。
他の場所にあった道標をここに移してくるとき、金毘羅の面を正面にすると左右が逆になるので、裏に花へんろの町と刻んで今のように置いたというのが真相らしいですよ・・。
街のご老人から、なかなかおもしろい話を聞いて本日の宿に入りました。


(追記)「江戸初期の伊予の札所寺社」
江戸初期における土佐の札所寺社(三巡目 第3回その2に追記)に続いて、同期の伊予の札所寺社について、澄禅「四国遍路日記」の記述を見てみましょう。
観自在寺 本堂南向、本尊薬師如来。寺号ハ相違セリ。・・法師ノ形ノ者一人在ケレドモ由緒等無案内ナリ。
稲荷ノ社 田中ニ在リ小キ社ナリ。
仏木寺 本堂東向、本尊金剛界大日如来座像五尺斗、
明石寺 本尊千手観音、本堂朽傾テ本尊ハ小キ薬師堂ニ移テ在リ、・・寺主ハ無ク上ノ坊ト云山伏住セリ。
菅生
 本堂九間四面、二王門・鐘楼・経蔵・御影堂・護摩堂・鎮守ノ社双、賢固広博ナル大伽藍也。
岩屋寺 本堂三間四面、本尊不動
浄瑠璃寺 本堂三間四面、本地薬師如来。昔ハ大伽藍ナレドモ今ハ衰微シテ小キ寺一軒在リ。
八坂寺 ・・昔ハ三山権現立ナラビ玉フ故ニ廿五間ノ長床ニテ在ケルト也。是モ今ハ小社也。
西林寺 本堂三間四面、本尊十一面観音。
浄土寺 本堂五間四面、本尊釈迦如来。此本堂零落シタリシヲ遊西禅門ト云道心者十方旦那ヲ勧テ再興シタル也。
繁多寺 本堂三間四面、本尊薬師ナリ。・・本堂・二王門雨タマラズ、塔ハ朽落テ心柱九輪傾テ哀至極ノ躰ナリ・・
石手寺 札所本尊ハ薬師、本社ハ熊野三所権現、廿余間ノ長床在リ、ツヅイテ本堂在リ、本尊文殊菩薩。三重ノ塔・御影堂・鐘楼・二王門、豫洲無双ノ大伽藍也。
大山寺 本堂九間四面、本尊十一面観音也。少下テ五仏堂在リ悉朽傾テ在。昔ハ三千石ノ寺領ナレドモ天正年中ニ無縁所ト成ル。
円明寺 本堂南向、本尊阿弥陀、
延命寺 本尊不動明王、堂ハ小キ草堂、寺モ小庵也。
三島ノ宮 本地大日ト在ドモ大通智勝仏ナリ。今此宮ハ別宮トテカリニ御座ス所ナリ。
泰山寺 本堂東向、本尊地蔵菩薩。寺主ハ無シ、番衆ニ俗人モ居ル也。
八幡宮 本地阿弥陀
佐礼山 本堂東向、本尊千手観音也。寺ハ遊仙寺トテ山下ニ在、
国分寺 本堂南向、本尊薬師。寺楼ノ庭上前裁誠ニ国分寺ト云フベキ様ナリ。
一ノ宮 本地十一面観音也。地形余リヒククシテ洪水ノ時悪舗故、・・度々移リ奉リ・・
香園寺 本堂南向、本尊金界大日如来。寺ハ在ドモ住持無シ。
横峰寺 本堂南向、本尊大日。又権現ノ社在リ。
吉祥寺 本堂東向、本尊毘沙門天。寺ハ退転シタリ。
前神寺 是ハ石鎚山ノ里坊也。
三角寺 本堂東向、本尊十一面観音、
奥院 大師寿像ヲ安置、・・昔ヨリ無知無能ノ道心者住持スル・・

かくの如し。澄禅の記述は飾り気なく正確を思わせる。
菅生山や石手寺などを除き、小庵であったり、退転したりして荒廃した寺社が多く見られる。これは土佐の寺社との多きな違い。
中伊豆を中心に熊野権現を祀る寺が多く、こののち阿弥陀信仰や念仏信仰を接ぎ木のようにして、やがてお大師信仰へと傾いてゆく様が見られと思われる。

 

 

 






 

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コメント
 
 
 
遅くなりましたが (楽しく遍路)
2012-05-04 14:27:54
こんにちは
遅くなりましたが、当サイトを私のブログで紹介させていただいていることにつき、許諾いただきたく、書いています。
先月、伊予路を歩きましたが、その行程決めのみならず、訪ねる先々を理解する上でも、枯雑草さんの日記を大いに参考にさせていただきました。
そこで、H24春遍路 伊予路①の冒頭に、他のサイト、地図とともに、当サイト名を記してあります。
お知らせして、ご了解を得たいと思います。よろしくお願いします。
 
 
 
楽しく遍路 さん (枯雑草)
2012-05-04 19:32:55
こんにちは。
いよいよ伊予路の記録も始まりましたね。
楽しく遍路さんの詳細で学術的な記録は
大変勉強になります。
そんな記録に対し、私のようないい加減な
ブログは分に過ぎてますよ。光栄ですし
恐縮です。今後ともよろしくお願いします。
 
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