四国遍路の旅記録 平成23年晩秋  その2

古い道を訪ねて・・(2)白峰往還

順打ち方向でいえば、昨日は国分寺からほんの少し前に進んだことになるのですが、今日はまたどういう訳か、三歩後退で坂出から出発。白峯寺を往還、その周辺の番外霊場にも参る予定です。
おっと、その前に八十場の水・・ところてん屋さんで有名な・・の傍から入った金山薬師、瑠璃光寺に参ります。
この金山薬師が昔の札所であったこと。澄禅も「大師御定ノ札所ハ金山ノ薬師也。・・子細由緒ヲモ知ラヌ辺路修行ノ者ドモが此寺(崇徳天皇:現在の高照院)ヲ札所ト思ヒ巡礼シタルガ初ト・・」と怒り口調で述べているところです。


 
瑠璃光寺


瑠璃光寺境内の四国八十八石仏内一体(39番寺山)

金山神社(文久2年建立の鳥居)

八十場の水の傍の墓地の奥に「金山大神」と扁額された鳥居があり、そこから山道を450mほど上ったところに瑠璃光寺があります。
荒れ果てた小さなお堂。その横には八十場の水の源泉と言われる井戸があります。
寺横の短い石段を上ったところにこれも小さなお堂の金山神社。金山権現を祀るといいます。権現さんは、その昔から山の神、村の守護神であり、水の守り神でもあったと・・長い荒廃の時を経て昭和62年にお堂が再建されたと、石碑に刻まれています。
お薬師さんには再興の時が来るのでしょうか。寺の境内にこの周辺にある写し霊場、四国八十八ヶ所石仏の一体、39番寺山の本尊が置かれています。その薬師如来をここに置いた人の心が感ぜられる思いでした。
この寺まで足を伸ばす遍路は殆どいないでしょう。でも、八十場の水からの山道の木の枝に遍路札(白布)が結ばれているのに気が付いていました。帰り道、その札に大阪西宮の会合で偶にお会いする女性遍路の名前を見付けたのです。
昨年の9月、Wさんも来られたのだなー・・それは少なからぬ感動を呼ぶ風景でした。

79番高照院にお参りして81番白峯寺に向います。
札所の番号順からいえば、79番の次は80番国分寺ということになるのですが、昨日の日記でもちょっと触れましたように、特に昔は79番から81番、82番根香寺、80番国分寺の順に回る遍路が多かったようです。実際に歩いてみると、道標石などにその証しを見ることになります。


 綾川の向こう、連光寺山の日の出

林田町の道標(弘化4年)

 旧道

高照院を出て綾川を渡る前、坂出市林田町西庄に「右天皇」と刻まれた明治27年7月、137度目の中務茂兵衛の石標。
綾川を越えて、蓮光寺山の後方から朝日が昇ります。
新雲井橋を渡ったところにある雲井御所跡。保元の乱(1156)に敗れた崇徳上皇は讃岐の国に配流。ここからほど近い松山の津に着船、国府の目代である綾高遠の館を仮の御所として過ごしたと伝えられます。都を思い詠ったとされる「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」より雲井御所と呼ばれた・・など、案内に記されています。
県道16号に併行した住宅の間の細い道が旧道。
住宅の庭先に「左遍んろ道」の道標(林田町中川原)。少し先にも「是ヨリ白峯に三十六丁」弘化4年(1847)と読める道標。
白峯中学校に向う旧道は、舗装から地道、さらに草道となり田圃のなかに消え入りそう・・

神谷川畔の道標

旧へんろ道、山道への入り口

神谷川の河畔に笠を載せた大きな道標石。「すく遍ん路ミち 四国第八十一番霊刹、これヨり弐拾五町三拾間」、寛政6年(1794)の建立。
ここは道行きの要地であったらしく標石には更に「国分寺 壹里弐拾四町、瀧之宮 弐里弐拾四町、高松 四里弐拾六町、一之宮 三里弐拾八町、佛生山 四里拾八町」などとあります。瀧之宮は綾川町滝宮にある瀧宮神社(牛頭天王社)です。
(追記) この道標石は、全高225cmあり、純粋な道標としては香川県で最大。高松藩主松平頼儀がたてたものと言われます。

この道標から東へ直進する道が白峯寺への旧遍路道に間違いありません。
400mほど行った山道の入口には、大師が掘ったと伝える井戸、大師堂、それに道標や丁石仏もあります。道は白峰に真っ直ぐ上っていたと思われますが、しばらく行くと森とみかん畑の中に消えていました。
なお、山道の入口には火袋の無い常夜灯と道標が並んでいます。道標の角には東を手差す大師像が彫られた他に例のないもので「志ろみ年江是与六丁」とあります。白峯寺までの距離を示すとすると「六丁」は何とも短い・・大門までの距離、十六丁の誤り、その他・・いろいろと考えられます・・
引き返し、松浦寺(遍照院)に参り、新道(車道)を上ります。


松浦寺(遍照院)山門

松浦寺、聞持石

松浦寺(地元ではもっぱら遍照院と・・)は高台にあり立派な構えですが、山門の屋根は破れ、寺全体も荒れた感じです。札所寺との歴然とした差異に心痛む思いがします。
本堂前に、その上で大師が42歳の厄除祈願の秘法を修したという「聞持石」という大石があります。

白峯寺への上り車道の入口に高家神社と観音寺があります。
その門前、鳥居前に二つの標石。一つは、明治27年3月、134度目の茂兵衛道標。二折した石を繋いであり「81番 旧道、へんろみち」とあり手印も二つ。新旧へんろ道の二方向を示しているようにも思えます。

稚児ケ嶽


白峯寺、崇徳天皇陵への石段

白峯寺

車道を1.5kほど上ると、前面に崇徳上皇の遺体を荼毘に付したとされる稚児ヶ嶽の岩場が見えてきます。
ここからは車道を離れて石段の道。石段の数を数えたわけではありませんが、崇徳天皇陵に上る石段を加えると優に500段は超えていると思われる長大さ。石段の両脇には崇徳上皇に纏わる歌碑が並びます。
崇徳院崩御の数年後に御陵を訪ねた西行法師の歌「よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせむ」は特に知られるもの。
崇徳天皇陵、そして81番白峯寺にお参りします。
普通の遍路はここから根香寺に行くことになるのでしょうが、変な遍路は、昨日行ってしまってますので、また山を下ります。旧遍路道の具合を探りながら・・拘りですなー。
車道は、白峰山展望台から山腹をクネクネと巻いていますが、旧道はそれをショートカットするように下っているはずです。展望台の下を探りましたが、道は総て樹林のなかで消えているようでした。それから下、車道をカットできる箇所はありそうですが、殆どがみかん畑の中、通行は憚られます。
車道が北方へ下って行く所で、やっと西に下る道。みかん畑の中のおばちゃんに道の先を聞きます。たくさんのみかんを戴いてしまいました。恐縮です。
みかん畑と樹林の中をジグザグに下る道。朝、探った旧道の上り口にも出られそうでしたが、結局、高家神社の少し上の車道に出ました。
旧道の山道はみかん畑と樹林の中に消えてしまっているようでした・・これが旧遍路道探索の結論。途中では一つの丁石も見掛けませんでした。

(追記)白峯寺伽藍の変遷
この79番から白峯寺へ行く道について「四国遍礼名所図会」(寛政12年:1800)にちょっと気になる記述があります。

「崇徳院社 山の麓にあり当所の鎮守なり、是より白峯迄十八丁。大門跡山の半にあり、堪空上人塚大門跡の右の側にあり、中門跡大門跡より少し行あり、頼朝塚右の上にあり。」
崇徳院社と呼ばれるのは今の高家神社でしょうか。また、頼朝塚とは今に残る国重文の十三重石塔のことでしょうか・・ 現在、高家神社の前の車道に残る前記の茂兵衛標石(明治27)の「八十一番旧道」の表記と併せて考えると、ここより南東方向への道を行き、前記の尾根筋を直登する道に合流し、寺近くで現在の車道の位置に沿う旧道があったことが想定されます。
白峯山古図(江戸初期、香川県歴史博物館)によると、この参道の途中に二つの立派な二重楼門や二基の石塔を見ることができます。同図には、本堂の左奥、主堂宇の東5丁の別所に三重塔が描かれ、当時の寺の隆盛を偲ばせます。また、神谷神社の地と思われる場所にも三重塔が見られ、興味が尽きません。


白峯山古図

ここで江戸時代に描かれた白峯寺の絵図によって伽藍配置の変化を追ってみましょう。
江戸時代の白峯寺の絵図は①白峯山古図(江戸時代初期)香川県歴史博物館 ②四国遍礼霊場記(元禄21年(1689)) ③四国遍礼名所図会(寛政12年(1800))    ④金毘羅参詣名所図会(弘化3年(1846)) ⑤讃岐国名勝図会(嘉永6年(1853))の5つと思われます。
これらの絵図の間には粗密差が大きく対等な比較はできませんが、凡そ次の事が言いうるかと・・
・①で見られた本堂左奥の三重塔が②では「塔跡」となり③以降では見られなくなっている。 
・①と②あるいは③の間で常行堂、御影堂、大師堂他の名称変更や位置の移動が行われている。
・①に描かれる(現在の一の門辺りにあったと思われる)大門、やや上の中門が②以降では見られなくなる。(④のみに二重楼門形式の大門が描かれているのは不可解。)
・七棟門形式の山門は④以降に見られる。 
・④以降現在に至るまで伽藍配置の変更は殆ど見られない。
これらの変化は、寺勢の推移と創建の智鉦大師から弘法大師一尊化への動きのなかでのものと見てよいのでしょうか。
②の「白峯寺図」とともに④の絵図(白峯本堂・崇徳天皇御廟、白峯本坊棟洞林院、白峯寺大門)を貼っておきます。大門の図は或いは筆者の想像(願望)で描かれたものではないかと思われます。(直後の⑤では「大門跡」と記されています。)
なお、大門の絵図には、多くが雲に隠され曖昧ながら、天皇社(今の高屋神社か)と神谷村付近(おそらく今の高屋町奥あたり)から上る参道が描かれています。(h30.12追記)

 十三重石塔(右:東塔 左:西塔)

(さらに・・)
絵図②に丸亀道と記された参道を上ると、下馬碑、下乗石を経て勅額門に至る間に頼朝石と記された2基の石塔が見られます。さらに、絵図①と併せて見ますと、下乗石に続いて大門、中門、そして2基の十三重の塔、その周囲に多くの伽藍が描かれています。この十三重石塔は、現在の専門家も讃岐の名塔の一つとして挙げるもの。東塔は高さ596cm、弘安元年(1278)の銘、櫃石島産の花崗岩製、頼朝寄進と伝来するもの。西塔は東塔を模して天霧山の角礫凝灰岩を使って「元享4年(1324)金剛佛子」の銘を持つもの。西塔は材質の所為で各部の劣化が目立ちます。
澄禅の「四国遍路日記」には「・・寺ノ向ニ山在、此ヲ西ト云。鎌倉ノ右大将頼朝卿終焉ノ後十三年ノ弔ニ当山ニ石塔伽藍ヲ立ラレタリ。先年焔上シテ今ハ石塔ト伽藍之址ノミ残リ。・・」とあります。上記にも記した如く、この十三重石塔の傍に今の白峯寺本堂(洞林院)に先行(?)する西院または西寺と呼ばれる伽藍の存在が認められると思われます。(令和5年2月追記)



白峯寺図(四国遍礼霊場記)


白峯本堂・崇徳天皇御廟(金毘羅参詣名所図会)


白峯本坊棟洞林院(金毘羅参詣名所図会)


白峯寺大門(金毘羅参詣名所図会)




ここから神谷(かんだに)神社は真近。この10月雨の中を訪ね、まともに写真も撮れなかった・・リベンジの再訪です。

 神谷神社

神谷神社本殿

神谷神社本殿

神谷神社本殿

神谷神社は812年、空海の叔父、阿刀大足が社殿を造営したと伝えています。現存の本殿は鎌倉時代初期(1219)の再建になる三間社流造(ながれづくり)。建造年の明らかな神社としては日本最古のもので、国宝に指定されています。
美しい反りを見せる桧皮葺きの屋根、本体の丸柱とその上の舟肘木、面取りがされた向拝の格柱と三斗。それらの建材の殆どが建造以来のものであるという・・1000年に近い時を吸い込んで輝いているように思えたものです。
五色台の西端、五夜嶽と白峰の間、神社を囲む鬱蒼とした樹林に覆われた谷は、古くから神谷と呼ばれ、磐座があるそうです。その奥には森に囲まれた青い池も・・ 昨日歩いた国分台から北に向う道、澄禅や真念も見た渓水はきっとこの谷に流れ下っていたであろうと推定できます。
いつの日か上ってみたい谷道です。

神谷神社から南へ1kほど、岩屋寺に参ります。県道180号から寺への道の入口は注意が必要です。新池の向いから上るのは旧道。寺は直上ですが、道はみかん畑の中で消えています。私は間違えて上り、ちょうど来ていたみかん畑のご主人の軽トラで新しい上り口まで案内してもらいました。
新池の150mほど南の広い道を上ります。入口に新しい案内石標があります。ここから寺まで1.5kほどでしょうか。

 岩屋寺

岩屋寺は遍照院(松浦寺)の奥の院とも呼ばれ、五夜嶽の中腹、標高100mにあります。
遍照院のところでも記したように、大師は42歳の厄除祈願を遍照院で修めるとともに、この地の岩窟に籠り後夜念踊(夜半から明け方までの勤行)を修めたと伝えられます。(五夜嶽の字は由来からすると後夜嶽なのか・・)最近、この寺が0番札所と称している由縁です。
平成13年、数年前に崩壊した岩窟の修復を行うとともにその前にコンクリート造の大師堂も完成しています。
寺の傍にお住まいの女性(ご住職なのか、庵主さんなのかわたしは存じませんが・・)から、飲み物とカステラまで御馳走になり、歓待していただきました。ちょっと宗教者には珍しいような捌けた語り口の方で、楽しいお話も伺えました。
実は、このお寺、大阪の若い女性先達Mさんから教えていただいた所。寺の女性からは、Mさん、それにMさんのお友達、善通寺の男性Mさんの話もたくさん出ましたよ・・やたらMさんが多くて、訳のわからん話ですなー。まあここは私語ですからお赦しを・・
今回のミニ遍路の最後、楽しい結びとなりました。皆さんありがとうございました。

(平成23年11月30日)

(追記)五色台付近の地図を載せておきます。

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四国遍路の旅記録 平成23年晩秋  その1

三巡目結願のあと・・

今年の10月8日、88番札所大窪寺で、3巡目の結願をさせていただきました。
4巡目をどうするか、迷いは続いているところですが、多分これまでのように、春と秋に時間を選んで、気力と体力が許す限り歩いてゆくことになるでしょう。
きっと、今までよりももっと鉄道やバスや車を利用して、歩く所を絞った遍路になることでしょう。
日記もこれまでのように、巡目、回を追った定型ではなく、ランダムなものに・・

さて、その初め。

草の中の丁石仏


古い道を訪ねて・・(1)国分台から青峰へ

寒さ将軍も相当近くまで忍び寄ってきた秋の終り、たまたま岡山に所用があったついでに、少し足を伸ばして、前回の遍路で心を残した坂出から高松にかけての旧遍路道や霊場を訪ねることにしました。札所で言えば、79番高照院、80番国分寺、81番白峯寺そして82番根香寺の範囲です。2日間のミニ遍路です。(平成23年11月29日~30日)

最初は、国分寺から白峯寺あるいは根香寺に行く旧遍路道を探ります。
10月の遍路日記にも書いたことですが、澄禅が「・・屏風ヲ立タル様成山坂ノ九折ヲ五六町上ル也。上リ上リテ渓水在、此水由緒在水也。水上ニ地蔵堂有り。夫ヨリ松原ヲ往テ白峰ニ至、是迄五十町也」と書き、真念が「・・これより白峰寺迄五十町、此間に坂有、国分坂といふ。十町ほとのぼる、谷川有。」と書いたその道です。
澄禅は坂の名を記さず、真念が国分坂と記している坂の名、ちょっと気になるところですが、真念の「道指南」の約120年後に書かれたとされる「四国遍礼名所図会」の79番札所崇徳天皇の項に「此所より本道ハ国分寺、白峰寺と順なれども、辺路坂といふ難所有故、崇徳天皇より白峰寺、根香寺、国分寺と行ナリ・・」との記述があります。この辺路坂という呼名は、現地の坂上の大師堂に近年まであった大師像が「へんろ坂大師」と呼ばれたことと符合します。すべて国分台の中央を直登する同じ坂を指していると見てよいでしょう。
すでにこの10月、地元の人からいくつかの情報をいただき、通れるであろうことを確認していますが・・さて。

国分寺門前を発って

 神崎池から国分台を見る

国分寺にお参りして、門前を右に行き神崎池を目指します。
池畔で、根香寺を経て香西口まで続く「四国の道」を右に分けて直進します。
そこで恒例の軽トラのおじさんの登場。
「道、違うとるよー、そこを左へ行くんだ・・」 
遍路「旧へんろ道を・・」 
おじさん「旧へんろ道は崩れとって今は通れん・・」
遍路「まあ、行けるとこまで・・」 
その先、墓地への道を探してうろうろしていると、家からおばさんが出てきて
「おへんろさん、どこ行くのー・・ああ、旧のへんろ道は、2、30年前ワシも上ったことあるけど今は通れんじゃろー・・」
そこへ声を聞きつけた近所のおじさん二人も参加、「通れん、通れん・・」の大合唱。
意固地な遍路は「ご心配はありがとうござんすが、まあ行けるとこまで・・」と譲らない。


墓地横の13丁石。左の折れた丁石はおそらく国分台上にあった23丁石か・・

墓地へ通じるであろう簡易舗装の道を行くと、草むらに十二丁の丁石仏(冒頭の写真)。この道に間違いありません。
墓地横の十三丁石を見て山道に入ります。すぐに道を失いました。(やや左方向の浅い谷に沿った方が良かったかも・・)
林道(2万5千地形図にもある東方のみかん畑から伸びる道)までの200mほどが藪漕ぎ状態。持参の秘密兵器、携帯鋸が役立ちます。草茫々ながら林道に出てやれやれ・・
少し左に行くと上る道を発見。入口の木には、山歩きの同好会の看板。消えかかっていて良くは読めないものの「上は自衛隊の演習場なので注意・・」ということらしい。

17丁石(坂半ば)

へんろ坂大師堂


神崎池、新池を望む(国分寺は右端辺り)

ここから国分台上までの道は、九十九折りの急坂ながら、道筋はしっかりとしています。歩く人もけっこういる証しでしょう。見事に残されている丁石仏もありがたく、頼もしい限りです。
墓地から35分で中腹の大師堂跡に到着。ここのへんろ坂大師像が平成7年に国分寺境内に移されたことを記した石碑があります。
大師堂から上は笹が深くなり、道を覆い隠している所もありますが、慎重に見定めれば道筋を失うことはありません。20丁石を確認すると展望が開けます。神崎池、新池が見えます。国分寺もあの辺り。天候が悪く、その先は霞んでいるのは残念ですが・・ 
大師堂から35分で国分台の上の平地に。
自衛隊の若者達が機関銃を構えて待っています。下士官風の人が来て道を教えてくれます。皆さん、明るくちょっと気味悪いほどに親切なのです。
演習場の中の広い地道を通らせていただき北に進みます。時々、森陰から速足歩行する隊列のドッドッドッという靴音が聞こえてきます。
この道は、演習場の北隅を通過する現在の遍路道・・そう、この10月に通り35丁石を確認した道・・に繋がっています。
 
(地図遊び) 
坂から台上に上った所を22丁とすると、この35丁石との距離は13丁、1.4k。台上の平坦地をほぼ直線で結んだ距離と一致します。(昔の遍路道は、地点間を最短距離で結ぶことが原則であったということ・・) 
途中に澄禅や真念が記した渓水を連想させる地形もあります。


県道への出口(一本松付近)

今日の私は、白峯寺ではなく根香寺に行くことにしましたので、演習場道を途中から東に外れ、高松と坂出の市境となっている緩やかな尾根を越えて、現遍路道の一本松近くの県道に出ます。(演習場外へのエスケープルート)
一本松から遍路道を通って十九丁へ。
十九丁では、二人の男女が何やら地面を掘っています。聞くと、遺跡の発掘だとか。寺のお堂の礎石が並んでいるのが顕わになりつつありました。

 根香寺

根香寺

根香寺の紅葉

根香寺では紅葉が盛りでした。それでも、地元の人によれば「いってもの年は まだがいにけっこいですよ」だそうです。
根香寺から五色台みかん園の三差路を経て鬼無へ下ります。
3kほど下った所が赤子谷の集落。広い道から右へ少し入ったところに地蔵堂があります。
ここから南東に行き、袋山という円錐形の山(標高262m)の山腹をまいて鬼無の衣掛(こかけ)というところに下る旧遍路道があったということです。その道はさらに大将軍、中森を経て香東川で今の遍路道に合流、一宮寺へ行く道となります。
真念が記している「山口村(鬼無町山口)、飯田村、八まんの宮過てかうどう(香東)川・・」が、現在の遍路道に近いように思われますので、やや戸惑いもあります。
「四国遍礼名所図会」の記述に、根香寺より一の宮へは二里半、国分寺迄は二里、そして「山中地蔵道六十丁也トいヘども道難所也。やはり弐里の方へ行べし」の注書きがあります。ここにいう山中地蔵道というのが、赤子谷から衣掛への道を指しているのかもしれません。
赤子谷にある田舎家を活用したレストランの縁に座ってコーヒーを戴きながら、地元のおじさんたちと話をします。
「昔のへんろ道やけん、だけんど今は通れん、無理じゃー・・、整備しようという話もあるんじゃが・・」
通る人の安全を思ってでしょうが、どこでもそのように言われるのですよ・・と言ってちゃかすと、「そうじゃない・・この道は絶対通れん」と。
こうまで言われれば通る訳には行きません。ただ、その時の話の中で、「根香寺から赤子谷まで車道を通らず歩ける道がある。遍路もよく通っているようだ・・」ということを聞きました。但し、この道は旧遍路道であったかどうかはわかりません。 
鬼無まで車道を下りました。
あと、どこまで歩いてどこで泊ったか・・それは内緒です。とにかく1日目はこれでおわり。
(平成23年11月29日)

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