感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、完全なじじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・
枯雑草の巡礼日記
四国遍路の旅記録 三巡目 第2回 その2
焼山寺道逆打ちでの出会い (平成21年9月27日) (つづき)
遍路道からの眺め(柳水庵先)
遍路道の道標(明治時代のもの)
長戸庵
長戸庵の地蔵
丁石(山より百一丁)
14時15分長戸庵に着く。
改めて見るこの庵の姿。なかなか美しい。いいお堂だと思います。
愛嬌ある庵横の地蔵の表情にも心暖まります。
ここまでは、十分な休憩もとり、まずまず順調に歩いてきたと思っておったのですが、この先で油断大敵のトラブルに・・。
藤井寺に向かう急な下り道。小石に足をとられて転倒。膝を打ち、手の平を擦り剥く。けっこうな出血。
平らな場所に移動して手当て。ちょうど通りかかったハイキングの団体20人ほど。数人から「バンドエイド・・、手袋・・」と声がかかる。
「ありがとうござんす。みんな持っておるだけは持っておるのでござんす」と訳のわからないこと言う旅の遍路。
手はともかく、膝は元々悪い、いやーな予感。実際、翌日の午後あたりから痛み出す始末。
15時30分、藤井寺に着く。
焼山寺を出てから6時間少々。途中での長い休憩2回、その時間1時間強を考えると、私としてはまずまずのペースというところでしょうか。
この道に限っては、順打ちより逆打ちの方上り道が少なく楽であるというのは確かのようです。
藤井寺近くの宿「吉野」に入ります。新しく清潔な宿。
女将さんも親切で優しそう。昨日、この宿に泊まって、この朝、焼山寺に向けて発った人の話を聞き、遍路道で出会った人々の顔とを重ね合わせ・・楽しいひと時ではありました。
(追記)「藤井寺の本尊と寺の変遷について」
順打ちで霊山寺を発った遍路は、「十里十ケ所」を歩き終え、次に厳しい焼山寺への山道を控えた独特の雰囲気を持つ寺、それが藤井寺だと思えます。ある時、寺で出会った年配遍路から聞いた話、「寺を「じ」と呼ばず「てら」というのは八十八札所でここだけ・・」ということはともかく、本尊のこと、境内の延命地蔵尊のこと・・など、書き置きたいことがあります。追記しておきましょう。
藤井寺の本尊は薬師如来と言われ、榧(かや)の一木造り、像高86.7cm。像内の墨書きに「仏師経尋 尺迦仏 久安4年(1148)などとあり元々釈迦如来像として造立されたと思われます。また、別の墨書きに天文18年(1549)補修の際、薬師如来としての形式を整えたとあります。秘仏で本堂に入れたとしても拝見できませんが、御前立像からもその立派さが想像できます。造立銘がある仏像としては、四国霊場最古(重文指定)。
寺は天正年間(1573~92)の土佐、長曾我部軍による兵火により全焼。延宝2年(1674)臨済宗の禅師が再建にかかる。当時の様子は、澄禅「四国遍路記」(1653)に「・・二王門モ朽ウセテ鋸ノミ残リ。寺楼ノ跡、本堂の鋸モ残テ所々ニ見タリ。・・庭ノ傍ニ容膝斗ノ小庵在、其内ヨリ法師形ノ者一人出テ仏像修理ノ勧進ヲ云、・・」 また「四国偏礼霊場記」(1689)には「今は禅者棲息セリ、これに依て今の堂其宗の風に作れり・・」とある。
境内、延命地蔵尊の台石の刻文について。
それは、天正年間に行った兵火について、長曾我部軍の子孫が昭和50年代に「寺院城砦焼討指揮謝罪」文を刻んだもの。ちょっと驚くべきことですが、当時より400年を経た現在の世情を考えれば、その目的に戸惑いを感じざるを得ないものではあります。
四国偏礼霊場記の藤井寺図(現在の状況からみると仁王門がやや離れて建っていたよう・・)
(令和4年9月 追記)
潜水橋のある道の感動 (平成21年9月28日)
藤井寺近くの宿吉野を出ます。
同宿者16人の内、私以外は全員焼山寺に向かいます。女将さんとともに、私も皆さんを送る側。「気をつけてねー。がんばってねー」
私は10番切幡寺に向かいます。
切幡寺に至る中程、吉野川の広い川中島(善入寺中州といいます)を挟んで渡る二つの潜水橋、川島橋、大野島橋を経る道は阿波の遍路道の中でも格別素晴らしいものの一つでしょう。
今日は曇っています。吉野川の水の色、晴れた日のように透き通った緑と青ではないけれど、沈んだ濃い青色。悲しいような静かな色です。川の向こうには、焼山寺の山なみの上の白い雲。
潜水橋は、けっこう車の往来が頻繁です。1車線ですから、車が来ると橋の隅に身を細めます。「ごくろーさまー・・」車の窓の子供の手からお菓子のお接待を戴きました。
大野島橋を渡ったところの道傍に「お・遍・路・さ・ん・お・元・気・で」と一文字ごとの大きな看板。地元の子供会などが設置したもの。
「ありがとーさーん」思わず大きな声を出して応えます。
川島橋
川島橋
吉野川
吉野川
大野島橋
吉野川(日を映して)
「お遍路さんお元気で」
10番切幡寺。
山門の先、本堂に至るまで333段の石段。最初お参りした時は、随分大変と思わせられたものですが、3度目ともなると、これがどーということもなくなるのです。不思議なものですなー。
実はこの寺、お参りの他、どうしても見ておきたいものがあったのです。大塔です。
この塔、江戸時代の初め、大阪住吉神社神宮寺に建てられたものを、明治の神仏分離により明治6年から10年を要してこの地に移したものといいます。通常、二層の仏塔は、初層が方形、二層が円形の多宝塔という形式なのですが、この塔のように初層、二層ともに方形の二重塔形式は、わが国唯一の遺構だといいます。(国重要文化財指定)
切幡寺大塔は、本堂よりさらに数十段の石段を上った所にあり、拝観する人は殆どいないのです。
私も3回目で初めて本堂へのお参りの後、大塔への石段を上りました。
初層5間四方、二層3間四方の正に大塔。最近、大改修も行われたようで、その輝くような木組みの美しさ、壮大さに圧倒されます。素晴らしい二重塔です。
本堂の前で60代とお見受けする地元の男性とお話します。毎日、333段の石段を上り下りして散歩されているという。
「本堂の裏もお参りされましたか・・」あっ・・と気付く。
本堂には南向きの本尊、千手観音の他に北向きに、この寺の縁起に由来する秘仏、女人即身成仏の観音菩薩がおられるのでした。
「ああ、忘れておりやした。後ほど・・」 「左からですよ・・」と細かいご注意まで。
大塔の話になります。
「あそこまでお参りする方は滅多おりません。ワシは土建の仕事やっとったからわかりますが、使こうとる木が普通のお堂とは違うとります。中もそりゃ素晴らしい・・」と話しは尽きません。
納経所は無人。ブザーを押して暫く待つと、一人の老女。
先ほど、本堂を裏からお参りしたとき、掃除をしている女性から言葉を戴いた、その人でした。
「大塔にもお参りさせていただきました。素晴らしい塔で・・」と言うと、「中を見ていただける日もあるんですが・・また、お参りください・・」と満面の笑顔でお応えいただいたのです。
切幡寺大塔
切幡寺大塔
切幡寺大塔
切幡寺大塔
切幡寺大塔
切幡寺大塔
(追記)切幡寺の古伝について
この切幡寺から一番霊山寺までの10ケ寺は古くより「十里十ケ所」と呼ばれ、十ケ寺を巡る遍路も行われてきたと言われます。
その十番目の寺切幡寺は何か仏教以前からの古い伝えと行事を蔵しているようです。二つの資料から探ってみましょう。
民俗学者武田明は「巡礼と遍路」の中で「切幡寺のこと」と題して次のように記しています。
「第十番の札所である切幡寺も、よく注意してみると死霊の行く山である。春の彼岸の中日には新仏のあった家では必ずこの山に登って戒名を書いた経木に水をかけてくるといい、また山道の入口には葬頭河(そうずか)の婆さま(あの世へ行く途中の三途(さんず)の川の傍にいて、亡者の衣をはぎとるという婆)の小堂もあるので、大体が死霊のこもる山であると考えられる。それにもまして、切幡寺が興味深いのは、キリハタは焼畑のことであって、いうなれば水田経営ではなくて、麦や稗・そば・粟などの畑作中心であることを意味することである。弘法大師が麦の種子を唐から盗んで麦作を広めたという説話は各地にあって、現に第一番霊山寺の番外札所の麦蒔大師(むぎまきたいし)にも大師が麦作を広めたという縁起話が残っている。となれば、切幡寺は弘法大師以前の信仰、すなわち諸国を巡遊する貴い身分の神の子が麦畑の耕作を教えた、という信仰が残っている寺であるのかもしれない。そういう点でもこの寺は大切な信仰の霊地であった。
そこで第一番の霊山寺から第十番の切幡寺までを歩く十里十ケ所という習慣が古くから生れて、近在の人々は彼岸がくると十里十ケ所の霊地を歩いているのである。それは麦作の信仰もあるであろうが、やはりなんといっても切幡寺にこもる死霊への信仰のためであった。」
また、五来重は「四国遍路の寺」で次のように述べています。
「札所には仏教以前の信仰も残っています。・・死者供養するといった信仰です。切幡寺には流水灌頂会(りゅうすいかんちょうえ)があります。龍王信仰のある加持水の湧く経木場(きょうぎば)で、経木をあげて亡くなった人の供養をするわけです。・・」
(平成30年11月追記)
9番法輪寺へ。
予報と違い上天気に変わってきました。蒸し暑い。
門前のお店を覗く。うどんなどもあるようだが食欲はゼロ。カキ氷をいただく。
ふと見ると遍路姿の人の写真。
「あー、これ今の副総理ですよ・・もう5年も前になるかなー。誰かが言いふらしたもんだけー大騒ぎになってのー、ありゃいけませんなー・・」と店のおばちゃん。
「今は53番まで歩かれとるようで・・でも続きは当分無理でしょうな・・」 この話一しきり。
8番熊谷寺への道。いつまで経ってもあの仁王門が現れないのです。
また、道を間違えたようです。徳島自動車道に沿った道をあるいて、やっと遠く仁王門の影を発見。
古い寺社建築には目のない私、やはりこの門は見落とせません。
寺から離れてポツンと立つ姿は、ちょっと寂しいものですが、立派な門です。初回の参りは春。桜に囲まれた艶姿を思い出します。
熊谷寺の駐車場には大型バスが3台。団体の遍路で溢れていました。スピーカからご詠歌が流れています。そう広くはないけれど、しっとり落ち着いたお寺です。
法輪寺山門
法輪寺
熊谷寺仁王門
熊谷寺仁王門
熊谷寺
昨日、山道で転倒、打った膝の具合がどうもよくありません。軟弱遍路は無理をしません。この先は朧の中へ・・。
でも、タクシーとバスをふんだんに、3番金泉寺まで、そして帰る列車が止まる板野駅まで行くことは行きましたよ。
体調不良で不本意続きの3巡目、第2回の遍路旅。これで終わりにはしない積り。日を改めて続けますよ・・とここは強気。
実は・・黙っておりましたが、徳島駅前のホテルに泊まった9月26日、朝広島を発って岡山で所用。それが随分早く終わったものですから、徳島に行く途中、板野駅で降りて、これまで通ったことのない道を経由して、別格1番大山寺に参ったのです。
そのこと、ここに書いておきます。
板野駅から3番金泉寺、4番大日寺に向かいます。
印象的な金泉寺の真っ赤な山門を後にして歩く大日寺への道。黄金の田圃の畦道、鄙びた愛染院の門前、ちょっとした山越えの道。
1番霊山寺を発ったへんろが最初に味あう昔からの遍路道の風情にきっと違いありません。3度目ですから、こんなに短かったかと思わせられるのですが、また懐かしさも一入です。
金泉寺から1時間ほどで、赤い鐘楼門の待つ大日寺です。
山に囲まれた静かなお寺。青い空。暑い。
納経所で水の所在を聞きます。「清めの水は水道です・・」とのこと。空いたペットボトルにいっぱい詰めて、「四国の道」を経由して大山寺に向かいます。
大日寺から500mほど戻った右側にある山神社。ここが山道の始まりです。
大日寺
さて、どうしてこの道を?
・・この四国の道経由大山寺への道は、最近出版された東海図版の遍路地図に紹介されたもので、上坂SA付近の徳島自動車道の下を潜って上る昔からの参道(遍路道)が、必ずしも良い道ではないこともあり、距離は相当長いにもかかわらず、歩いてみようか・・という気を起こさせたのです。
山道に入ってすぐ「この先には札所はありません・・」という意味の看板。むむ、なんじゃ・・と思わせますが、後で考えてみると深い意味があったのかも・・。
四国の道の標示もあることだし、とにかく行ってみよう。
かなりの急坂を上り、山神社から1.8kで標高303mの尾根に。ここが第1展望地。残念ながら木に囲まれ展望はありません。
尾根道を0.5kほど行くと右に一本松越の道を分けます。その先すぐ無標示の分岐。おそらく右は大山越の道。左折します。
この辺から道は荒れてきます。四国の道特有の擬木の階段の名残りはありますが殆ど崩れています。荒れ道を下ったり上ったり、0.5kほどで第2展望地。
唯一展望がある場所です。上坂町あたりの家々、田圃、その向こうに吉野川。
その先も道は荒れ、路肩が崩れトラロープが張ってある所も。
谷川を渡りますが、水一滴ない寂しさです。
登山口より4.8kほどで車道に出ます。ここから大山寺まで0.7kほどの舗装道。最後は寺への長い石段が待ち受けています。
山神社から全長5.5k。私の遅足に体調不良を加え、3時間以上を要しました。
はっきり言って、よほどの山道好きのお方以外は通らない方がいい・・という道ですな。マイナスポイントを一つ追加。蜘蛛の巣です。
山道に入ってからもう殆どづっと払い続けなければなりません。顔のベタッとかかった蜘蛛の巣は歩行意欲を殺いでしまいますよね。
一本松越道の分岐
第2展望地からの眺め(吉野川も見える)
第2展望地先の道
寺からの下りは、以前にも通った正規?の道を通りました。
寺の直後から始まる山道の入口も以前より多くの遍路札が掛っていて、分かりやすくなっています。山道も以前より整備が進んで歩き易くなっていました。
唯、山道の最後、飛地蔵の標石直前の果樹園の中の道は消えかかっています。20mほどですが舗装道を迂回します。
山道の上りで体力を消耗、すっかり疲れてしまいました。神宅までトボトボ歩き、あとはバスで板野へ、電車で徳島へ。
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膝を一番強く打ちました。もともと悪い
ところなので心配しましたが、その後
もっとシビアなトラブルがあったので
消えました。大したことなかったよう
です。いやいや、心配おかけしました。
お久しぶりです。今はこのブログに遍路日記
だけ残して、他は「写真日記」の方へ移行
しました。ところで、eos44さんのブログor
HPどこに移ったのでしょうか。わからなく
なりました。
細心の注意を払ってもコケる時があるので、怪我を避けるのに手袋をしたり、杖で体を支え重心を低くしながら下るしかないでしょうね。
大山寺への四国の道で蜘蛛の巣に悩まされたお話し。篠山神社への道も蜘蛛の巣が結構あったので、杖を顔の前で斜めに構えて通ったのを思い出します。
今回は特に体調がよくなかったので、すべてが
悪い方に転がった・・という感じです。実は
もっと大変なことが・・。
篠山の道、蜘蛛の巣すごかったですねー。他の
道でも・・どこだったかな。でもこの道ほどの
ところはちょっと無いくらい・・という強烈さ
でした。
そうですね。四国遍路でも、いかに早く歩くか、
一日何キロ歩くか(60k歩く人もいる・・)
を修行のひとつと捉える人も多いようです。
私の転倒は、足弱もありますが、右目の視力が
殆どない・・ということもありそうです。