感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、完全なじじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・
枯雑草の巡礼日記
四国遍路の旅記録 平成25年秋 その10
野井坂を越えて宇和島まで
岩松川畔の朝
街の明かり
地蔵
家
車のライト
岩松川の畔の朝の風景は素晴らしいものでした。
雲が地面の近くまで棚引いてきて、川原の葦や家や道路や地蔵まで、この地上にあるもの全てを包んでいました。遠くの山端は薄い紅。
街の淋しい明りを見、明け行く道の車のヘッドライトに会えば、なぜか涙が出そうになります。
(道を歩く人から、山端が薄く染まって見える山は、津島の小・中・高等学校の校歌にも歌われ、親しまれている譲が葉森(ゆずりがはもり)だと教えていただきました。こんな風景を美しいだなんて、旅人の勝手な感傷かもしれません。でも、出会った人も「今日のおやまはほんまにきれいじゃー・・」って。)
満願寺にお参りし、颪部(おろしべ)まで歩きます。(「颪」とは山から吹き下ろす寒風、また「颪部」とは崖や急斜面の意といいます。ここの地形をそのまま表した地名なのでしょうか・・)
岩松川の傍の商店の先にあるという、満願寺への道と、寺にあるという中国の善導大師の「船板名号」を案内する標石を訪ねます。
やっと出会えた朝の散歩の人に聞きますが、さっぱり通じません。
ふと、山際の少し高い所に標石風の立派な石。上の部分に地蔵が彫られた安政6年のものですが、よく読めぬ文面から憶測すると、新道開設の記念碑であるらしい。
さらに、あちこち探しまわった末、これであろう・・という石に出会います。
三角形の自然石。下半が土の中に埋まっていて、辛うじて読めるのは「みぎへん・・ ひだり まん・・・めうが・・」くらいまで。(資料に拠ると「みぎへんろみち ひだりまんぐあんじ ぜんどうだいし 三めうがう」と刻されているという。)
満願寺の船板名号の話が出てきたところで、四国遍路における念仏信仰の歴史について追記をさせていただきます。
(追記)船板名号と念仏信仰について
道標が案内する満願寺に存在する「船板名号」の版木には、中国の善導大師が日本に渡航の際、時化(しけ)を静めるため船板に「南無阿弥陀仏」と書いた版木であるとの伝承があると言います。(「愛媛の記憶」)
また、江戸時代初期に成ったといわれる説経節「苅萱(かるかや)」には、空海入唐の際宇佐八幡に参詣すると六字の名号が現れたのでこれを船板に彫りつけたことから「船板名号」であるとし、唐で善導大師に出会ったとの記述があると・・
善導大師(613~681)は中国浄土教の僧で空海とは年代が重ならないし、わが国に来たという記録もないようです。
これらの伝承や記録は、あるいは、福岡の善導寺(浄土宗)の縁起にあるという善導大師像が宋より伝えられた際の事跡が脚色されたものとも考えられます。
しかし、さてさて、その背後にあるものは何でしょう。
満願寺は現在、臨済宗の寺ですが、この寺以外で空海筆銘の六字名号の版木や版本が所在する四国の寺は、40番観自在寺(真言宗)、51番石手寺(真言宗)、78番郷照寺(時宗)、81番白峯寺、讃岐天福寺(真言宗)、52番太山寺(真言宗)などを数えるといいます。また71番弥谷寺には船石名号が存在します。
四国の念仏信仰は、伊予河野氏の出で時宗の開祖となる一遍、そして二祖真教の影響が大きいと言われるのは当然のことですが、南北朝、室町時代に至り、高野山においても時宗系高野聖の存在が大きくなったといわれます。当時の四国辺路の信仰基盤は、これら時宗系高野聖の力により、弘法大師信仰と念仏信仰が混淆したものから、江戸時代に入り念仏信仰から光明真言信仰に移り、弘法大師一尊化が確立されたという経緯を辿ったとされます。
極めて興味ある有力な論考と思われますのでここに追記しておきます。
(以上、武田和昭「四国へんろの歴史」2016.11 を参考(一部引用)にさせていただきました。H29.7)
颪部の標石
颪部から岩松川を渡って、寺の下から野井口に行きます。
この道も、篠山へ参った遍路が通った旧い道のようです。(篠山から野井に行くに、満願寺を経るのは遠回りになる。前記の標石に「みぎへん(ろみち)」と示された道。)
野井坂への道に入ります。
実は、野井坂周辺については、「「四国へんろ道文化」世界遺産化の会発行、宇和島市津島町野井自治会協力により、綿密な調査に基づいた資料(パンフレット)が作られています。この度、柏のOさんより頂戴することができました。以下、これを参考にさせていただきます。(文中「資料A」と表記します。)
野井口の石神、大師堂と徳右衛門標石
野井口には、石神を祀るお堂と大師堂があり、その前に徳右衛門標石「これよりいなりへ五里」があります。
「道指南」には「野井村、くハん音堂有。此村伊左衛門・・遍路に足半をほどこし、志ふかき人宿かす 過て地蔵堂有」と記す。この観音堂は村入口の瑞応寺(伝来の観音像を祀る古寺で、今は大師堂のみ残る)、そして、地蔵堂は村の奥に現存するお堂を指すとされる。(資料A) また、文中の「足半(あしなか)」とは踵の無い半分の長さの草履のこと。「道指南」の序にも「草鞋は札所ごとに手水なき事有て手を汚すゆへに・・惣じて足半にてつとむべしといひつたえたり。・・」と道中の履物として推奨しているもの。(草鞋は両手を使って脱ぐので手を汚すことになる、と注意している。)
集落を過ぎて500mほど、県道の右手に4つの遍路墓があります。これらは文政13年(1824)、天明4年(1784)、寛政11年(1799)のもの。(資料A)
県道が右へヘアピンカーブする手前、右手に観音堂があります。ここから左へ川を渡り旧道に入ります。そこより先が、平成23年のへんろ道復旧事業により整備された道です。
まず、川を右岸から左岸に渡る橋。流れ橋(橋端を岸に括り付け、出水時の流失を防ぎ、復旧も容易)が架っています。(資料A)
この橋は、協力会前代表故宮崎建樹さんを偲んで、「宮崎橋」と名付けられています。(資料A) 橋を渡ったところに、石仏と遍路墓。中央が復元作業時川中から発見された舟形大師像(明治26年)、左側、明和4年(1771)の地蔵石仏。そして右側の墓は「周防八代油良、(戒名) いよやおはた」と刻される。(八代は屋代島でしょう) 周防大島の寺の過去帳を調査した結果、周防大島油良の女性で享和4年(1804)に亡くなった遍路と判明する。(資料A)
宮崎橋
河畔の石仏と墓
県道を越えて山道への入口は、立派なコンクリート製の上り口。(俗称、何故か「コイケダ坂」と)
ここより山道。
1ヶ所、振り返れば野井の谷が眺望できる場所があります。丸太のベンチが置かれています。道整備者のご配慮を感じます。九十九折れを繰り返し、切り通しの峠を越えて広い茶屋跡へ。そしてまた九十九折れを繰り返し、山道の出口へ。山道の入口から出口まで、私の遅足で1時間というところでしょうか。新設された宇和島道路の下をくぐり、側道を柿の木へ。
野井の谷を振り返る
峠の切り通し
私は、1昨年、復元事業が実施された後、初めてこの道を通させていただきました。(それ以前には、道を通らず山を越えたことがあります。(3巡目、第4回その1 H22.4.6))
復元工事の御苦労を思うと感謝の言葉もありません。歩き易い、安全な道を選び、また開くという趣旨も良く分かります。ただ、この場だけですが、私の率直な感想を書くことをお赦しください。
峠の手前にあるという文化年間や明治末の石仏も見ませんでした。復元された道は旧道より、少し東に寄っているのではないでしょうか。それに九十九折れの道がやや多すぎるような気がします。昔の道はもっと直登の多い道のはず・・(これは私の思い込み)
旧道好きの私にとっては、ややストレスの残る道でした。こんなこと言って、ほんとにすいません。
柿の木庚申堂
祝森の子安地蔵堂
柿の木の庚申堂で、中道と松尾峠を越えてきた灘道とが合流します。
この庚申堂は、元々天和元年(1651)の建立と伝える古いもので、その謂れ。
「祝森に孝行な兄弟がいて、弘法大師が兄に地蔵、弟に青面金剛を刻み与えたと言い伝える。この青面金剛を祀るため庚申堂が建てられた・・(資料A)(青面金剛(しょうめんこんごう)は、元々帝釈天の使者だが、日本では中国の道教や道祖神と習合して、庚申さま、庚申塚などとしても祀られる不思議な神。)
(追記)庚申堂近くの道標について
ここで庚申堂の近くにある一つの道標について追記しておきましょう。
この道標、江戸末期の嘉永5年(1852)のものですが、道案内が広範で詳細であること、特に道後温泉への案内を含むことなどで貴重な道標であると言われます。一時、庚申堂東隣の柿本邸の庭にあると言われましたが、その後宇和島道路の工事と近隣住宅の改築により現在の所在は不明です。私は何度か探したことがありましたが見つけることはできませんでした。資料によりその刻字文面を記しておきます。
「梵字(大師像)嘉永五子年施主 柿ノ木大助 是より御城下御番所迄一里半/(右面)四十壱番いなり様江四里二丁 道後湯の町江四拾里 同寸ぐみち二十五里/(左面)是より篠山権現様迄五里半 是より右お徒き通観自在寺迄八里」(柿ノ木大助は柿本家の先祖、お徒き(おつき)とは月山神社への道をいうとのこと。)(h31.1追記)
旧道に沿って行くと、常夜橙の先に、「道指南」に「いわゐのもり村 地蔵堂」とある子安地蔵堂があります。ここには、上記の庚申堂のところで紹介した「謂れ」で兄に与えられたという地蔵が祀られているといいます。(資料A)
ここからの旧道は、現国道を左右していたようで、保田では右の山裾を通っていたようです。
保田で、国道がやや左に曲がる所を直進すると住宅地のなか、川の前のガードレールで行き止り。
うろうろしていると、近所の男性が出てきて、旧道に案内してくださる。
薬師谷川の河畔に地蔵、大師像、2基の遍路墓が並んでおり、中央の大師像の台座に「天下泰平 国土安穏、此道御城下迄三十一丁、寛政九年丁巳三月」と刻まれます。
昔はこの先の川を飛石伝いに渡ったと言われます。
保田の石造物と渡河点
保田の石造物
いよいよ宇和島の街。
中沢町二丁目の三差路に、茂兵衛標石、(229度目、明治42年9月)があります。
「(手指し)四十番奥の院へ二十丁余 寺の下に宿あり (手指し)和霊神社 四十一番い奈りへうちぬ希 観自在寺迄十里」と詳しい。
崖にへばり付くような狭い場所にある金勢神社、それに真目木大師堂にお参りして、立派な宇和島城を見ながら龍光院へ。
真目木大師にある案内板に拠ると「九島(くしま)鯨谷の願成寺は、離れ島にあるため巡拝に不便なため、寛永8年、元結掛に大師堂を移し、元結掛願成寺といった。明治になって龍光院に合併された・・」とあります。
「名所図会」に「願成寺 町入口右手に有、元結掛大師堂同寺に有り・・」とはこのこと。
馬目木大師堂
澄禅は、宇和島のことを「・・西ノ方入江ノ舟津ナリ。此真中ニ廻一里斗ノ城有。樹木生茂リタル中ニ天守以下ノ殿閣ドモ見ヘタリ。侍屋敷・町家ユゝシキ様也。祈願所ニ地蔵院、龍光院トテ両寺在り。此宇和島ハ昔ヨリ万事豊ニテ自由成所ナリ。殊ニ魚類多シ。鰯と云魚ハ当所の名物也・・」
と、珍しく多弁に高揚した気分で書き連ねているようです。
今も昔も、うまいもののあるよき所であるのでしょう。
終りに、龍光院の参道石段の中ほどに、茂兵衛標石、190度目、明治35年7月、西参道口に、219度目、明治41年11月。いずれも「いなり」を案内、があること書き添えておきましょう。
龍光院
この秋遍路の後半の旅。何だか道草が多かったような・・6日もかけて殆ど進まなかったような・・石造物ばっかり見て歩いたような・・
この辺で区切りとしましょうか。
(野井坂付近の地図 祝森付近の地図 宇和島付近の地図を追加しておきます。
(11月16日)
(追記)付録 伊予の生活の道古道(1)宇和島から南への道
この数年の間、土佐国境から宇和島まで更に中予や東予へ、いくつかの古くからの遍路道を辿って歩いてきました。
札所と札所を繋ぐ遍路道に対して、町や村々をつなぐ街道などの道、それは商業活動や生活のためというよりも政治的目的が強かったという指摘もありますが、ここではこれを敢えて「生活の道」と呼んでおきましょう。
遍路の道筋は多くの所で生活の道とも重なっていると想像できるのですが、多いに気になるのは生活の道の古道の在処です。古道と言っても江戸時代に入る前に開かれ消えていった道については、今や追いかけることはできないでしょう。私の興味の内にあるのは、江戸時代に生活の道として使われていた道です。江戸時代の文献を追って、その時代の生活の道の在処を確認してみたいと思います。
宇和島藩は宝永三年(1706)「大成郡録」を編集します。同書収容の「領境辨往録」には、宇和島からの主要道の道筋が示されています。(これらの大要はは愛媛県史 民俗上(昭和58年)に収録されており、一部を引用しながら記しておくことにします。)
ここでは、宇和島から南土佐国境へ向けての主要道を採り上げます。(なお、朱書(赤字)で記した距離の数値はそれ以前の朱書以降の距離を表しています。従ってこの距離を加算してゆくと累計距離が示されます。)
①「僧都村通小山村迄」
「一、御城下より来村(寄松付近)まで 道法拾四町 来村より祝森まで 同一里 此間中川弐ヶ所 一、祝森村より野井村迄 同壱里 此間中川壱ヶ所、弐拾町程上り下り坂也 野井坂 一、野井村より岩淵村迄 同弐拾壱町 此間川弐ヶ所、内壱ヶ所大川壱ヶ所中川、弐拾四町竿道
一、岩淵村より秀松村(増穂付近)迄 道法弐拾町 一、秀松村より僧都村迄 同三里半 此間中川弐ヶ所、三里程上り下り坂也、中野々平小かんとう 一、僧都村より緑村まで同弐里 此間中川壱ヶ所、壱里半程上り下り坂也、大かんとう 一、緑村より広見村迄同壱里 此間川弐ヶ所、内壱ヶ所中川、八町程上り坂下り坂也、赤坂 一、広見村より小山村迄 同弐拾五町 此間壱町程小坂也、舟越坂 一、小山村より土州境傍示杭迄 同弐拾壱町 此間道法上り坂也、松尾坂 道法合拾壱里拾壱町 竿道二〆拾壱里拾四町」
これは、宇和島、野井坂、岩淵、中道、広見を経て松尾坂に至る道で、現在の遍路道(最近復活した中道経由の道)ともほぼ一致しています。(括弧内は現在の地名をあてました)
②「正木村迄」
「一、御城下より来村迄道法拾四町 一、来村より祝森村迄 同壱里 此間中川弐ヶ所 一、祝森村より野井村迄 道法壱里 此間中川壱ヶ所、弐拾町程上り下り坂也、野井坂 一、野井坂より山財村迄 同壱里 此間大川三ヶ所、三拾町竿道 一、山財村より御内村迄 同壱里弐拾弐町 弐里竿道 道法合九里 竿道二〆九里八町」
これは、宇和島、野井坂、山財、御内を経て正木に至る道で御内以降の表記が曖昧ですが篠山越えの現在の遍路道ともほぼ一致する道です。
③「柏村通外海浦迄」
「一、御城下より来村まて 道法拾四町 一、来村より祝森村迄 同壱里 此間中川弐ヶ所 一、祝森村より高田村迄 同壱里半 此間小川三ヶ所、壱里程上り下り坂也、松尾坂 此間大川壱ヶ所 一、高田村より岩松村迄 拾八町 此間大川壱ヶ所 一、岩松村より芳原村迄 道法拾町 一、芳原村より下畑地村迄 同拾三町此間中川壱ヶ所 一、下畑地村より上畑地村迄 同拾八町 此間中川壱ケ所 一、上畑地村より柏村まて 同弐里拾七町 此間壱里半程上り下り坂也、柏坂 一、柏村より摺木村(御荘菊川付近)迄 同壱里 此間小川壱ケ所 一、摺木村より長洲村(御荘平山付近)迄 同壱里 此間小川壱ケ所 一、長洲村より平城村迄同拾八町 一、平城村より城辺村迄 同拾三町 此間大川壱ケ所 一、城辺村より外海浦(深浦)迄 同拾八町 此間道法四町程上り下り坂也 道法合拾里拾三町 但僧都村道ハ九里半」
これは、宇和島、松尾坂、岩松、柏坂、平城、城辺を経る道で、現在の柏坂越えの遍路道ともほぼ一致します。ただし終点は外海浦で以降海路による道に繋がっています。
以上のように、宇和島より南は生活の道と遍路道は見事に重なっていた、と言うより遍路もまた生活の道を歩いて巡っていたといえるのではないでしょうか。①の中道を経る道は幕府巡見使が通ったため巡見使道とも呼ばれ、官道としての色彩が強くまた、②の篠山越えの道はその厳しさより敬遠され、もっぱら③の柏坂越えの道(灘道)が遍路道として採用されていったと思われます。
さらに追記しておきましょう。上記追記中の③の終点が外海浦(深浦)となっているのは意のあるところと思われます。
外海浦は天然の良港で、藩政時代、海運が盛んで番所も置かれていました。明治以降の遍路においても、厳しい山越えの道を避けて船便がよく利用されたようです。
大正7年、高群逸枝は深浦から宿毛港(片島)まで船便を用いていますし、また宇和島への船の利用も誘われています。昭和7年、漫画家の宮尾しげをは宿毛港から深浦に舟を利用したと記しています。明治以降では船場として深浦の他に「平成25年秋その9」で示した茂兵衛道標に刻されるように貝塚港も利用されたようです。
(令和3年6月 改記)
四国遍路の旅記録 平成25年秋 その9
愛南町柏まで、それから・・(つづき)
(前回は観自在寺にお参りしたところでした。)
観自在寺から西に向う道は、今は国道56号ですが、この辺り昔は海であった所。山沿いに昔の道が残っています。その道を辿ってみます。
観自在寺近くは失われた道もあると思われますが、右の山に興禅寺や来迎寺を見て山際の道を行くと、来迎寺の下、住宅の石垣に挟まれるように茂兵衛標石があります。
正面に手印、行先などの標示はなく「八十八辺目供養 長州・・・中司茂兵衛」と。左面に「左 船場 明治十九年三月」と刻まれます。明治19年は茂兵衛が標石の建立を始めた年。これは、最初期の標石のひとつです。 船場とは、昔この近くにあった貝塚港を指すのでしょうか。
そこから低い山を越えて進むと、御荘地四国の石仏が並ぶ道。昔の遍路道を偲ばせる素晴らしい道です。
貝塚の茂兵衛標石
貝塚の茂兵衛標石
笹子谷への道
復元版真念石
舗装道との交差点に至り、そこに「右へんろみち」と刻まれた新しい標石。
ここは、平成23年10月に確認された真念石があった所。(真念石は、現在、宇和町歴史博物館に保管されているようです。)新しい標石は、その復元版なのです。(何と味気無いことか・・)
旧遍路道は、ここから右へ、笹子谷を奥まで回って、向いの山裾の川沿いを御荘港方向に南下して、国道に合流します。
西側の山を越える旧道もあったようですが、今は川を渡る橋もありません。(唯一ある鉄板の橋は、みかん畑へ上る道。)
暫く国道を行き、八百坂(はっひゃくさか)の切り通しの手前を右折、猫田の集落を通る道が旧道。今は殆どが舗装され、昔の道の風情は残っていません。
御荘菊川も今は新国道を通る遍路が多いようですが、できれば旧道を通りたいですね。(旧道を指す「四国のみち」の標石の矢印標示を汚く消したのは誰の仕業?)
特に、旧道を行き菊川の橋を渡って新国道に出る所。地蔵の残る地道で、昔の道の雰囲気が味わえます。
峠を越えて室手。突然、眼前に拡がる海の青さ。松尾峠以来、久しぶりの海に感動します。
沖の三ツ畑田島の三の小さな三角形が印象的です。
室手の海岸
この辺りで、柏のOさんの車を待ちます。
旧宿毛街道中道の拠点探査。Oさんの軽バンで荒れた作業道を強引に上り、大岩道への道、2ヶ所を探りました。私が歩いたのは3年半前、道の変わり様には驚くことが多かったこと・・
遍路日記とは関係ないこと、ここでは省略します。
その夜は御荘の宿。夕食は女将さんを入れた3人で回転寿司。楽しく過ごしましたとさ。
御荘付近の地図を追加しておきます。
(11月14日)
柏坂を越えて津島まで
室手海岸、今日は曇り
足が遅い上、道草も頻繁、おまけに行ったり戻ったりで、さっぱり進みません。今日も津島町高田までしか行かないのです。
昨日の歩き継ぎ、曇りの室手海岸を眺めて、柏のOさんのお宅の近くを少々。Oさんの、この地の悩み、個人的な悩みも少々お伺いしました。
Oさんと上り口で別れ、私は柏坂を上ります。そうそう、その前に石造物マニアは忘れてはいけません。坂の上り口の手前、酒店の前にある茂兵衛標石。184度目、明治34年。「(手指し)龍光寺 (手指し)観自在寺 左舟のりば」。標石の店側で少々見え難いのですが、茂兵衛さんとしては珍しく感情が出た句が刻まれています。「以登嬉し まよいもとけ天法能みち」。
大変きれいな標石で、地元の方々の心配りが感じられます。
柏の茂兵衛標石(右)
柏坂を上って行くと道の左側に小さな墓があります。
「びんごとも とさや おゆき」と刻まれています。「びんご とも」は、現在の広島県福山市の鞆港。今も港に面した海辺に土佐屋跡が残っています。いろは丸事件との関わりで、鞆に泊ったこともある坂本龍馬との関係を連想したくなるのですが、その糸は手繰れないようです。おゆきさんはどういう子細で、この山道で亡くなることになったのでしょうか。
上り口から2kほどで柳水大師のある柏坂休憩地。
立派な大師像がありますが、それは台座に刻まれるように、明治25年、中務茂兵衛が建立したものです。
おゆきの墓
柳水大師
柏坂、大師峰付近からの眺め 正面は沖ノ島
この柏坂休憩地に至る上り道には、昭和12年、この地に逗留したという野口雨情の詩を記した木標が立ちます。例えば「松の並木のあの柏坂幾度涙で越えたやら」(ああ、センチメンタルの極み!)
坂の最高峰は大師峰と呼ばれます。道はその少し下を進みます。その前を横切るのが、舗装された立派な林道。けっこうな頻度で車が走っており、驚かされます。地図で見ると、この道は篠山から小岩道、そして国道56号に繋がっている長大な道なのです。
清水大師を過ぎ、接待松を過ぎ、道は下り坂。つわな奥展望台に達します。ここから見る、由良半島を始め宇和海の島々の情景には、暫く足を留めさせます。何度目でしょうか・・ここに来る度に、天候により、時間により異なる印象を残してくれます。
つわな奥からの眺め
馬の背
柏坂の標石
馬の背を過ぎると、おそらく柏坂では唯一と思われる標石に出会います。
昭和5年7月の建立で「(両手指し)へんろみち四十番いなり寺 四十番かんじざい寺」(いなり寺の四十番は誤刻)
茶堂まで下れば、その先は民家と畑。最初の家で、おばあさんが話かけてきます。
昔遍路宿をやってたそうです。今夜は何処に泊るのか・・と何度も聞いてきます。
水道の蛇口があるので「水を・・」と言うと「それは出ん」とポンプを動かして太いパイプからどっさり戴きました。
山道を下った小祝川に架る小祝橋の畔。徳右衛門標石があります。
「これより いなりへ八(里?)」。下部は土に埋まって、地上は1m足らず。それがこの標石を大師像のように見せているのでしょう。お水や花が供えられています。
小祝橋の徳右衛門標石
芳原川に沿って行き、大門で国道を横切ると、左手に臨済宗禅蔵寺が見えてきます。
この寺には、県指定有形文化財に指定されている薬師堂があります。以前から是非参りたいと思っていたところ。
禅寺特有の簡素な山門をくぐると、緑の草の上、堂々とした仏殿の横に薬師堂が見えます。残念ながら境内の大銀杏は、まだ緑のまま。
案内板には、およそ次のようにあります。
「薬師堂は方三間(間口・奥行5.61m)、方形造、茅葺。創建は室町末期の1540年頃とされ、その様式を残して江戸中期に再建されている。外部は素朴な草庵風の日本の伝統的な民家の様式を踏襲していると言われる。花頭窓は禅宗様の古い形を残す・・」
何といっても民家風の茅葺が、仏堂という厳めしさを消して、我々を誘ってくれそう。それでいて前面の花頭窓、向拝、扉など力強さを失ってはいない。
どことなく感じるダイナミックさは室町建築の香りなのでしょうか・・仏殿の清楚さ、六地蔵のおられる緑の境内を含め、心洗われる出会いでした。
禅蔵寺山門
禅蔵寺
禅蔵寺薬師堂
芳原川の左岸の道を通り、内田の観音堂を拝し、金剛橋を渡ります。
ここから岩松までの道筋は2、3ありますが、川右岸の土手を通り、オサカの鼻の地蔵堂を拝し、山際の芳原庵寺の前を通る道がよいのではないかと思います。
オサカの鼻は、国道がその先端から100くらいを開削して通じたため、国道から50mほど西側の残った山塊の䕃にあるのが、昔からの地蔵堂だと思われます。
お堂には、合掌の印を結んだ地蔵と、元禄5年(1692)の僧侶の墓が並んでいます。
オサカの鼻の地蔵
芳原庵寺の前の道も、地蔵があったり、右手の山に遍路墓の姿を覗えるいい道です。
岩松の街を通り抜け、今日の宿は、津島町高田のビジネスホテルです。
岩松付近の地図 柏付近の地図 柏坂付近の地図 畑地付近の地図を追加しておきます。
(11月15日)
四国遍路の旅記録 平成25年秋 その8
松尾峠を越えて一本松まで、安養寺
宿を出て、寺前の茂兵衛標石を左折、0,5kほどの緩やかな山道を辿ります。
国道に出て押ノ川へ。
市山峠付近、右手に「南無阿弥陀佛」の名号や線彫りで仏像を刻んだ古石塔群があります。
犬を連れた散歩の人に聞くと「ここは古墳でもあって、石塔は江戸期より古いものらしい・・」とのこと。
その先、国道(新道)から左へ少し入った所に、一里塚跡と法華経塔があります。法華経塔は、柏島法連寺の日教上人が、貞享元年(1684)、五台山、甲浦と合わせて土佐国内に三基造立したものの一つ。貴重なものです。一里塚跡も今日まで残るものは珍しいと言われます。
市山峠の一里塚跡
宿毛市和田付近
松田川は、昔は牛の瀬川と呼ばれていましたが、江戸時代、件の野中兼山により建設された河戸(こうど)堰などにより、利水の便が図られていましたが、大正期以降頻発した台風による大被害に対応するため、平成12年、中流域の坂本ダムの建設、平成16年の河戸堰の可動式化が行われてきたということです。
新国道に架る新宿毛大橋の北100mほどが遍路も通る旧国道の宿毛大橋、さらにその北(上流)500mに可動化が成った立派な河戸堰が見えます。
宿毛大橋と堰の間が昔の渡し場。この辺りに折れた茂兵衛標石があると聞いていて、探しがてら土手を歩いていると地元の人に会います。
「だんなみてーなほんものじゃねーけど、こないだワシらも遍路行ったよ・・バスだけどよー。・・この辺り草刈りするけどそんな石は見ないなー。この辺りに昔、木の橋があっての、橋は新しくなるほど南へ移ってるってことだ・・」
標石は見つからず、河戸堰の上を歩いて対岸に渡ります。昔の渡し場と思しき所、土手に慶應三卯十一月と刻まれた地蔵がありました。新しい花が供えられています。
松田川渡河地点付近の地蔵
宿毛大橋の袂に竹大師堂。狭い境内には、「右(手指し)へんろ道」などと刻まれた明治期の標石が転がっていたりします。
宿毛の街を抜け、貝塚から松尾峠への道に入ります。
舗装道が地道に変わってすぐの所。江戸時代中後期の年号を見る多くの遍路墓が集められています。
錦、小深浦、大深浦と集落を経るこの道は、文政、天保などの時を刻んだ地蔵や墓を見て小さな峠を越える・・素晴らしい遍路道だと私は思います。花の季節は尚更でしょう。周りの山や空を映す小深浦の美しい溜池の傍で休むのもいいものです。
錦付近の道
小深浦の溜池
松尾坂番所跡を過ぎ、子安地蔵堂の傍から峠まで1.5kは急坂の山道。
この道は、昭和4年、宿毛トンネルが貫通するまでは、幡多と南予を結ぶ主街道であって、峠の案内板に拠ると江戸後期には、日に2、300人の旅人や遍路が通ったと記録されているということです。トンネルの開通により人の流れは変わり、2軒あったと言われる峠の茶屋も閉められ、遍路とハイカー以外は通らぬ道となったのですね。
峠の東側に「従是東土佐國」、西側に「従是西伊豫國宇和島藩支配地」と刻まれた2基の領界石が立っています。峠の案内板によると、伊予側のものは貞享四年(1687)の建立、土佐側のものはその翌年・・と書かれていますが、実はこれは正確ではなさそう。
伊予側の石に「・・宇和島藩支配地」とある「藩」という呼称は、藩籍奉還後から廃藩置県の間(明治2~4年)の間しか使われておらず、この石はその間に設置されたものであろうと考えられています。
それでは、貞享四年に設置された領界石は何処に・・ 松尾峠を下った小山本村の小山番所跡近くに三本の標石が立っています。その中央の石がそれであると見られています。そこには「従是西伊豫國宇和嶋領」と刻まれています。
四国遍礼名所圖会 松尾坂
「サカイ」と書かれた峠に2本の標石が見られる。「土佐國国境碑」と現在小山にある初代の「伊予國国境碑」であろうか。
松尾峠の領界石(土佐側)
松尾峠の領界石(伊予側)
昔は峠から宿毛湾の絶景が得られたようで、歌にも詠われていますが、今は樹木が繁り殆ど望めません。絶景をもとめ、150mほど西、純友城跡の展望台に寄ります。
藤原純友は有名でよく知られていますが、純友の死後、その妻がここで亡くなったなんて悲しい歴史、知りませんでした。
展望台からの眺望は見事です。絶景と呼ぶかどうか・・は個人の主観でしょうが。
近くには宿毛新港、咸陽島(かんようとう)(干潮時には歩いて渡れる。だるま夕日のポイントとしても知られる)。遠くは、柏島、蒲葵島(びろうじま)それに江戸初期の宇和島藩、土佐藩の国境紛争で知られる沖の島・・一望のもとです。
純友城跡から
純友城跡から(咸陽島)
純友城跡から・・
松尾峠から伊予側の下り道には驚かされます。昔の街道の雰囲気はもう何処にも残っていません。整備され尽したハイキングコースといった感じ。
山道を出ても、遍路道には特別製の道が用意されています。歩き道としてはこれ以上はないと思われる道・・
(追記) 土佐人気質について
土佐の道と伊予の道。この歴然とした違い。それに関連させて想起することがあります。追記しておきましょう。
昨年、佐藤久光・米田俊秀訳により紹介された、アルフレート・ボーナーの著書「同行二人の遍路」昭和3年(1928年)。(この四国遍路の研究書とも言える著書は、自らの遍路体験と文献調査によるもので、この時代、日本人を含め他の誰も為し得なかった点でも貴重であり、一種の驚きを禁じ得ないもの。)
そのなかで、ドイツ人ボーナーは、土佐の道の厳しさとともに、その人について執拗に記しています。土佐はその昔、遍路を拒否し続けた歴史を持ち、土佐の人々は遍路に対して極めて冷淡であったが、当時(昭和の初め)もまだその名残りがあった・・と。
土佐から伊予に入った遍路は、そこでいかに温かい対応に迎えられたかをも。
振り返ると、8年前、私が初めて松尾峠を越えて、一本松の街に入った時の遍路への関心と温かい対応を日記に書き残しています。(一巡目、第2回 その6) ひょっとしたら、100年に近い時の間もその気質は更に受け継がれてきたのかもしれません。
だからといって、現在の土佐(高知県)の人が遍路に冷淡であると言っているのではありません。そう感じたこともありません。
私は、土佐の道が好きです。海辺も山路も。その荒々しい表情の道こそ、遍路が歩く道であるとさえ思います。土佐の人に残っているかもしれない遍路に対する若干の無関心さは、現在の遍路にとって、むしろありがたいことかもしれませんね。
やがて小山本村。自然石のお堂の中の大師像と3基の標石が並びます。
右から、徳右衛門標石「これより くあんじざいじへ三リ」。この石は元々松尾峠の山道の出口にあったといいます。
中央の石は領界石で前記したもの。ただし、この石は明治になって遍路標石として再利用された際、手指し、大師像、「みぎへんろみち 明治十三年」などの文字などが後刻されています。
そして、左のもう一つの領界石は、やはり「従是西伊豫國宇和嶋領」と刻まれますが、天保5年(1834)に建てられたものと言われます。
そこより少し行った左側が小山番所跡で、当時使用された井戸のみが残っています。
特別製の歩き道
小山本村の大師堂と標石群
一本松の街に入ります。
今日の宿はここなのですが、時計はまだ昼を少し廻ったばかり。寄り道の始まりです。
広見の札掛から分岐する篠山道の途中、増田中組にある安養寺と徳右衛門標石を訪ねます。(篠山へ行く遍路は昔から通った道ですが、最近は協力会が広域農道を篠山へ行く道として充てたため、通る遍路は殆どいないようです。)
国道56号が増田川を渡った所から北へ行く道を辿ります。
1kほど行くと、橋の袂に四角の樹木のようなものが。これが蔦に纏われた徳右衛門標石でした。
蔦を除きます。何年かぶりに太陽を見て標石もうれしそう・・きっと。
「これより ささ山へ三リ」辛うじて読み取れるほど。隣には小さな地蔵標石「左へんろ道」と。
安養寺を訪ねます。こういう村では、きまって若い人の姿は見ません。でも中高年の人がけっこう外に出て働いています。
何人かの人に聞いても、皆「ああ、安養寺さんね・・まっすぐつきあたり・・」とニッコリ。
村の人に微笑みをいただいただけで、私はそう思ってしまうのです。寺の門前村のような中組は、どこか幸せの村のようだと。うれしくなります。
浄土宗安養寺。山を背に立派な佇まい。庫裡の前、多くの布団が干してあるのも開かれた寺を思わせます。
毎年旧暦の7月11日に行われる「花とり踊り」で知られます。
本堂の前の六地蔵。元禄や享保など江戸中期の年号が見られる立派な地蔵。寺前の蓮池も、この季節寂しげで美しい。
増田中組の徳右衛門標石
安養寺
安養寺の地蔵
安養寺の池
帰りの道は行きとは違う淋しい山際の道を通って一本松に戻りました。
右手に、山裾を縫うようにはしる篠山道を見ることができます。
いいお寺といい村におまいりした、満ち足りた気持ちでした。
宿毛付近の地図 札掛付近の地図を追加しておきます。
(11月13日)
愛南町柏まで、それから・・
一本松の宿を発って、40番観自在寺におまいり、柏近くまで歩いて、前記のように別用でOさんにお会いする。これが、この日の予定。
県道299号(旧街道)を行くと、右手に神社の幟立てに寄り添う、文政11年の標石があります。(幟立ての方が後設置ですが・・)「これより くわんじざい寺迄二里」。
やがて札掛。
篠山神社の一の鳥居の前の札掛宿。女将さんにご挨拶しようと思いましたが、宿はひっそり。お出掛けのようでした。
ここより上大道の駄場まで、協力会は忠実に県道299号を遍路道に充てていますが、(「うさぎの耳」と言われる)県道をバイパスするように、地道の遍路道があります。
できれば、こちらを通りたいもの。もっとも、案内標示もしっかりありますから、それに従えば、意識しなくても導かれます。
満倉小学校の向い、立派な休憩所があります。そのすぐ先、小さな地蔵と並んだ徳右衛門標石「これより左リ こわんじざいじへ壱里半」があります。この標石は元は100mほど西、旧街道の灘道と中道の分岐点にあったと言われます。
今日は灘道を辿ります。暫く行くと、道右手に(両手指し)へんろみち 城辺豊田町 中尾クニと刻まれた比較的新しく美しい標石。
山道を下ると地蔵堂。コスモス畑が何とも美しい。地蔵と並んだ備中の人の墓。
上大道の徳右衛門標石
豊田の標石
山陰の地蔵堂
コスモス畑
豊田の小さな橋の袂、徳右衛門標石「これより くわんじざいじへ一リ」。隣に政吉の手指しがあったということですが、見当たりません。(政吉の道標にはよく漁網が掛けられている・・実はこの時も。)
金彩の色絵で知られる豊田窯跡。小さな橋を渡ると、古い宝号塔や地蔵が集められた広場。近くの人の話では、ここで篠山大権現の神火を受けた祭りが行われていたという。
豊田の僧都川畔。この辺り、飛石伝いに川を渡り、峰地の中道に合流する道もあったようです。
昔の灘道は、ここから城辺の街中を通って観自在寺に向っていたようですが、私は僧都川左岸の土手道を行きます。
40番観自在寺。門前には托鉢の遍路が立っています。
団体のおまいりで、若い女性の美しい声でのご詠歌を聞きました。納経所の若い僧は「○○派のご詠歌だと思うが、ちょっと節廻しが違う・・」とおっしゃる。門前の托鉢といい、ご詠歌といい、この寺での他の遍路記によく出てくるように思われます。不思議な符合なのかもしれません。
この寺では、私も過去3回のおまいりで、いろいろな人と出会った・・そのことを思いだしていました。
観自在寺山門前
観自在寺の遍路
城辺付近の地図を追加しておきます。
(11月14日の日記 もう少しつづきます)
四国遍路の旅記録 平成25年秋 その7
上長谷から地蔵峠、有岡道、浜田の泊屋、延光寺へ
朝食の後、宿のご主人に車で送っていただいて真念石のある三差路まで。(歩いて行くと言ったのですが・・)
ここから地蔵峠を越えて延光寺まで行きます。今日もあまり歩かないなー。こんなんでいいのかなー・・
この三差路には、三つの石造物が並んでいます。
今日も石造物マニアの執念の発揮場です。
右側一番背の高い石は「へんろ道 右寺山寺 左足摺山」と刻まれた明治以降と思われる標石。
左側に古色の地蔵があって、中央が真念石。
「右遍路みち 左大ミつのときハこのみちよし 願主眞念 為父母六親、貞享四(1687)丁卯三月廿一日 施主 大坂西濱町てら志ま五良衛門立之」。
真念の心配りが表れた石として知られるもの。また、真念の標石としては唯一年号が刻まれたものでもあります。施主が真念と同所の人であること、日付に大師の祥月命日が選ばれていることにも注目されます。
真念は「道指南」でも「上ながたに村 しるし石、いにしえハ左へゆきし、今ハ右へゆく、但大水のときハ左よし。」と記しています。これは、右へ行って峠を越えた江の村の川(現在の中筋川)は氾濫することが多かったことによるとされています。
上長谷分岐の石造物(中央が真念石)
真念石
輝く朝の畑
地蔵峠への道は最近全舗装となりました。「歩き」にとってはちょっと残念なことです。
地蔵峠。この峠は「四国偏禮繪図」に記されるように、昔はミワタシサカと呼ばれたようです。峠で交差する林道風の道は、地元の人の話によれば、中村に通じるけっこう古くからの道だということです。
この峠が現在地蔵峠と呼ばれるのは、峠に置かれた二つの地蔵に拠ると思われます。地元の人も「峠には地蔵さんが2体あるよ・・」と言います。
私は以前から不思議に思っていたことがあります。それは、向って右側に置かれた地蔵は、明らかに地蔵菩薩ですが、左側のもうひとつは顔が三つある像。これを、道祖神と習合した地蔵菩薩と説明される方もおられ、それが正しいのかもしれません。しかし、私には形式としては馬頭観音のようにも思えるのです。
はたして中央の頭の上に馬頭が彫られているか・・足場の悪い崖の石段を上って堂前まで行って見ましたが、「あるような、無いような・・」どうも確認できません。ご存知の方、何方か教えてください。
しかし、それは兎も角、この像大変ユニークで、素朴で、魅力的な石仏であることに気付かされます。
地蔵峠、右が江ノ村への道
峠の石像
地蔵峠から下る道は、平成15年、「へんろみち保存協力会」により復元された道で、右側が急な谷という地形上路肩が失われ易く危うい道なのですが、よく維持されていると思わせられます。
坂をほぼ下りきった所に大師堂。
堂内の大師像の台座には「文化十三子年七月」(1816)と刻まれ、今日も色鮮やかな花が供えられ、地元の方の信心を感じさせられます。
堂の周りには、天保九年、尾州と読める人の墓、さらに古色を帯びた墓、独特な表情を持った石仏など多くの石造物が集められ、幽玄な空間を造っています。
大師堂
大師堂付近の石造物
中筋川
江ノ村を過ぎ、安らぎ大師が置かれた西ノ谷休憩所から平田への道は、協力会では国道56号バイパス自動車道の下をくぐって、側道を左右する道を充てていますが、最短距離には違いないのでしょうが、ちょっと解せないことに思えます。
「名所図会」では「ゑの村、茶屋ニてすし有。甚だよし名物也、川船渡し 三文宛、磯川村茶屋ニて休足、焼米坂小坂也、石燈米ノ形也、有り岡村入口ニ八袋の接待有り、住吉社右手有り、山田村此所も八袋の接待有り、中村(現在の平田町中山)」と記しており、昔は現在の国道56号、またはその近く、やや北側を通っていたことがわかります。
私は、西ノ谷から中筋川を橋のある所で渡り、磯ノ川で国道56号に入りました。
有岡団地に少し入り、西側に見える山の一番低い所を目指して、これを越えます。きっと、昔の焼米坂でしょう。荒れていますが、「小坂」ですから難なく越えて有岡八幡の前の道に出ます。
八幡の東隣には日蓮宗の真静寺があります。
寺の前の道には、昭和8年の手指し標石があります。正面には、何やら句のようなものが彫りつけられている様子。(後に調査の結果、経済学者・歌人の橋田東聲の墓を示す(従是三丁)道標であると判明。)
国道に出て、名所図会にも記されている住吉神社の少し手前、文政10年(1827)の大きな標石があります。
「左 三拾九番寺山寺 六十五丁」までは納得ですが、その右に「右 日本勧請(始?) 金毘羅宮廿丁」と刻まれているように私には読めます。私がちょっと調べた範囲では、現在この近くに琴平神社という小社がありますが、方向は左(西)です。下部に「宮ヨリ打ヌケ五十丁」とあるようで、「寺山 六十五丁」は現位置からは遠すぎる、「右」は左の誤り(?)この標石は廿丁ほど東方にあったのかも・・などと思い惑う、果たして・・
山奈町山田の標石
追記「再興された金毘羅宮」
文政10年の道標に記された金比羅宮の所在地特定には悩まされましたが、その後「南路志」の山田村の項に次のような記述があることを発見。(意訳)
「金毘羅大権現 五宝寺林内奥院、勧請年不知なれど五宝寺の峯に旧跡があるという、何れの時より退転したのかも言い伝えは無い。」
五宝寺(道標より北へ約2k、現住所宿毛市山奈町山田)の裏山の山道を上った所に、明治11年再興されたという金毘羅宮がある。これが道標にも記された金毘羅大権現であると思われる。(南路志の「奥院」という表記は「別当」と解した方が自然であるかも・・)
第39番札所延光寺への道程としては可成りの遠回りではあることと、「宮ヨリ打ヌケ・・」の表記に惑わされ、「打抜け道はない」と思ってしまうが、古い地図(明治末)には芳奈を経て延光寺に至る山道、小道が存在したようである。
さて、この先、国道を外れて寄り道の始まりです。
山奈町芳奈にある浜田の泊屋を訪ねます。
薄い緑に拡がる田畑の向こう、鶏神社の参道の横に、その特徴のある姿を見せます。
案内板には凡そ次のように書かれています。
「幕末から明治、大正にかけて幡多に280ヶ所もあったが、今では芳奈に4ヶ所を残すだけとなった.泊屋は別名「やぐら」といわれ、戦国時代に見張りのために建てられたものが起源であるといわれる。その後、集落の警備や若衆の夜なべ、娯楽、研修、社交の場となり、幕末以降全盛を極めた。明治の終り頃から公会堂にとって変わられ、或いは風紀を乱すという理由で次々と壊されていった。芳奈には、この浜田の他に、下組、靴抜、道の川に泊屋が残されている。浜田の泊屋は国指定重要民族資料となっている。・・床下には、若衆達が娯楽として使用した力石が今も残る・・」
泊屋は、俗には「夜這い」などとの関連で風俗的な意味で語られることが多いのですが、その時代、より建設的、開明的意味をも持っていたことが想像できるのです。
泊屋の現代に通ずる意味を語るには、私は知識にも欠け、能力もありません。ただ、そこにある物理的な建物の中に秘められた、当時の人々の思いや願いのようなものを感じとれたら・・と思うだけでした。
浜田の泊屋は、明治14、5年頃の改築と言われ、九尺四方、木造高床式の平屋建。屋根は入母屋造り桟瓦葺きです。四隅の柱には、栗の太い自然木をそのまま用い、屋根の勾配を緩く、全体のなかで部屋部分を小さくして安定感を持たせています。もちろん、寺社建築のように贅を尽くしたものではありませんが、実用性の中に控え目な華麗さを潜ませて、風格ある建物となっています。それを造った人々の細かい心配りと、託した希望を感じとれたように思いました。
帰り道でお会いした奥様に「残っているという他の三つの泊屋はここから近いのですか・・」とお聞きすると、「いやいや、見るこたーねえ。いや見ない方がええ・・」とのこと。
浜田の泊屋
浜田の泊屋
県道353号を通り延光寺に向います。
宿毛市運動公園の前を通り、上に養護施設が見える所。
「39番やったら、その先を右に下りて、右に曲がればすぐや・・」と教えていただきます。
石造物マニアの私は国道まで出て、標石など見ながら延光寺まで行くつもり。でも、見ておられるうちは、指示の通り進みます。これでも、気を使っているのです。
国道から入った寺尾の集落の道沿いに、多くの石造物が集められています。
「右 寺山十丁目、寛政四年三月廿一日」の地蔵道標。天保4年大坂堺安立町の人の墓。但馬城崎郡今森村、母子の二人墓。周防上之岡の人の墓。「南無大師遍照金剛」の宝号石。それに真念石。
真念石は「・・みち」が辛うじて読めるもので、そうと言われなければ、そうと気付きません。
寺尾の標石
遍路の墓
寺尾の地蔵
その少し南、誰かが遍路笠を被せた立派な地蔵があります。享和三年癸亥(1803)。台座には手指しも刻まれ寺山道を指しています。(この手指しは後の追刻と言われます。)
国道のバス停「寺山口」の近く、道の角、嵩上げされた道路の傍、一段低い畑の中に茂兵衛標石。265度目、大正5年12月。「(手指し)寺山延光寺、足摺山江十一里、「旅もれし唯一すじに法の道」。(この添句、「旅もれし・・」の「も」は「う」の間違い、または異変字か?って喜代吉栄徳さんが言ってますね・・)
その200mほど北にも茂兵衛標石。237度目、明治43年3月。「(手指し)寺山、足摺山、「花の香やいと奥ふかき法の聲」。この標石も嵩上げされた敷地の隣の一段低い畑の中。
さらに、延光寺の前、40番へ向う山道の分岐にも茂兵衛標石。114度目、明治23年5月。「第39番霊場、40番是ヨリ七里」。
第39番延光寺。山門の立派さにはいつもながら感銘を受けます。境内も落ち着いてよい雰囲気。目洗い井戸にも忘れずおまいり。
延光寺山門
奥の院、南光院があると聞いておりますので、探します。
追記 「寺山 延光寺の変遷」
澄禅「四国遍路日記」(1653)の寺山の項に「・・寺ノ下近所ニ南光院ト云山伏在リ。・・」また、「四国遍礼名所図会」(1800)の三拾九番赤亀山寺山院延光寺の項に、「・・奥院、本堂より十八丁也、窟 不動明王 大師ごまだん、今ハ人間不通、門ノ跡、夫より門前へ出て一丁 中村南光院、修験者とテ一宿。・・」とあります。(「南路志」にも「奥院、当寺より酉の方(西方)の高山にある。頂上に大師護摩修行の石檀がある」との記述がある。)
記述は短いものの、夫々この寺にとって重要な事が記されているように思えます。この寺はその起源においては弘法大師との縁は浅いように感じられます。
名所図会や南路志に記された奥院とは遠方で方位も異なると思えますが、寺の南東に貝ケ森(貝ノ森)の頂上(450m)には置山権現が祀られ、修験者の行が行われていたと伝わります。このような行場の一つが里下りして寺となった・・ その一つが延光寺になったのではないかと言われています。(当山派(真言系)修験の流れ・・そしてこの地方のリーダー的立場にあったのが南光院であったのではないかと。)
戦国期、16世紀後半、長宗我部元親は讃岐に入り、金毘羅の実質上の創始者(松尾寺の金毘羅権現化)とも言われる宥雅を追い、土佐出身の修験者南光院を宥厳と改名させ松尾寺に入れたとされます。
その後、元親の讃岐撤退とともに宥厳を土佐に呼び戻し延光寺を与えるなど変転を重ねます。江戸期に入り土佐に入った山内家は本山派(天台系)修験を支援したため、南光院は衰退し、延光寺が保護されることになります。澄禅も「本堂東向、本尊薬師、二王門・鐘楼・御影堂・鎮守ノ社、何も此太守ヨリ再興在テ結構ナリ。・・」と記しています。
(私は延光寺に参り、納経所で奥ノ院南光院の場所を尋ねました。「本寺には奥院はありません」との返事。その理由の一部が分かったように思ったものでした。) (令和5年7月追記)
今日の宿は門前の一軒宿なり。
地蔵峠付近の地図 有岡付近の地図 寺山付近の地図を追加しておきます。
(11月12日)