四国遍路の旅記録  平成25年秋  その4

大岐の浜、足摺岬、金剛福寺



久百々の浜


久百々の浜


久百々の浜

久百々の海岸の巌と波、そして道の先に浮かぶ足摺の山影。
この風景を、酔うような気持ちで眺め何度歩いたことでしょう。今度もまた写真に収めました。
やがて、大岐の浜が見えてきます。浜全体が見渡せる高所から、無限のように幾重にも寄せてくる波頭をづっと眺めていました。
この浜は遍路が歩く道でもあります。
私は、四国の遍路道の中で最も素晴らしいと思う道の一つであり、今回の遍路で最も希求した、その道です。
浜には、昔から多くの命が波に乗って、あるいは空を渡ってやってきているように思えます。浜の砂をゆっくり歩き、渚で祈りました。
浜に渡る危うい木橋の上を逆打ち遍路が通っていました。その黒い影は瞬く間に消えてゆきました。どの時空に行ったのか・・疑います。


大岐の浜


大岐の浜

大岐の浜


大岐の浜


大岐の浜


大岐の浜


大岐の浜

大岐の浜の海岸線は、昭和に入ってからでもかなり後退していると、地元のお年寄りから聞きました。昔の砂浜はもっと豊かで遠浅に沖に張り出していたのでしょう。
「名所図会」には 「くもゝ村山路也、大木村此所ニテ支度、小谷川水出の時ハ川上よし、浜辺砂道廿丁斗リ 山路此間二一丁四方芝原有、景吉・・」とあります。
水出のない時や潮の引いた時は松林の中の浜辺砂道を通ったようです。
浜の風景は白砂青松と言われるのでしょうが、ここの松は若木が多いようです。件の野中兼山の命により植えられた松が昭和30年代のマツクイムシのために枯れ、今見る松はその後に植えられたものといいます。
浜の最後、「靴を脱いで小川を渡る・・」のが常でしたが、この度は小川はすっかり姿を消していました。


以布利港の近く、民宿旅路。ここには何度お世話になったことか・・お父さんとお母さんがおられました。お父さんは以布利の漁協の組合長もやられていたとか。
お父さんからもお母さんからも、たくさんいいお話をいただきました。照葉樹林は命を育むという話や、海の資源と人の生活水の循環の係わりの話を熱く語られたことを思いだします。それらは自らの生活の中から得られたものである故に特に強く心に残っているのです。
最近、お父さんは亡くなられたと聞きました。民宿の看板も外された家の前で、合掌させていただきました。
以布利の港を抜け浜を通って以布利遍路道へ。
山道の入口の岩に立つ仏海の地蔵菩薩。その限りなく穏やかな表情に見入ります。この地蔵「道しるべ地蔵」とも呼ばれるように道標でもあります。光背の左側上部に「あしすりへ三リ五丁」と刻まれているようです。


以布利の浜の仏海の地蔵

 「あしすりへ三リ五丁」

 足摺の遍路道

 足摺の遍路道

細い県道27号をショートカットするように、いくつもの山道があります。昔からの足摺の遍路道を思わせるような豊かな道です。
それらの道の所々に足摺遍路道特有の自然石の丁石を見ることがあります。真念庵の近くの「三原分岐」の350丁石から始まって、38番金剛福寺まで一つづつ数を減らして、350の丁石があったと言われます。
三原分岐の案内板には、「55基が今に残る」と記されていますが、さて今は・・ 
しかし、考えてみるとこの丁石の丁数はちょっと不思議。
足摺七里と言われますから、1里を36丁とすると252となり350と合いません。これは、土佐においては1里を50丁とする慣行があり、これに拠ったとされています。
そして、丁石の多くは美作国(岡山北部)の行者、玉林院宗英が建立を呼び掛け、弘化2年(1845)から嘉永5年(1852)までの間に設置されたものと言われます。
足摺の丁石というと、何となく真念の時代との関連を想うのですが、ずっと後、幕末のものなのですね。
(丁石の写真も撮りましたが、ごきげんの悪いコンデジでは手に負えない。ごきげんでも刻字を表すのは難しいかも・・とにかく載せません。)

県道27号から348号が南へ分岐する所の直後から始まる山道は、足摺まででは最も長く残っている旧道。3k近くはありましょうか。
民宿旅路のお父さんの話を思いだしました。
「ワシが子供の頃、この道の途中に家があってなー そこへ新聞配達に通ったもんや・・この道だけは通らん方がええ、きつい道じゃ・・」 
でも、今回は通ってみます。
他の旧道には付けられている「足摺遍路道」の標示は、どういう訳か外されていました。(この標示には確か「県道30分、山道60分)」と書かれていたはず。)
代わりに蜘蛛の巣の出迎えです。
この道には丁石が特に多く残っているようでした。10基近くはあったか・・ 
入って暫く、平な場所に石垣。家の跡。
後半は谷を橋で渡り、尾根に上るのを繰り返す。数えた人がおられて、木橋5、石橋1だそうです。
山道の出口は墓地を通り、窪津の街を見おろす海蔵院の前に。
多くの石仏がありますが、特に注目されるのは、石段の降り口に置かれた文化9年(1812)、捕鯨を生業としていた津呂組が寄進した地蔵石仏。
補修の跡が目立つ石仏ですが、台座には「(手印)へんろみち 文化九壬申 津呂組 為鯨供養也 施主鯨方当本 奥宮正敬立之」と刻まれています。

(追記)海蔵院について
窪津の海蔵院については「南路志」に次のような記述がある。(意訳)
「本尊十一面観音、寺記に云う、宝永4年(1707宝永地震)に流失して今の所に移る。以前はホノキ山の際と中段にあったが、寺地が大きく流失した。阿弥陀堂がある。」
今は寺地も細い坂道を上った高所にあり、本尊も変わっている。(大日如来)

 海蔵院と鯨供養地蔵

(追記)江戸期の捕鯨について
海蔵院の鯨供養地蔵を見たところ、土佐の捕鯨について少々触れておきましょう。
土佐で捕鯨が盛んとなるのは17世紀後半、紀州の網取捕鯨を習い取り入れたことに始まるとされています。津呂組、浮津組の二つのグループが、室戸の津呂港、足摺の窪津浦を拠点に活動してしていたようです。
津呂という地名は室戸と足摺にあること、室戸の津呂港は土佐藩家老野中兼山の命により整備されたことなども知ります。
捕鯨の様子は宝暦4年(1754)日本山海名物図会にも示されています。


日本山海名物図会「鯨置網」


さて、この山道(旧道)を通るべきか、はたまた県道を通るべきか? 
山道からは海は殆ど見えないし、私のような山道好きでもちょっと考えますね。

時間に余裕がないときは通らない方がよいでしょうね。

窪津から足摺岬までは只管県道歩き。
途中の赤碆には、昔38番の奥の院があった白皇山に行く道があった所で、首の無い地蔵の台座に古い標示も残っています。「右へんろみち 左白王山みち」 寶歴丁丑(=7年(1757))。山道も伸びていますが、白皇山まで行けるかどうか・・

余談ながら、昭和18年の漫画家宮尾重男「四国遍路」には首のある立派な地蔵の姿と白王山に向かうリュック、帽子、ゲートル姿の本人?が描かれています。当時、ここより白王山へは打ち戻りの道を辿ったと思われます。

足摺岬に近ずくと、右側に上る山道が多く見られます。昔の遍路道でしょうか。その辺りで見た11丁石、最も若い数の足摺遍路道丁石か・・。
 

38番札所金剛福寺。境内は改装が終り、新しく出来た池が鏡の様。
この寺の山門にかかる扁額には、補陀洛東門と書かれています。昔、多くの人がこの地から補陀洛渡海を目指したという、その永遠の水のおもてを表しているように思えました。(金剛福寺の寺の推移と足摺の地名起源については、三巡目の日記に記しました。省略します。)

納経所で「きれいになりましたねー・・」というと「お蔭さまで・・」四つ目の重ね印を見て「これ全部歩きで?・・ああ、たまには電車、バス・・そりゃ仕方ないですよ・・」と年長者には労り。

門前には寺名を彫った石の他に二つの標石が立っています。
左側は徳右衛門標石「是ヨリ寺山迠十二里」。これは、打ち戻りでの延光寺までの距離
を示しています。
右側、蘇鉄の葉に隠れるような古い標石。(読み辛いですが)「従是寺山江打抜十三里 (小さく)月山へ九里」。月山まわりで十三里はおかしい・・これも、1里を五十丁で表示した里程だと言われています。(1里を36丁で計算すると18里となる。)そして、下に小さく彫られた「月山へ九リ」は1里、36丁での追刻だということのようです。

 金剛福寺前の標石

足摺岬

本日の宿はまだ5kほど先。歩いたか・・? それを聞かねーでください。まだ、足摺り岬も見学せにゃいかんのですから・・

 大岐浜付近の地図 土佐清水付近の地図 津呂付近の地図 足摺岬付近の地図を追加しておきます。

                                                     (10月2日)


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コメント
 
 
 
綺麗ですね~ (桃 ぶどう)
2013-11-18 21:12:17
写真は綺麗だし、文章は素敵だし、同じ場所を歩いたはずなのに、違う場所の様です^^
 
 
 
桃 ぶどうさん (枯雑草)
2013-11-19 15:21:05
こんにちは。
御ほめいただきありがとうございます。
今回の大岐の浜は、天気もよく特に
きれいだったように思います。
日記自体はおもしろくなく、すいません。
 
 
 
いぶり村 大師堂 (たけのしん)
2017-08-07 22:43:15
真念さん、遍礼図会の作者、松浦武四郎など皆んなが言及している以布利の大師堂ですが、以布利で大師堂を見つけられません。澄禅さんは海蔵院には言及していますが、こちらは無し。気になります。
 
 
 
たけのしんさん (枯雑草)
2017-08-08 10:38:18
こんにちは。
江戸初期以降の大師堂の急激な増加は研究者の指摘するところ。それは、澄禅、真念、名所図会の記述にも反映されているのでしょうか・・
大師堂探索の成果、期待させていただきます。
 
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