感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、完全なじじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・
枯雑草の巡礼日記
四国遍路の旅記録 三巡目 第4回 その4
中浜万次郎の故郷 (平成22年4月11日)
貝ノ川の海岸
貝ノ川の海岸
この日は叶崎から竜串、土佐清水の街を経て、松尾の宿青岬までの27.5kの行程です。
やはり、道の左側に美しい海と岩の間で騒ぐ波を眺めての歩行です。
多くあるトンネルの一つ歯朶ノ浦トンネルを通らず、海岸の道を通ってみました。
1個所崩れていますが、人の通行は可能です。
道の入口には工事中の看板。工事用の重機は海岸の道に置かれたまま、もう何年も経ったような様子。どうなっているのでしょうか。
月山神社を回る遍路は、その昔は港港の間は多く山越えの道を辿り、それが海岸の道へと変わり、更にトンネルとなった・・、きっとそうなのだと思います。
むろん、遍路だけではありません、一般の住民もまた。
トンネルにより車が通ることが無くなった海岸の道は放置すれば、そのうち崩れてくるでしょう。車道の幅で保持するのではなく、歩道の状態で保持するか、或いは思い切って自然に返してしまう・・それでいいのではないか、などと取り留めなく考えていました。
海岸の道
トンネル
海岸の道の崩壊
竜串の街を過ぎます。
ここより南の海岸には、大竹小竹と呼ばれる丸い節理の奇岩や、大師が見残したことに因むと言われる屏風岩などの「見残し海岸」、あるいは海中公園などがある観光地です。
どこの観光地も多かれ少なかれそうですが、現在の不況が齎すのでしょうか、辺りに漂う閑散とした寂しさを感じさせるのです。
道の駅「めじかの里土佐清水」に寄ります。5年前にも寄った懐かしい場所です。
開いている店も一軒だけ、人も少なくちょっと寂しい感じです。
デコポンを買いました。最小で4個入りです。
ちょうど1人の遍路が入ってきましたので、一つお接待とします。この人、この日会った唯一人の遍路でしたが、朝、土佐清水を発って叶崎の宿に泊まると言っています。
「食事は無いんだー・・」と言っています。ちょっとアドバイス。早速電話しています。
道の駅から見える所に、35号へんろ小屋があります。去年秋出来たばかりです。
大月でもそうでしたが、このように道の駅の傍にへんろ小屋を建てることには、ちょっと疑問を感じない訳にはゆきません。
道の駅では、遍路の休憩を拒否している訳ではないのですから、この辺りに来て敢えてへんろ小屋で休憩する遍路がいるのでしょうか・・。私も、またもう一人の遍路も道の駅に来てしまったように。(もちろん、宿泊という意味なら別でしょうが・・)
道の傍の田圃、一家総出の除草作業を見ます。ほっとする風景です。
益野。ここからは、今ノ山を経て三原に通じる道が分岐しています。延光寺へ行く魅力的な遍路道の一つです。
落窪海岸の化石漣痕(波や水流の影響で水中の堆積物の表面に出来た模様が化石化したものをいうそうです。)も目を見張らされるものです。
田圃の作業(下川口)
落窪の漣痕
土佐清水の街を過ぎ、中浜へ向う山越えの道。
近所の人に聞きますが、その入口は見落としてしまいました。逆打ちのデメリットですね。
その代り県道沿いにある清水の名水を見ました。土佐清水の地名の起源ともなったと言われる名水だそうです。でも、今は汚染が進んでいて飲まない方がよいとの注意書き。残念です。
土佐清水港口
中浜万次郎記念碑
中浜の街に入ります。
ここは何と言っても中浜万次郎生誕の地で有名。記念碑があります。
漂流から11年の後、故郷のこの地に帰ってきた万次郎は、三日三晩を母と過ごしただけで、幕府に旗本として登用され、江戸に出向いたといいます。
それからの活躍は広く知られるところですね。
碑の横に、ジョン万次郎が漂流後アメリカでまみえた友人ホイットフィールド船長に宛てた手紙が掲げられています。
原文はおそらく英語で書かれたものでしょうが、しっかりした文体、その時代の日本人を超えていたであろう心の広さを感じさせる感動的なものです。
長文ですが、その場に座ってじっくり読ませていただきました。
ジョン万次郎の手紙
中浜から大浜そして払川、その先の山道を越えると、辺りは開けた公園の中。
そんな場所にあるのが今日の宿青岬でした。
この宿、思いもよらぬ驚きの宿だったのです。
まず、ロケーションの素晴らしさ。元、森林組合の保養所だったそうですが、前方いっぱいに拡がる海の眺望です。
施設の素晴らしさ、そして料理の豪華さです。
ご主人と奥さまが管理されていますが、ご主人は独自の経営思想をお持ちのようで、料理人でもあるようです。うつぼのから揚げの特別料理、何とも美味でした。
私は小食で料理の殆どを残してしまったことは残念ですが・・。是非、美食家の方と来てみたいものです。
客は車遍路の人、車の一般観光客、馴染みの歩き遍路が多いと聞きましたが、これで料金は、一般の民宿の1割高程度。経営が成り立つのか・・心配になるほどです。
私にとっては、ちょっとした感動の体験でした。
ここに歩いてくる途中、松崎で「○のくじら」という魅力的なペンションの看板も見ました。
ことによると、遍路が泊る宿もこれから後、変わってくるのではないか・・そんな気もするのです。
青岬の宿から松尾の街を
雨、雨、雨の足摺で (平成22年4月12日)
感動の宿青岬を出て、38番札所金剛福寺にお参りし、足摺の東海岸を北上、九万地崎の宿まで約25kです。
予報の雨を聞いて、短い行程としました。
予報通りの雨です。ポンチョを着て出ます。
宿の隣の「うすばえさくら公園」、桜はもう大方散っていますが、少し前はさぞかし・・と思わせます。
松尾。坂の多い静かな街です。樹齢300年というアコウの大樹が、街の真ん中に聳えていますが、遍路道沿いに思わぬ見物がありました。
国指定重文「吉福家住宅」です。
明治34年、一代で財を築いた網元の二代目、吉福嘉太郎によって建てられた住宅。
日本古来の建築の伝統を踏襲しながら、随所に生活のし易さと楽しみが得られる空間が造られています。私にとっては、昔何処かで会ったような懐かしさを感じる家でもあります。
そして、このカラッとした明るい佇まいは、何ものにも代え難い貴重なものに思えます。
興味のある方、ぜひお寄りになるようお勧めします。
吉福家住宅
吉福家住宅
吉福家住宅
吉福家住宅
松尾の石垣の道
松尾の海辺
(追記)松尾の漁村について
宮本常一は、昭和52年の農林省「農山漁家生活改善技術資料収集調査」の一環として、当時の当主吉福金三さん(当時76歳)に「鰹漁」についての聞書を行っています。その中で次のように記しています。
「この地方の鰹漁は寛文5年(1665)頃にはじまった。紀州の印南浦から28槽が出漁したのに始まるといわれる。・・」「松尾は今(昭和52年当時)人口が1000人ほどになっているが大正7年には2700人もいた。その頃が松尾の最盛期で愛媛からたくさんの船方が稼ぎに来ていた。・・」
平成22年の調査では人口390人となっています。
古くからの農民の地に江戸中期、紀州からの鰹漁師が来て滞在しやがて定住するようになった、そのため一見農村的な漁村が出現したと宮本は考えたようです。
「松尾の村は海蝕崖の上の緩斜面にあり、海におりるには急な坂道を降りてゆかねばならない・・」この状況は今も変わりません。
私はその急な石段の道を海辺へと降りてゆきました。(写真をご覧ください。)上の別世界のように立派な「吉福家住宅」と下の崩れかけた家の落差の大きさを感じていました。それは松尾の地形と鰹漁の盛衰の歴史を象徴するものでもありました。(平成31年1月思い出して追記)
38番札所金剛福寺。
強い雨の中のお参りとなりました。納経所で歩き遍路へのお接待、虎が水晶玉の乗った御守りを戴きました。
誰も参るひとのいない隣の神社の参道では、雨に濡れる桜の花びら・・。
足摺岬も灯台も雨に霞んでいました。
金剛福寺の推移
金剛福寺は古い歴史を持つ寺です。その推移を辿るには、澄禅の「四国遍路日記」や寂本の「四国遍礼霊場記」などを見るより、鎌倉時代末頃の久我雅忠女の日記「とはずがたり」や室町時代末の「蹉陀山縁起」を見るほうがその様子が想像できると言われます。
まず「とはずがたり」、13世紀末のこと。「かの岬に堂一つあり。本尊は観音におはします。隔てもなく(一間のみの意)また坊主(僧侶の意)もなし。ただ修行者行きかかる人のみ集りて、上もなく下もなし」とあります。
「とはずがたり」にもまた「蹉陀山縁起」にも補陀落渡海の話が残されています。
「それは、弟子の小法師が先だって渡海したことを悲しんだ僧侶が岬に立って「残念だ・・自分も連れていけ・・」と足摺をした・・と。地名起源の形をもとっています。
足摺の名の起源についていえば、澄禅もまた「名所図会」も異なった伝えを記しています。名所図会は「此山、役行者修行の時、天狗多かりしを咒伏せしカバ、天狗共足ずりもだえけるより蹉跎山と云・・」(澄禅は、これを大師の話とし、更に蹉跎の二字を「足スリフミニジルト訓ズル成也。其訓ヲ其儘用ヒテ足摺山ト云也」と解説している。)と記しています。興味深い話です。
五来重博士は、「岬の先端に立って常世を礼拝するときに、足踏みをしたり、五体投地をすることによって、自らの身を苦しめながら礼拝したのが足摺・・」と解釈されているようです。
(令和5年8月改稿)
四国遍礼霊場記 蹉陀山金剛福寺
今は、すべてが雨の中、茫としていますが、ここまで歩いてきて見た小才角、貝ノ川・・その海岸の岩や波の様を想い起こしていました。観音の浄土を目指した多くの人の中に、ここにこそ、自らの足の下にこそ、その浄土があると思った人はいなかったのでしょうか・・ふと、そんなことを考えていました。
散る桜
金剛福寺
足摺岬
只管、雨の県道歩きです。山道は極力回避です。
津呂のへんろ小屋では、遍路二人が早い昼食中でしょうか。ポンチョを脱ぐのが面倒で、挨拶しただけで通り過ぎました。
以布利遍路橋もパスして県道歩き。女性の遍路に会います。この人も山道は回避して歩いているよう。
「あー、よかった。道間違っているかと思って・・」
以布利の「浜を通る遍路道」は歩いてみました。
浜に下る道はまるで川のようです。道しるべ地蔵には辛うじてごあいさつ。
大岐の浜
大岐の浜はどうしても歩きたい所。
雨の中で霞む、浜も、波も・・。あの晴天の輝く浜と青い波を、ただ、ただ想います。
浜から上ったところの食堂で、珍しく昼食のうどんを戴きます。雨宿りと持て余した時間の処理を兼ねて・・。
久百々海岸
久百々海岸
懐かしく、そして限りなく見事な久百々の海岸を見ながら歩き、早い時刻に久万地崎に近い宿に入ります。
同宿は、65歳の「若いだろ、若いだろ・・」遍路。60歳の若い高知の遍路。16歳の横浜の高校生遍路。東京の60代?と20歳の父娘遍路。
父娘遍路は、父はバス、電車で行って娘は歩くという不思議な遍路行。父は「わしゃー喘息でなー・・」と言ってたばこを吸う。
とにかくちょっと変わったメンバーではありましたよ・・。
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私が昨秋に歩いた時と宿が全く同じですね。
民宿青岬の女将に連れて行っていただいた臼碆は黒潮がぶつかるのが見えました。久百々の先の宿には3回宿泊しました。朝日がきれいに見えました。懐かしいです。
そうですね。こういった海岸の風景
滅多に見れるものではありませんね。
四国の南端でしか見ることができなく
なった風景でしょうね。
そうですか・・偶然ですね。
もっとも宿の少ない地域、一緒になる確率
は高いかも・・。青岬、ほんとにいい宿
でした。九百百の先の宿、朝日見えました。
次の日の日記にあります。
山道があったり、平地でも雨の中だと、
30k以上歩くのは、私には辛いことです。
民宿での、遍路同志の話、それは楽しい
ものです。一般の世ですから、中には
厭な人もいるのは仕方ないことですが・・。
雨の中、三陸のリアス式海岸のような荒々しく美しい眺めを堪能しました。
幸い土砂崩れ箇所はなかったものの、いつ落石があってもおかしくない道なので、山側に注意を払いつつ海を眺めたものです。
民宿・青岬には私も泊まり、その設備と料理に感動した一人です。
女将さんの妹の家が猟師をしているので海産物は安く(タダの場合もあるらしい)手に入るから、と豪勢な料理の背景を教えてくれました。
ビールを飲みながら出された料理を何とか食べきったたら、さすがにもうゴハンは入りませんでした。
そうですか。私が5年前、最初に通ったときも
別のトンネル迂回ルートを通ってみましたが、
やはり崩れていました。実は、今回は海岸の道
以前の道であった山越えの道を歩いてみたかった
のですが、天候が悪いので諦めました。
民宿青岬は、感動の宿ですね。私は小食なので
殆ど食べられず、残念でしたが・・。
金剛福寺から打戻りで、大岐の浜の海岸を
歩こうと思っていたのですが、入口が分からず
断念しました。
大岐の浜は、私の好きな遍路道です。
これで3回通りました。打戻りだと、
最初が崖を下り川を渡るので、ちょっと
分かりにくいですね。国道を少し行くと
松林の中に浜に出る道があります。
次の機会には是非お通りください。
>松林の中に浜に出る道があります。
そう、松林の中を少し歩いたのですが、
一本道では、なかったので、無理をせず、
今回は、撤退いたしました。
次回は、判りやすい金剛福寺へ向かう時に
あるいてみます。
いつになるやら、遠い先の話ですが。
そうですね。金剛福寺への往路なら、
分かりやすいですね。
どうぞ、ゆっくりお呼びがかかるのを
お待ちください。まだ、お若いし、
それに四国は逃げません。