四国遍路の旅記録  平成26年春  その5

松山から今治まで、石手寺、太山寺、円明寺、鎌大師、窓坂、延命寺、南光坊

石手寺から52番太山寺に行く道筋は、へんろ地図に拠れば大きく3つに分かれるようです。
第1は、道後温泉の先から北に進路をとり、祝谷橋から山田池、吉藤池などの溜池の傍を通り、潮見小学校の南から国道を横切り、安城寺町を経て太山寺町に入るルート。
第2は、道後温泉から西に行き護国神社、来迎寺の傍を通って国道196号に当って右折、国道の東の川沿いの道を潮見小学校まで行き、第1の道に合流するルート。
そして、第3は、第2のルートの国道交差を西進して、JRみつはま駅付近を通って県道19号、183号を通り、直接太山寺の一の門に出るルート。
私は、これまでこれらいずれのルートも通りましたが、古くから多くの遍路が通った道、即ち古い道標が多く残る道と言えば、それはもう第2のルートです。今回はこのルートを行きます。

道後温泉のすぐ傍、石手5丁目に1.5mを超える標石。茂兵衛標石としては最大のもの。117度目、明治24年2月。この石には茂兵衛を含め多くの人が施主として刻まれています。
護国神社の鳥居の前に茂兵衛標石、133度目、明治26年12月。
山頭火一草庵には忘れず寄ります。
清水4丁目の交差点には、茂兵衛100度目、明治21年5月。その向いに大正9年の道標。これは厄除け延命地蔵尊不退寺の案内も兼ねたもの。
ここから道を北にとり、来迎寺の境内にあるロシア人兵士の墓地を訪ねます。
ここには、日露戦争時に亡くなった98人のロシア兵士の墓があります。
当時の日本はロシア捕虜を優しくあつかったようで、案内板には「・・その収容所は各地にあったが、松山がもっとも有名であり、戦線にいるロシア兵にもよく知られていて、かれらは投降するということばをマツヤマというまでになり、「マツヤマ、マツヤマ」と連呼して日本軍陣地に走ってきたりした。」と、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の一節が引かれていました。
供えられた白い花が鮮やかでした。

 山頭火一草庵

 ロシア兵士の墓

国道との合流地点の少し手前、南から旧今治街道がのびてきて、小さな橋(御幸橋)を渡った所に、2mほどの笠付で「(手印)へんろみち/南御城下道」と刻す大きな道標があります。
その先は国道に沿って、水路を隔てた東側の道を北上します。
国道と分かれて潮見小学校の角、陸橋下の交通量の多い場所に、茂兵衛標石100度目、明治21年5月。この石には、釈陶庵俊因の作で「世の中に神も佛茂奈き毛の載(を)まれに志んずる人にこそ阿連」と歌が刻まれています。
その横に小堂。花を供え水をやり、熱心にいのる婦人がいます。
傍らの石碑には「お塚さま由来記」として、およそ次のように書かれています。
「いつの頃よりかここに一基の塚があり「無縁亡魂回向塔」と刻まれていた。幕末の時代一人の遍路が行き倒れここで死んだ。土地の者はここに葬り、盛大に祀った。ある時足なえの巡礼がここで祈った処立ちどころに回復した。それより脚を守る仏として尊信を集めている。」

 鴨川町のお塚さま

私は、ここから国道を横断して大川左岸の道(県道40号)を行き、安城寺町の県道184号に右折しました。その角に茂兵衛標石、100度目、明治21年。これは新しい地蔵、青痲三光神社の標石と並んでいます。
県道184号から太山寺町方面への曲りも茂兵衛標石、134度目、明治27年4月が教えてくれます。
しかし、国道を横断してから、もう一つの道があったようです。大川の右岸の土手道を行き左折して安祥寺参道を経る道です。この道には享保大飢饉の供養塔なども残されて、こちらの方が旧い道であるようです。ちょっと残念でした。(二つの茂兵衛標石が示す道を選んだ訳ですが、実は、この後の道でもはたと気付くことがあるのですが、茂兵衛さんはどうも新しい道がお好きなところがおありのようですぞ・・)
いずれの道も、松山北中学校の前を通ると、正面に大将軍神社。私の好きな神社です。
ここで休憩。山麓をまわるように少し上ると、亀が一斉に飛び込む溜池の堤の道。
下ったところの家の塀の角に、嘉永6年の標石「(手印)へんろ道/(手印)逆遍路道」。太山寺の一の門もすぐ。
一の門の左に自然石の道標と並んで茂兵衛標石、100度目、明治21年5月。この石も釈陶庵俊因の歌「阿ハ禮可し今世に迷ふひとひと越堂須具流石尓道志る遍けり」(あわれかし このよにまようひとびとを たすくるいしに みちしるべけり)が付けられています。
52番太山寺。
立派な二王門の横の桜が何とも見事でした。
長い参道を行くと山門。その石段下に、徳右衛門標石「是より圓明寺迄十八丁」。
国宝の本堂。青い空の前に拡がる広い瓦の並びを見ると、心は遠くに行きそうな気持ちです。
ここで、あのベルギーの若者にまた会いました。私の読経中、となりで腰を降ろして、ヨーガでするような独特の印を結んでじっとしていました。

 太山寺二王門

 太山寺本堂

53番円明寺までは2.5k、直ぐです。
円明寺は八脚門や境内の中央に瀟洒な中門が置かれ、独特の雰囲気を持っています。

(追記)「キリシタン灯篭」「キリシタン碑」について
 円明寺の境内にあるキリシタン灯篭と呼ばれる石造物について、私はこれまでの日記のなかで殆ど触れることがありませんでした。しかし、遍路仲間の間でも結構話題になるものですし、それに「隠れキリシタンが礼拝した・・」などとまことしやかに書いた案内書などもありますので、ちょっと追記しておくことにしました。
 「キリシタン灯篭」とされる石造物の隣には解説板が置かれ、そこには慎重に「高さ四十cm 合掌するマリア観音とおぼしき像が刻まれ隠れキリシタンの信仰に使われたとの説もある」と記されています。
 十字架状の笠石、マリア像にも見える像の陽刻。キリスト教に関係した遺物であることは間違いないと言われます。あるいは墓石ではないかと。一方で、この種の石造物は「織部灯篭」とも呼ばれます。茶の湯の異国趣味の延長線上で、笠石の上に灯篭部を載せて庭に置かれていたとも。
この辺りが最も有力な説ではないか・・と思えるのですが。(H28.8)
さて、伊予には隠れキリシタンに係わる遺物とされ、一部で「キリシタン碑」と呼ばれる石造物があります。これは高縄山周辺の北条町、菊間町、玉川町の山間部に限定して残るもので、一石五輪塔の一面に円形に包まれた顔が彫られたもの(Ω型石仏などとも呼ばれる)。石材は安山岩であると言われ石工の手を経ない稚拙な彫り。隠れキリシタンが密かに刻み礼拝したといわれるに相応しいと思われます。江戸時代初期、この地方には相当数のキリスト教信者が存在したとするイエズス会記録もあり、これらが隠れキリシタンの遺物であるとする説の有力な支えとなると思われます。(H29.7)

  
円明寺を出て、大川をへんろ橋で越える道は新しい道の付け替えで、様変わりしています。私は古い地図しか持っていなかったため迷いました。注意が必要です。
馬木町にある「あがた圓明寺(54番延命寺のこと)を案内する文久3年の標石。さらに進んだ堀江町のみやしま出舟所も案内する茂兵衛の最初期の標石。これらについては三巡目の日記で詳しく記したようですから省略しましょう。
ただ、この茂兵衛標石の少し手前、光明寺の前に享保の大飢饉の供養塔と追遠之碑があること、加えておきましょう。
「この堀江村では人口800人余りの半数以上が餓死した。人々に分ける麦ぬかを積んだ船が堀江港に着くと、大勢の人が集まって来たが途中で野垂れ死にする人も多かった・・」などと書かれています。

(余談)

私は、この度の旅でも多くの遍路墓を見てきました。それらの多くは、その地の人によって葬られ、遍路道の畔の草に隠れるように立っていました。
お寺の境内で、そういう墓を見ることはありませんでした。
遍路だけではありません。飢饉などの災害で一家全滅、寄る辺の無くなった死に対しても同じであったかもしれません。
祈りを捧げながら、やっと辿り着いたお寺でも、その最後を受け止めてもらえなかった人たち。
それは社会的常識であったと思う反面、一種の不条理に似た気持ちを抱くのです。
宗教(本来)は、生者のためのもの、それは分かりますけれど、死は生から連続した最後の姿ですから・・
宗教というものが、お寺というものが、その多くが、もっぱら為政者のために役割を分担してきた時間があまりにも長かった・・その不幸を考えさせられます。
・・・・・・・・・


海岸の道に出ました。左に見える海は斉灘(いつきなだ)。
空は晴れ渡ってはいませんが、波はなく水はとてもきれいです。
ベルギー君が追いついてきて、少しの間並んで歩いて、また追いこして行きました。
「海の向こうはヒロシマですね・・」
と言ったようでした。

 斉灘の海


 海の向こうはヒロシマ


 海辺を行く、先はベルギー君

足が相当痛んできましたが、私は、粟井坂の下の大師堂に参り、坂の上の関所跡と河野通清供養塔に行きます。
「無理するな・・」って。いえ、いえ、上り坂でも地道の方がずっと楽なのですよ。
粟井坂のことも、この先の標石のことも三巡目の日記で書いていますので省略します。ただ、書き落としの標石を追記しておきますね。和田のバス停近くに徳右衛門標石。劣化が進んで殆ど読めませんが「是より延命寺迄七里七丁」。鹿峰に同じく徳右衛門標石、「御自作やくよけ大師、遍照院江三里三十二丁」。(延命寺への案内を遍照院に改刻したものといわれる。)

 粟井坂へ 

 粟井坂の郡境石

 鹿峰の徳右衛門標石

足を引きずって、カメ歩きで北条の宿に入りました。

 松山市街北部の地図 粟井付近の地図を追加しておきます。


                                            (4月3日)



今治まで、ズルして区切る

北条の街から、港の先におカマを伏せたような形の鹿島が見えます。聞くと、鹿」が棲む島というのが島名の由来だと言いますが、神功皇后が朝鮮出征の際、立ち寄ったという伝説を持ちます。その特異な形に因があるように思えます。気になる島です。
四国の寺とも 因縁の浅からぬ行基菩薩が残したと言われる日本図。それには日本列島を取り囲む龍が描かれています。龍の動き(地震とも)を鎮めるという要石(かなめいし)が島の鹿島神社にもあるそうです。判じものですね・・でも、私は追いません。

残念ながら、足は回復せず、引きずっての出発です。何処まで歩けるか・・

 北条立岩川の朝

鎌大師に寄って鴻之坂を越えます。
この峠の前後には、三つの茂兵衛標石があります。峠の前、鎌大師の上り口に246度目、大正元年9月。峠に242度目、明治45年3月。そして峠を越えた所の下り道に、258度目、大正4年2月。後の2基は三巡目の日記にも書いたように、添句付です。
下り道の標石は、新道との三差路にあり、寺名の刻字が「延命寺」、「延明寺」となっており謎を呼ぶ石です。
私は以前、この石は元々旧道の反対側(右側)に45°ほど回転して設置されていて、いずれの手指しも先方を指すことになり、寺名はいずれも延命寺であったのではないか、そして道の拡張のため場所を変えたため合わなくなり「命」を「明」に彫り変えた・・との珍説を考案したことがありました。
しかし、この石の前の峠の標石は、茂兵衛さんには滅多にない距離付のものですし、この先延命寺までには、徳右衛門標石を改刻した標石も2基あるといいますし、茂兵衛さんは徳右衛門さんに比べて、論理性、厳密性より熱情が勝っている人のように思えてきます。なんでもあり・・あまり気にしない方がよいのかもしれません。

 峠下の茂兵衛標石「延明寺」


 鴻之坂から見る浅海の街

峠から見る浅海の街とその向こうの海の風景は、何度見ても飽きないものです。
浅海の阿弥陀堂の前で休んでいると、高校生か?風来坊か?という感じの若者がやってきて、芸能人では誰が好きか?の大論議。 いやはや・・「ワシはあんまりテレビ見んからのー・・」
原番所跡。地元では「おじのっさん」と呼ばれる地蔵堂があります。その横に、徳右衛門標石「御自作やくよけ大師、遍照院江一里廿二丁」。(この石も、遍照院の部分は改刻と言われます。)

 原番所跡の徳右衛門標石

私は、ここだけはどうしても再訪したいと思っていた窓坂へ。
入口の目印は、小竹の地蔵堂とその傍にある茂兵衛標石、132度目、明治26年10月。
道を入って石垣の所を左の細い道へ。三角形の名石山が正面より右側に見えていないと間違い道。
この辺りは一面のみかん畑。畑のおばちゃんから、採りたての立派なデコポンを2つも戴きました。
やがて、溜池の堤の上に郡境石が見えてきます。「従是南風早郡」。
溜池の左の道を上ると、窓坂峠の標示が草の中。浅海の街の展望。
右へ森の中の道を行き、開けたみかん畑の中の道が、今の峠。その5、6m手前に、草木のなか切り通しの跡が確認できます。これが、昔の街道(今治街道)でもあった窓峠(まどのとう)。
池の傍の郡境石も元はここにあったそうです。
峠を下った所の小堂にある大師像(台座に「右へんろ道」)も懐かしい限りです。


 窓坂手前の郡境石


 窓坂付近から見る浅海の街


窓坂付近から見る瀬戸内海

 窓坂の切り通し跡

 窓坂下の大師堂

 大師像「右へんろ道」

この度は、ゴルフ場の中の「ひろいあげ坂」の道は行かず、田之尻の海岸の道に出ました。
遍照院で長休憩。菊間の街中の茂兵衛標石二つ(いずれも122度目、明治25年2月のもので遍照院を案内する。)を確認して、電車で大西まで移動することにします。ついにズルの決断です。

ここ(空白)

大西の駅から延命寺に向って歩きます。
右手に大池を見て、新国道を右に分けて旧国道を行くと、延喜店(えんぎだな)という所があり、道の左手に「従是延喜観音寶・・/同所醍醐天王陵・・」(下は土に埋まる)の石碑が立っています。
ここから北方0.7kにある延喜観音として知られる乗禅寺を案内しているのです。

 延喜店の標石

醍醐天皇は延喜年間(901~923)に在位した60代天皇で、延喜帝とも呼ばれ、菅原道真との関係でも知られますが、病気平癒祈願の縁で帝の勅願寺となったのが乗禅寺であると伝えられます。石碑の後半の刻文はそれを言っているようです。
乗禅寺へ行く道の先は、今治波止浜港に通じており、古くからの遍路道でもありました。
延喜店から500mほどで左に54番延命寺の参道。
参道を少し入った左山際に、茂兵衛標石、256度目、大正4年3月。この標石にはぎっしりと文字が刻まれ、「旅う連し唯だ一筋に法の国」茂兵衛さん得意の句の他「右 五十五番是迄打もどり大便利」とあります。これは、延命寺に参った後、荷物を置いて55番を打って戻り、ここから56番泰山寺へ行くのが便利と言っているようなのです。
地図を見て「うーん」と唸るのですが、茂兵衛は大正に入ってからは昔からの遍路道ではなく、今の旧国道を通って55番と往来することを勧めている節があり(旧国道上に2つの茂兵衛標石が残っている。)旧国道の「山路」辺りから馬越町を通れば、泰山寺は近いような気もします。
参道の少し奥に、天保12年の標石があり「延命寺」は枠取りの中にあり、彫り直されたとされているものです。元は「圓明寺」と彫られていたと言われているのですが、54番札所がいつの頃から延命寺に変わったのかについては断定ができないようです。
真念の「道指南」や「名所図会」では延命寺となっていますし(「道指南」の初版(1687)は伊予史談会本に拠る)、これまで見た徳右衛門標石でも、そうです。((追記)細田周英「四国遍礼絵図」宝暦13年(1763)、「道指南」の増補大成、明和4年(1767)の原本でも「延命寺」となっている。)一方、この標石のように江戸後期でも「圓明寺」であったとする証しも多くあると言います。


 延命寺参道の標石

延命寺の二の門の左側に徳右衛門標石「是より別宮迄一里」があります。
境内には大変有名な美しい真念石があります。もちろん、元々門前か道中に置かれていたものを、ここに移してきたものでしょう。
この時間、境内は大変静かで、遍路が、ぽつり、ぽつり、やってきて納経所にかける声だけが聞こえていました。

 延命寺の真念石


 延命寺近くの墓群

南光坊への道は、茂兵衛さんは賛成しないかもしれませんが、今の国道の状況を考えると、やはり、大谷霊園を越える古くからの道を選びたいですね。
この古い道の周囲には、多くの道標や舟形地蔵があります。寺を出て直ぐに、多くの墓石が集められている処があります。前に六地蔵。思わず合掌させられる壮観です。
少し行くと、コンクリート擁壁に挟まれるように茂兵衛標石、219度目、明治40年11月。
延命寺が近見山にあった頃、この辺りも近見百坊の一つとして薬師堂あった所といいます。
大谷霊園は桜がきれいでした。兵士の墓が並ぶのを見ると、伊予の国が日本のためにいかに大きな犠牲を払ってきたか、ということを見せつけられる思いがしたものでした。
今回の最後となる札所、55番南光坊。
境内でゆっくりと過ごしました。
以前の日記にも書きましたが、この大師堂は、周防大島の長州大工の一人、門井友祐が彫刻師として参加し建てられたものと言われます。門井は、あの興隆寺の仁王門にも彫刻を残しています。この大師堂でも立派な彫刻がその壁を飾っています。
境内にある静道道標「従是泰山寺十八丁」も見ました。
添えられた句 「暮かけて一里も久禮ず秋の山」

 南光坊大師堂

 大師堂の彫刻

 静道道標

ここで今回の区切りとしました。

 浅海、窓坂付近の地図 菊間付近の地図を追加しておきます。


                                           (4月4日)

コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )
« 四国遍路の旅... 四国遍路の旅... »
 
コメント
 
 
 
Unknown (桃 ぶdぷ)
2014-06-01 10:39:20
今日から6月。日差しが強いですね。

歩かれたのは桜が美しい時、月日の経つのは早いです。
確か・・・アタシも歩いた道なのに、枯雑草さんが書いたり写すと別の道みたいです^^
楽しく情緒的に読ませて頂きました。
 
 
 
桃 ぶdぷさん (枯雑草)
2014-06-02 07:02:43
コメントありがとうございます。
この日の行程では窓峠以外は通常のルートですね。
窓峠、いい道なのですが通る人はいないよう
ですね。
遍路道で何を見るか、遍路に何をもとめるか、
人それぞれでしょうから・・
やはり、同行二人の教えの通りだと思います。
 
 
 
お会い出来て・・・ (桃 ぶどう)
2014-06-08 21:17:28
曼陀羅にいらっしゃるだろうか・・・と思いつつ出かけましたが、生枯雑草さんに会えて嬉しかったです。
(生の枯・・・とは何とも笑える)

>感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、じじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・

とあるので、どの位のお爺さんかと思いきや、まだまだ、オジハンじゃないですか~

これからままだ歩けますので、更新楽しみにさせて頂きます。オバハンの<知らない世界>をUPしてください。
 
 
 
桃 ぶどうさん (枯雑草)
2014-06-09 13:30:22
寛容なる評価、ありがとうございます。
多くの人からは、完全なるじじいと言われて
おります。
「べっぴんさん」という言葉を何年ぶり、いや
何十年ぶりに聞きました。さすが関西ですね。
今回の89番は「やらかした・・」のトラブルが
多かったようですね。反省です。
 
 
 
Unknown (シニア・ナビ事務局)
2014-09-30 12:20:49
はじめまして。シニアナビ事務局と申します。
突然のコメントで申し訳ございません。

私たちはシニア向けのコミュニティサイト「シニア・ナビ」を運営しております。シニアナビはお持ちのブログ登録が出来き、シニアナビ内でこちらのブログを公開する事ができます。

メンバーにいつまでも楽しんで頂けるよう、また新しい趣味や生きがいをお探しの方に役立つサイトを目指して、日々、イベントなどを企画して発信しております。

こちらで日々書かれている素晴らしいブログをシニアナビでもご披露いただけないでしょうか? 私達は、皆様が書かれているブログを通してシニアの皆様にそれぞれの生活、趣味、生き方をお伝えし、ご自身の生活をより豊かなものにしていただきたいと考えています。ぜひご協力いただければと思います。

また、シニア・ナビに遊びに来ていただけると嬉しいです♪
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。