四国遍路の旅記録  平成27年春  その2

旧雲辺寺道を上り雲辺寺へ

今日は、川之江から県境を越えて香川県に入り、豊浜町和田まで、そこから旧雲辺寺道を辿って雲辺寺に上り、北に四国のみち(今の遍路道)を下り、粟井の宿まで行く予定です。
雲辺寺へ上る道筋が現在の遍路道とは異なります。この道は古くからの雲辺寺参拝道であり、また川之江から豊浜の道は讃岐街道(ほぼ国道11号に沿う)ですから、二つの古道を辿るということになりましょうか。
川之江の市街を抜け、川之江八幡神社の前、「こんぴら道大門迄八里」の道標。ここは旧土佐北街道の起点でもあります。
国道を1k少々行くと、海岸に粗末な小屋が見えてきます。これが西行庵だといいます。
しばらく行くと、伊予と讃岐の国境であった余木崎。ここから豊浜までの道は、私は既に歩いています。(三巡目第8回その2「伊予土佐街道を行く」)
この時はさらに金毘羅さんまで行きました。見覚えのある道標や石燈籠に出会う懐かしい道でしたが、この日の日記では省略しましょう。

姫浜の「右あハ道 左古んぴら道」の大きな道標。この辺りが雲辺寺道の分岐点。高松自動車道の下をくぐってしばらく行くと、左手に弘化二年銘の石燈籠。台座に「雲邊寺道」と刻まれています。
いつもこの道を散歩しているという人に出会い、暫く並んで歩きます。
「この辺で遍路の人は珍しいのーたまに自転車の人はおるけど・・」
「雲辺寺の山道はワシら子供の頃は上ったけど・・今は上る人おらん。鎌でも持って行かんと無理じゃろ・・」

 姫浜の道標

 雲辺寺道の常夜燈

この先少しの区間、雲辺寺道は県道241号と重なりますが、その先は古い家並の有り様などから見て、今の県道の200mほど南を通っていたように私には思えます。
溜池の間の道を行きます。正面に亀の甲羅のような雲辺寺山がいつも見えています。
雨が少なく広大な河川のないこの地域は、農業用水確保のため、江戸時代、特に中期以降多くの溜池が造られたといいます。近年にはそれらの改修工事も行われ、立派な堰堤を見せています。
姥ヶ懐池の手前の四差路で「右うんへんじ巳智」の自然石の道標を発見。道どりが誤っていなかったと安堵します。(道標の左○○は、はちまん(豊浜八幡)かと思いますが、どうしても確信に至ることができません。)
300mほど先、千歳池の傍にも自然石の道標。私には「雲変寺・・」と読めるのですが・・
井関池の畔、享和三癸年(1803)銘の立派な地蔵があります。

ここまで来れば、別格16番萩原寺地蔵院もすぐ近くです。
この度は寄りませんでしたが、ちょっと触れておかなくてはならないかも・・
同じ山号「巨鼇(きょごう)山」をもつ雲辺寺と萩原寺。萩原寺の縁起に「・・一説に空海千手、地蔵の二像を造り、千手を山上に地蔵を山下に安置して二寺を一時に造立す。山上なる雲辺寺を奥院とし此寺を本院とせり・・」とあるように往時は極めて密接な関係にあったようです。(五来重はこの縁起にやや疑問を呈していますが・・)
江戸時代の初めに井関池が造られたため、道筋は不明確になったと思われますが、雲辺寺登山道も当然、萩原寺に繋がっていたのでしょう。


 溜池の向こうは雲辺寺


姥ヶ懐池手前の道標

 千歳池畔の道標


千歳池、鴨が泳ぎ鷺が飛ぶ・・

 井関池と地蔵

(
この辺までの地図を貼っておきます。)  雲辺寺道(1)

池畔に嘉永元年の道標「右阿はみち/左雲遍寺」があります。その道を進み柞田川を宮橋で渡ると瀧宮神社。
川の傍、豊かな照葉樹林に覆われ、鎮まった雰囲気を持つ神社です。本殿は弘化二年の再建。祭神は素戔嗚尊。素戔嗚尊と滝宮(あるいは八坂)との強い繋がりを説く人がいます。私はその糸を手繰る術を持ちませんが・・
川の傍の道を行き櫃負(ひつお)橋を渡ってすぐ右が雲辺寺山への登山口です。
橋の袂で地元の人。
「橋の名前見たかー ありゃ小学生が書いたもんや・・ ここを上ったとこにある観音堂は昔(大正時代まで)ここにあってのー、流されて今のとこや・・佐伯さんがお祭りしとる・・」
登山口には上部の欠けたおそらく四十五丁石があります。
少し上ると、千手観音と弘法大師を祀る櫃負観音堂。
この観音堂、櫃負という名、佐伯家が祭っているというのも由緒と因縁を感じさせます。少し調べて見ました。
亀山院(天皇在位1260~1274)の使者(山伏か)が櫃を背負って雲辺寺に詣る途中、この地で休んだ(または経卷を祀った)ことが櫃負の名の由来であるとか。このお堂、明治初年までは寺小屋を営んでいたとか。村の中核として活動している様が目に浮かびます。
堂前に昭和2年に建てられた「是より雲邊寺へ四拾六丁拾五間」の石碑があります。

やや荒れた道を進むと墓地に達します。振り返れば、井関池と神社の森が見おろせる道です。

 瀧宮神社

 櫃負(ひつお)橋


雲辺寺道山道の入口

 櫃負観音堂


櫃負観音堂前の標石

少し下って舗装道(ロープウエイ駅方面に通じる市道)を横切ると、「雲辺寺登山口」の標示があります。
左側の山裾に沿った荒れた道を進みます。併行して右側にコンクリートを流した道がありますが、これを上ると作業場跡に出て道を失います。注意が必要な場所です。
ここから寺まで丁石は切れ目なく続いています。歩く者にとってはそのありがたさを実感させられます。参詣道によく置かれる地蔵丁石ではなく、小型の角柱であるのはちょっと残念ですが、丁石の他に道中に地蔵が四基置かれているのを見ました。
38丁石から33丁石までは荒れた急坂の道です。羊歯に覆われた所もあります。
37丁石の付近、豊浜から歩いて来た道の溜池と緑の田園が見渡せます。

 市道を横切る

 37丁石


歩いてきた道を振り返る

31丁石付近に地蔵。「(手指し)水あり」と刻されます。
27丁あたりで標高450mの鞍部に達して、20丁まで比較的平坦な道となります。
27丁辺りに天保二年銘の地蔵。
20丁石の先に文政十二年銘の地蔵。ここにも「是より右ニ水あり」と刻されます。辺りを少し探してみました見付けられません。昔は水場があったのでしょう。
17丁から12丁までは、右に深い谷を見る厳しい上り。14丁の先に地蔵。


31丁付近の地蔵「水あり」


27丁付近、天保2年の地蔵


20丁辺りの馬の背


21丁辺りの地蔵「・・水あり」

13丁辺りの道

11丁石辺りは左に谷を見る路肩の痩せた道。時折ロープウエイの機械音が聞こえてきます。
スキー場のリフトを見て、2丁石の先で、突然ロープウエイ駅の前に出ます。

11丁辺りの道


2丁石辺り、この上がロープウエイ駅

ここまでの山道の途中数ヶ所で、もう10年以上前の年号の書かれた鯖大師明善さんの札を見ました。明善さんの札のある所、古くからの遍路道の証明のような思いで、心強く思ったものでした。
この道、雲辺寺への上り道のなかでは、やはり最も厳しい道でしょう。私の老足で3時間以上をかけました。
雲辺寺では参道の羅漢さんの数がまた増えていました。本堂を始め多くの建物はコンクリート製のピカピカなものになり豪華ですが、古寺としての時間を尊びたい私にとっては、少々違和感を感じる風景でもありました。
ああ、登山道の入口の櫃負観音堂の由来にも係わること、一つ加えておきましょう。
寺の本坊の裏に亀山院陵があります。
亀山院は雲辺寺の帰依深く、崩御後遺髪を埋めたということです。近くにアカガシの霊木があります。お参りする遍路は滅多にいないでしょうが・・

ふっと、先般放映されたNHKの歴史秘話ヒストリアの中の遍路番組を思いだしていました。戦後初めてのバス遍路。車道がなく歩いて上った山上から、戦争を経て蘇る田畑や家々を目が覚めたように眺める夫々の出で立ちの遍路一行。感動的な場面でした。それは、多分きっとこの雲辺寺でのことであったと想像します。

下りは四国のみち(今の遍路道)を歩きます。雲辺寺道に比べ何と良い、楽な道であることか。でも、少し下ればあの四国のみち特有の階段が膝を容赦なく傷めつける道でもあるのです。

四国のみちを下る


四国のみちを下る

観音寺の街が霞む

寺より3.5kほど下って左に小さなピークが見える所「一升水」と呼ばれます。
雨乞いの霊験を伝える「鰻淵の伝説」の案内板。この地の人々の最大の悩みが「水」であったことを物語るものでしょう。この「水」のこと、後の日にも何度も見、反芻されます。
「名所図会」に「庵 山の中程にあり、行暮の節ハ宿をかす、甚だ美麗なり」と記されるのもこの辺りのことでしょうか。(或いはこの庵、昔の白藤大師堂のことかも・・)
この辺りから谷を下る旧道の入口は見落としました。

旧道の先、山を下って新池の傍を通り今の白藤大師堂に至る「旧へんろ道」として残されています。
旧へんろ道の入口。中年の女性。
「ワシら子供のころは、この道を雲辺寺に上ったもんや・・今は山の中の道は通れんじゃろ・・これから先の道には丁石が残っとるよ・・」。
ここは白藤大師堂の故地だといいます。高所に多くの遍路墓。その向いに徳右衛門標石「是より小松尾寺へ一里」がありました。この石の頭は蒲鉾型ではなく三角です。
ここでも、標石の大師像に花が供えられていました。


旧遍路道と遍路墓

 粟井の徳右衛門標石 

今日の宿はここからすぐ近く、高原のあの美しい宿です。

(山道の
地図を貼っておきます。)       雲辺寺道(2)   

                                              (3月30日)


雲辺寺から大興寺、神恵院、観音寺、本山寺に参って弥谷寺の下まで

雲辺寺を下った高原の宿を発って、この日は71番弥谷寺手前の温泉宿まで行くつもりです。
ここから67番大興寺への道、大興寺から68番神恵院、69番観音寺への道、そこから70番本山寺への道、本山寺から71番弥谷寺への道。それぞれ2、3度通っているのですが(私としては4巡目の道行きですが、萩原寺へ寄ったり、時には67番から70番へ行ったり、ズルしたり・・ですから総ての道が3度という訳ではないのです。)
雲辺寺と弥谷寺という印象の濃い道の谷間にあってどちらかというと思いだせないことが多い・・そんな道に思えます。過去の日記を振り返ってみると、特に68番、69番への道中の記述が殆どないことに気が付きました。このあたりを重点に、あとはできるだけ簡易にサラリと記したいと思っているのですよ・・ほんと。
さて、宿を出て1.5kほど行くと白藤大師堂。昨日見た、旧遍路道が山を下った所からここに移ってきたお堂。赤い幟が無ければ、集会場か民家のように見えます。
ここから大興寺までは丁石仏が並ぶ道です。
左手に岩鍋池を見て過ぎると、文政四年の道標「(手指し)右 古まつをじ すぐ 古んぴら道 左 くあんおんじ」。
そう、ここを左に1k少々行けば、以前歩いたことのある金毘羅讃岐街道(伊予土佐街道)なんですね。右折してすぐ左手に土佛観音。境内に真念石があります。実は観音堂の右手に小堂の中の地蔵と並んで古い道標。微かに「遍ん路みち」と読めます。最初、私はこれが真念石どと思っていました。これは違うようですね。
近くなっても急な丘を上がったり下りたり大興寺は意外に遠い。
山門前に二基の茂兵衛標石(100度目、明治21年)(179度目、明治33年)と並んで弘化四丁未年の銘のある立派な立ち姿の地蔵道標。境内は桜が満開でした。


大興寺への道、文政2年の道標

 路傍に並ぶ地蔵


大興寺山門前の地蔵と茂兵衛標石

 大興寺の桜

大興寺から68番神恵院、69番観音寺への道は、1kほど北に行き国道377号(伊予土佐街道)を少し西に行き、右手ににある茂兵衛標石「左いよ道/(手指し)」(100度目、明治21年)の手指しが指す細い道を入ります。
右方に拡がる菜の花畑をまいて、左手に金神神社を見る道角に真念石があります。ちょうど民家のご主人が出てこられて笑顔のうち、
「これ真念石、もしほかすことがあったら引き取るよ・・と大興寺のご住職も言うとる・・」なんて。大通寺(天台宗)の前を通り、仁池向いの心光院。ここには近くの丁石仏が集められています。椿を背に立派な地蔵も。
池の尻の接近した場所に2基の茂兵衛標石(143度目、明治28年)(140度目、明治28年)。

観音寺への道の入口


菜の花畑

 新田町仲原の真念石

心光寺の地蔵

 池の尻の茂兵衛標石

赤土池の傍、赤土池改修記念碑と並んで徳右衛門標石様式の照蓮標石があります。阿波以外の地の照蓮標石は珍しい。「四国中千躰大師 真念再建願主・・文化六年」の刻字が見えます。
照蓮については以前の日記に書いた気がします。(平成24年春その2)
真念の心を継いで、四国中に千躰の大師像を建てようとしたその情熱が伝わってくるようです。
出柞町に入り、真念石、それに覆いかぶさるように茂兵衛標石が並んでいます。
茂兵衛標石は145度目のものですが、劣化が進み刻字は殆ど読みとれない状態です。
真念石は最も多い「遍ん路みち」ではなく「これよりく巳(わ)んおんじみち」と刻まれています。古いもの(400年に近い!)ですが、その流れるような刻字は驚くほど明瞭です。不思議という他ありません。石の左面は隣の茂兵衛標石が接近していて、よく見えませんが「為父母六親 施主大坂西濱町 木屋半右衛門」刻まれます。「道指南」の後書に「梓工傭銀喜捨、大坂西浜町野口氏木屋半右衛門」(いわばスポンサー)とあるその人です。
この標石の位置は重要な意味を持っているようです。「名所図会」に「植田村 印石より右に入、弐丁程行、七宝山神照益寺普門院、天神社寺門にあり、天神松天神宮の前にあり・・」と紹介しています。また細田周英「四国偏礼絵図」にも「神照密寺 肋懸松 タカサ三丈 太サ一丈五尺廻リ 東西枝廿六ケンヨ 南北廿ケンヨ」と案内されています。
私も訪ねてみました。お堂一つの小さな無住の寺ですが、由緒を感じさせます。隣に植田天満宮があります。名物であったであろう天神松はもう見られませんが・・


赤土池の記念碑と照蓮標石

 照蓮標石

 出作町の真念石

 神照益寺普門院

観音寺の街に入ります。
財田川を渡り68番神恵院、69番観音寺にお参り。立派な山門、ある先達さんも言っていた驚く華麗さの鐘楼。桜は五分咲き。
私もここでは決まって本堂前の茶店で甘酒を戴きます。縁台には誰もいません、一人です。
店のおばさんに冗談言っても通じません・・


観音寺、神恵院の仁王門

仁王

観音寺本堂


観音寺本堂

 観音寺大師堂


 観音寺鐘楼

 観音寺の桜(薬師堂)

それから裏の山に上って銭形砂絵とその向こうの海を眺め、琴弾八幡宮に参ります。
これもいつものこと。

 銭形砂絵

長い石段をゆっくり下り、玉垣の側石に挟まれた美しい真念石を見て、玉垣の外の産巣日(むすび)神社(妙見社のことらしい)に通ずる道に丁石を発見したり、気の抜けたような時間を過ごしていました。
昔は琴弾八幡の参道の途中から観音寺へ行く道があったようで、この丁石、ひょっとするとその道にあったものかもしれません。(寂本「四国遍礼霊場記」の絵など) 
ついでにまた脱線しますが、真念石は神戸の六甲山で産する御影石が使用されていると言われます。四国には、庵治石や青木石や多くの名石があるのに何故でしょう、何か理由があるのでしょうか。

 琴弾八幡

 玉垣の真念石

 石段を下る



 琴弾八幡の石段

 石段傍の丁石



(追記) 江戸時代の68番・69番札所 (昔々・・)

江戸時代、「四国遍路道指南」(1687)、「四国遍礼霊場記」(1689)では68番札所は琴弾八幡宮、また69番札所は観音寺となっています。また、「四国遍礼名所図会」(1800)ではやや詳細に68番「琴弾八幡宮、別当観音寺」、69番「七宝山 観音寺神恵院」と表記しています。
「霊場記」には琴弾八幡宮の縁起が記されます。
「・・大宝三年(703)、宇佐の宮より八幡大神爰に移り玉ふといへり。・・」 「・・然して此の山の麓梅腋の海浜に一艘の怪船あり。中に琴の音ありて、其音美妙にして嶺松に通ひけり。・・」 この地で修行をしていた日証上人(法相宗の僧)は八幡神のお告げを感得し、里人とともにその船を神舟とし、琴とともに山頂に運び祀ったのがその始まりとされるとするものです。
琴弾八幡宮の縁起は観音寺に伝わる「琴弾宮絵縁起」にも示されます。この絵図は宮の縁起を絵画化して表現するとともに、琴弾宮一帯を浄土として示す礼拝図としての役割も持っていたと言われます。
その後、大同2年(807年)四国を行脚中の空海が当社に参拝、琴弾八幡の本地仏である阿弥陀如来図を安置し神仏習合の神社となります。第68番札所として別当が観音寺におかれるのはさらに後のこと。
なお、現存する「琴弾宮絵縁起」は「絹本着色琴弾八幡本地仏像」とともに鎌倉時代の作とされ、重文指定となり神恵院に受け継がれています。
「霊場記」の記述と琴弾八幡図によれば、山上に本社、武内大臣社、住吉明神社、若宮権現社、天神社、青丹大明神社(伴社筆頭)、鐘楼が並び、一の鳥居の横に弁財天、鹿嶋、本地の書き込みが見られます。「本地」とあるのはあるいは本地仏である阿弥陀如来図を収めた堂を示しているのでしょうか。また、一の鳥居と二の鳥居の間に観音寺道との表記があります。本文に書いた丁石はこの道上に当たるように思えます。
もう一つ、江戸末期の「金毘羅参詣名所図会」(弘化3年(1848))を見てみましょう。
山上に本社、高良社、住吉社、若宮の他に大師堂、上ノ庵。その下の段に鐘楼、九重石塔、龍宮〇宮、中ノ庵。一の鳥居の近くに鹿島社、御札納所、手水が見られます。霊場記との大きな相違は、大師堂、御札納所などが設けられたこと。なお放生川沿いの道(現在の道筋に近い)は見られるものの、観音寺参道は表記されません。道筋の変更があったのでしょうか。


琴弾宮図(上部)(金毘羅参詣名所図会)


琴弾宮図(下部)(金毘羅参詣名所図会)

明治初年の神仏分離令は琴弾八幡宮に大きな影響をもたらします。別当であった観音寺は離れ、68番札所は神恵院となります。
本地仏であった阿弥陀如来図は観音寺の西金堂(現在の薬師堂の場所)に移され、2002年神恵院のコンクリート造の本堂ができるまで本堂としての役割を果たすことになります。
琴弾八幡宮の事実上の開基とみられる日証上人(観音寺の開基ともされる)、その墓は江戸時代までは名所として紹介されていますが、今は寺で尋ねてもその所在を確認できません。これも神仏分離令の為せる所業なのでしょうか。

 日証上人墓(金毘羅参詣名所図会)

69番札所観音寺についても触れておかなくてはならないでしょう。
開基当初はともかく、観音寺は空海との関わりが深くなる9世紀以降、後に70番札所となる本山寺とともに山号に七宝山(しっぽうざん)を名乗ります。
この山号は当地に仏塔を建てて瑠璃・珊瑚・瑪瑙などの七宝を埋め地鎮したことに由来すると言われますが、一方で、琴弾山の東北に連なる山々、不動の滝、稲穂山、高屋神社、七宝山、その山麓の興隆寺・・この七宝山系と呼ばれる山岳の道は、山岳信仰、修験、真言密教と繋がる宗徒修行の道であったとする説は首肯できるものに思えます。興隆寺(跡:豊中町下高野)が観音寺、本山寺共通の奥の院とされるのもこの説を推すに有力なことです。この道は観音寺、本山寺から弥谷寺(さらに曼荼羅寺、五岳山を経て善通寺に至るとも) もう一つの遍路道と言いうるかもしれません。夢想は拡がります・・
さて、「霊場記」の観音寺の項を見ましょう。本堂(本尊聖観音)、金堂(薬師)、弥勒堂、青丹神社、五所権現社、荒神社、愛染王、宝塔などの堂宇。ただし付属の絵図は正確性を欠いているように思えてなりません。現存するものは延宝5年(1677)大改造したと伝わる3×4間、向拝付の本堂。(以前は南北朝時代再建の方5間の堂であったと伝わる。古様式を残した素晴らしいお堂と思わせられます。金堂におられる薬師如来は平安中期の作と言われ、元禄6年(1693)修理の記録を持ち、薬師堂に現存します。ただし脇の四天王は現在は本堂の聖観音の脇持となっているようです。
次に「四国遍礼名所図会」を見ます。本堂(聖観音)、本堂横に大師堂、本堂の上に金堂(薬師)、宝塔古跡、仁王門、惣門など。「霊場記」以降で新たに加わったもの、大師堂(3×4間、向拝付、宝暦11年(1761)再建、現存。金堂は天文4年(1739)再建のものとおもわれますが、現存のものではありません。、仁王門(安政9年(1797)建立、現存)、仁王は享徳年間(1455頃)の優品と言われ、現存。なお、金堂の項に「本堂のうえに琴弾より下る道」との書き込みがあります。前記のようにの時期、琴弾八幡宮から観音寺への参道の変更があったのかもしれません。
序でに「金毘羅参詣名所図会」を見てみましょう。詳細な書き込みはこれまでの絵図の変遷を復習する思いで興味をそそられます。本堂が中金堂、金堂が西金堂と表記されている他、新たにみられるのは太子堂、鐘楼(ふんだんに彫刻が施されたもので文化7年(1810)の再建と見られています。現存)といったところでしょうか。
本図会と現状との大きな違いは、太子堂は神恵院本堂近くに移ったこと、弥勒堂は開山堂と名を変え現存、しばしば登場する金堂(西金堂)は大正時代に再建、薬師堂として現存。


観音寺図(金毘羅参詣名所図会)

財田川を渡って観音寺市街に入る橋は三架橋と呼ばれ日本百名橋にも選ばれる鉄骨コンクリート橋の美しい橋ですが、文政12年(1829)に染川に架けられた(当時、財田川は染川と呼ばれた)木橋(太鼓橋)の絵図が残されています。羨むような情景ではあります・・掲げておきます。


三架橋(金毘羅参詣名所図会)

                                        (令和1年12月 追記)




観音寺から70番本山寺への道は好きな道です。特に財田川左岸(南側)の道は一際自然豊かです。この道のこと何度か書いた気がします。


観音寺から本山寺へ

本山寺は、仁王門も本堂の屋根もそして五重塔もどっしりとした佇まいで心を打つ風情です。

 本山寺山門

 本山寺境内

 本山寺本堂


本山寺本堂とサンシュユ

本山寺東門の茂兵衛標石

東門に茂兵衛標石(167度目、明治32年)。この標石には「弥谷寺本堂より大師生誕地屏風浦奥の院へ打ぬけ便利」と茂兵衛さんらしい注釈が刻まれています。

(追記)本山寺東門の茂兵衛標石について
この標石の記述、ちょっと気になりますね・・屏風浦奥の院とは海岸寺奥の院のことと思われますが、明治中頃、少なくとも茂兵衛さんは大師の生誕地を善通寺ではなく、白方屏風浦の地であったと信じていたということを示すものなのでしょうか・・現在善通寺市郷土資料館前に移設されている善通寺近くにあったと思われる茂兵衛標石には「弘法大師御誕生所善通寺道」と明記されていることを併せ考えると不可思議なことではあります。


弥谷寺までの道には、この標石以外に6基の茂兵衛標石があると思います。豊中町本山甲のもの(100度目、明治21年)には「法の花咲く道々の匂ひ希(あ)り 臼杵○○」の添句が付きます。笠田には2基(157度目、明治30年)(164度目、明治31年)、後者に箸蔵寺の標記があるのは不思議な感じがしますが、ここから高瀬町羽方、山本町神田、財田町財田上などを辿れば箸蔵街道に行き着くことは可能でしょう。高瀬町下勝間のもの(150度目、明治29年)。三野町大見のもの(140度目、明治38年)。そして弥谷寺山門下石段口のもの(100度目、明治21年)となります。
本山寺の近く妙音寺も立派なお寺です。遍路道から少し入りますがそれだけにとても静かな境内です。

 妙音寺

追記「本山寺の修造と奥の院」
本山寺は、江戸時代の初め頃までは本堂、仁王門のみの簡素な寺容であったといいます。(本堂、仁王門はそれぞれ正安2年(1300)、正和2年(1313)の建立で現存する極めて立派な建築物です。)
江戸中期には四国遍礼名所図会(1800)に見るように、明治期に建立の五重塔を除きほぼ現在の形態を備えていたようです。その間、勧進聖や修験者の活発な勧進活動に負うところが大きかったと言われます。
本山寺には、興隆寺、妙音寺という奥の院と称する二つの寺がありました。興隆寺廃寺跡(豊中町下高野)には鎌倉時代後期から室町時代末に至る200年間に100基を超える石塔群(宝塔、五輪塔など)が建てられ今に残されています。寺の本尊は薬師如来であったと伝えます。もう一つの奥の院である妙音寺の本尊は阿弥陀如来です。
一方、本山寺の本尊は脇侍に阿弥陀、薬師の二如来を配する馬頭観音です。(四国八十八霊場では唯一) このことから、上記の江戸初期より始まる勧進活動が妙音寺(阿弥陀)と興隆寺(薬師)を統合し、新たに馬頭観音を加えて本尊とするという導線のもとで行われてきた(大師信仰の流れとも符号する・・)と考えられているようです。
                             (令和4年8月 追記)
                       

そうそう・・この道では幸せな徳右衛門標石のことを書いておきましょう。
高瀬町下勝間六ツ松の溜池の傍のコンクリートのお堂に祀られているのです。立派な服まで着て。「是より弥谷寺迄壱里十八丁 寛政八辰」。
頭部は蒲鉾型ではなく四角錘。昔から堂内におられたのでしょう、劣化は殆ど見られないのです。
徳右衛門標石は、その大師像の彫りが優れているためか、道標でありながらお大師さんとして祀られている例は、他にも多くあります。つい一昨日も雲辺寺を下った旧遍路道沿いで見たところですね。
幸せな標石といえましょうか。


下勝間六ツ松の徳右衛門標石

 徳右衛門標石

 弥谷寺への道

さて、今日の宿は弥谷寺下の温泉です。

大興寺付近の地図 池ノ尻付近の地図 観音寺付近の地図 豊中付近の地図 高瀬付近の地図を貼っておきます。


                                                (3月31日)



 

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コメント
 
 
 
Unknown (Papa)
2015-05-04 09:20:38
枯雑草さん、

いつも楽しく読まさせて頂いてます。

枯雑草さんが歩かれた雲辺寺道は、宮崎本第5版まで載っていました雲辺寺から萩原寺への「へんろ路」です。

雲辺寺から降りて来ますと井関池を過ぎてすぐ池沿いに右に行きますと、途中で道はなくなりますが池の防波堤沿いに行き止まりまで行きますと左て集落に降りられます。
集落の道をまっすぐ行きますと突き当たります。
そこに表示があり「参拝の方は右の路から」
でも失礼して左の路に行きますと萩原寺納経所前の路に繋がってます。

長々と失礼しました。
 
 
 
Papaさん (枯雑草)
2015-05-04 21:19:35
こんにちは。
コメントありがとうございます。
そうですか・・第5版には遍路道として
載っていたのですね。
現在、多くの遍路が利用するロープウエイ駅
に下りる道の方が楽かもしれませんが、
こういった古い遍路道が消えてゆくのは、私には
残念に思えます。
 
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