四国遍路の旅記録  三巡目 第7回 その5

中蓮寺峰を越えて・・箸蔵寺へ  (平成23年5月18日)

88箇所の札所回りの途中に箸蔵寺の参詣をうまく組み入れることは、なかなかの難問なのですね。佐野の宿から箸蔵寺までが17kであること、箸蔵寺から雲辺寺までが19kであること、箸蔵寺には宿坊はあるものの、大抵の時期は団体専用であること・・など考慮すると、結局、佐野の宿に連泊して箸蔵寺を往復する遍路が最も多いのではないかと思います。
そのルートは国道192号と県道267号を経るもので、必ずしもいい遍路道という訳でもないし、同じ道を往復するのも何となく・・
私は3年前の秋、伊予三島から箸蔵寺に行き、寺の山下の民宿に泊って、翌日国道32号、県道6号を通って雲辺寺に行ったことがありましたが、これは山間の農村を通る素晴らしい道でした。
この度は、雲辺寺を下って大興寺との間にある宿から、箸蔵寺へのルートを模索しました。
一つは、六地蔵越えのルートがあります。これは基本的に県道6号ルートであり、以前に通った道と重複します。
そこで、「四国の道」に沿って、逆瀬池から中蓮寺峰、若狭峰を越え、猪ノ鼻峠から箸蔵街道に入り、直接山上の寺に至る道を通ることにしました。寺までの距離は約22k、結果としては素晴らしい道でした。もちろん、好天気という前提ですけど・・
宿のご主人からは、道の詳細について指導をいただき、奥さまには体調不良で食欲の無い身の心配をお掛けしながらの出発でした。

高原の朝の田圃

この宿は素晴らしい立地。ことに朝は高原の爽やかさを満喫できます。田圃も林もたっぷり水を湛えて輝いていました。
中蓮寺峰までの6.8kは、田園の道、湖畔の道、山間の道、舗装道、未舗装道・・まことに変化に富んだルートで、「四国の道」の道標が無ければ歩くことは出来ないでしょう。
何しろ、太い道から細い道へ、山道から大きな舗装道へと変幻自在なのですから・・
美しい逆瀬(さかせ)池の畔の道を歩きます。この池、溜池なのですが、昔から小さな池があった場所のようで、龍神の伝説を伝えています。


逆瀬池、向こうは中蓮寺峰の山波

 中蓮寺峰登山口

もみじ橋

集落の中を通る道から山の道に入り、中蓮寺峰登山口に至ります。
ここから1.8kはまだ緩やかな上り。
道傍に文政七年と刻んだ地蔵を見ます。この道が昔からの道であったことを思い、嬉しくなるものです。
やがて、赤いもみじ橋。ここから中蓮寺峰頂上まで0.9kは、四国の道特有の擬木(いや、ここのは本木のよう)を敷いた急坂の道。
片手金剛杖、片手、登山口でお借りした竹杖の両手杖の助けを借りて上ります。
頂上には休憩所。財田の街と田園の眺望が見事です。

 つつじのお迎え

中蓮寺峰頂上


財田の街の眺め

少し行くと、ハングライダーのフライト場があります。離陸ポイントから覗くと、ほんとに空中に浮かべそうな感じがする不思議・・
すぐに若狭峰に。この辺は広い未舗装林道の様相。
猪ノ鼻の方から軽トラで山作業に来ているご夫婦にお会いします。道を確認します。
「枝道はあるが、下へ下へ下がれば猪ノ鼻峠じゃー・・」 その先からは舗装道。国道32号へ出る道を左に分けて、旧猪ノ鼻峠へはまた未舗装道。
峠の標識は草に埋もれています。北方、国道32号やトンネルの出口は、微妙なところで見ることはできません。

 猪ノ鼻峠

四国の道は峠を直進しますが、右折する林道があり、箸蔵街道までの距離は変わらないものの、上りは少なさそう。
林道を行きます。林道の終り辺り舗装化が進んでいました。
箸蔵街道に入るところの小さな道標を見落とさないように・・
箸蔵街道は街道とは言っても、細い山道。馬除(うまよけ)には廃屋が数軒並んでいます。
ここにもそんなに遠くない昔、生活があったのですね。
その先、「箸蔵寺江二十三丁」の道標を見ます。

箸蔵街道馬除

 道標

そして、箸蔵寺への標示に従い左折して、暗く荒れた山道を行くと、突然開けて、広い八十八カ所御砂踏の所に出ます。箸蔵寺到着です。
御影堂や本殿もすぐ傍です。御影堂にお参りの団体が、おかしな所から現れた遍路に不審顔。
宿からここまで、距離は約22k、所要時間6時間40分でした。実に充実した歩き道行きでした。
お世話になった竹杖に合掌して、山にお返ししました。

別格15番札所箸蔵寺は、真言宗御室派別格本山。その縁起については、以前にも書いたことがありますので繰り返しませんが、本尊は金毘羅大権現で、今でも神仏習合の風習を色濃く残す独特の寺です。琴平の金毘羅大権現を祀っていた、通称金毘羅さんが明治の神仏分離により純粋な神社、金刀比羅宮に生まれ変わった以上その奥の院であるとの位置づけは説得性を欠いていると思われます。
江戸時代の終りに火災に遭い、大半の伽藍を焼失。現存する本殿、護摩殿、方丈等はすべて江戸末期に再建されたもの。
広大な境内、山門より本殿まで600段に近い壮大な石段。その石段に刻まれた海外の地名を含む寄進者の名は、古くから多くの信者も持つ証し。そして、本殿の持つ独特な雰囲気は、立派な寺の多い別格霊場の中でも、私はその魅力において最右翼に挙げたいと思います。

箸蔵寺本殿

箸蔵寺本殿

箸蔵寺本殿

箸蔵寺本殿

箸蔵寺本殿

箸蔵寺本殿

箸蔵寺本殿

箸蔵寺本殿


箸蔵寺本殿

本殿への石段

本殿は外陣、内陣、奥殿の3部分からなる複合建築で、銅板葺きの複雑な屋根構造を持っています。しかし何といってもこの本殿の特徴は、その過剰とも思えるほどの彫刻による装飾にあるでしょう。
本殿の前に立って振り仰げば、その独特の世界の中に飲み込まれる気分に襲われます。(国重文指定)
本殿前で、犬を連れた77歳の男性にお会いしました。池田の町からよく車で山の下まで来て、歩いて寺まで上ってきているといいます。昔は山歩きが趣味で、富士山にも2回登ったそうです。
「おー、そんなとこから歩いてきましたかー・・あなたは太っておられんからいい・・よう歩けるんですなー・・」
山を一緒に下って、町まで送るというのをお断りして、ちょうど来た電車に乗って池田の街のビジネスホテルに泊まりました。

箸蔵寺より阿波池田の眺望

吉野川の畔




観音寺まで、今回の区切り  (平成23年5月19日)

もし、箸蔵寺の宿坊に泊めてもらえたとしたら、この日は箸蔵街道を財田まで、更に財田川に沿って大興寺まで歩いて、その辺りに泊まろうかと思っておりました。
でも、宿坊には泊まれず、阿波池田の市内のビジネスホテルに泊まりました。これから箸蔵の山に上って歩く気力は失せました。それに、ちょっと所用も出てきたよう・・予定を短縮して、今日観音寺まで行って、今回の区切りにすることにしました。
阿波池田から讃岐財田まで電車で移動です。
途中、坪尻駅でスイッチバックを見たり・・ほんとに山の中、人の影も見ません。
 
讃岐財田駅を下りると、目の前は夏近い明るい田園がいっぱいに拡がっていました。
財田川の畔を歩きます。ああ、このまま歩けば観音寺か・・ 

讃岐財田の駅を出て・・

財田上の田園風景

古い潜水橋

財田川

遠くに寺の塔が霞み、川には古い潜水橋が残っていたり・・川原は水生植物に覆われ、時々お花畑です。
こんな道を歩く遍路姿は滅多にいないでしょう。二、三の人から声を掛けられました。
「どちらへ・・」大興寺というと「ああ、小松尾寺ねー・・」と返ってきます。
学校が近づけば、生徒さんと一緒です。「おはよー、おはよー」賑やかなこと。そんな中を大興寺まで歩きました。12kほどでしょうか。


大興寺

 大興寺

大興寺の門前で

67番札所小松尾山大興寺は大きな樹に囲まれた静かな寺です。村の鎮守、いやいや村のお寺という感じが何処かに残っていて好きな寺です。

(追記)小松尾山大興寺の変遷について
五来重は「四国遍路の寺」の中で「村の中のお寺で、熊野権現がなければ札所になるのは考えられないようなお寺です・・」と述べています。
その古を尋ねれば、白鳳期までたどれる古い寺と云われます。鎌倉期には、熊野権現を祀る別当寺であり修験者の拠点ともなっていた・・ 中世までは現地より北西に1k、今の国道377号に近い丘陵の端にあり(現代はその場所に一堂がある)真言宗、天台宗の二宗が兼学したという珍しい性格を持ち、隆盛を極めたとも云われます。江戸期始め澄禅が「・・寺ハ小庵也・・」と記すように戦国期の荒廃からの復興は遅れたようです。
江戸前期の「四国遍礼霊場記」の絵図には、上段中央に本堂(薬師)、右に鎮守熊野権現、左に大師堂が見られます。そして一段下に別当大興寺があります。また「天台大師の御影あり」とも記されます。
本堂に薬師如来(秘仏)(熊野権現の本地仏)平安期末(11世紀)の定朝様式を汲むと云われるもの。現在山門外に祀られる石造地蔵菩薩立像も立派で強く印象に残るもの。(昔は境内の地蔵堂の居られたとも)(現在は本堂、大師堂は「霊場記」に示す位置にほぼ定まり、寺の場所は空地となっています。)                    (令和5年8月追記)

四国遍礼霊場記 小松尾寺


それから、順番をちょっと変えて70番本山寺へ。大興寺から本山寺への道。どうにか行けるだろうとタカをくくっておりましたが、やはり迷いました。
おばあさんは大体うそを教えます。おじいさんに聞かなければいけません。いや、冗談・・


本山寺前の財田川、土手の道を行く遍路ひとり

本山寺

本山寺山門

本山寺本堂

本山寺五重塔

本山寺五重塔

70番札所本山寺の本堂の屋根の美しさ、さすがに国宝。それにそんなに古いものではなく、明治の終りに建てられたという五重塔の独特の造りと立派さには、あらためて感心しました。中備えにこれだけ蟇股を多用した塔は他に類を見ないのでは・・
それに忘れてはならないのは山門。その簡潔な表情が素晴らしい。
納経所の女性に五重塔のこと申しあげると、「そうらしいですね、時々そう言われる方がいますよ・・」とうれしそうでした。ご褒美に飴を戴きました。
長閑な財田川の土手を歩いて68番札所神恵院、69番札所観音寺へ。

観音寺

 観音寺

銭形と瀬戸内海

銭形もその向こうの青い瀬戸内海も。それを眺めていた母娘のお二人と短い言葉を交わして、琴弾八幡宮の長い石段もゆっくり下りて、観音寺の駅に。
この度の遍路の区切りとしました。

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四国遍路の旅記録  三巡目 第7回 その4

奥の院仙龍寺、往還の道(つづき)  (平成23年5月16日)

奥の院仙龍寺は、古くより多くの遍路が参拝したようで、澄禅や真念も特別にその道中を記しています。
澄禅は「是ヨリ奥院ヘハ大山ヲ越テ行事五十丁ナリ。堂ノ前ヲ通テ坂ヲ上ル。辺路修行ノ中ニモ此奥院ヘ参詣スルハ希也ト云ガ、誠ニ人ノ可通道ニテハ無シ。只所々ニ草結ビノ在ヲ道ノ知ベニシテ山坂ヲタドリ上ル。峠ニ至テ又深谷ノ底エツルベ下ニ下、小石マチリノ赤地。鳥モカケリ難キ巖石ノ間ヨリ枯木トモ生出タルハ桂景ニ於テハ中々難述筆舌。木ノ枝ニ取付テ下ル事廿余町シテ谷底ニ至ル。・・」と、その厳しさを記しています。
又、真念は「三角寺より奥院まで五十八丁坂道。おくの院八丁前に大久保家二三軒有、荷物をきてよし。但おくの院一しゅくの時は荷物持行。・・」と記しています。

この奥の院に縁の深い二人の修行者についても書いておきましょうか。一人は中務茂兵衛。生涯280回の四国遍路を行った茂兵衛は八十八札所以外ではこの奥の院を定宿としていたと言われます。そして、奥の院への特別の拘りは茂兵衛道標に見られます。奥の院参詣を奨励する文を刻んだ道標は、私が確認しただけでも、前神寺東参道、中之庄追分へんろわかれ傍、三角寺境内、地蔵峠、奥の院不動堂前、椿堂の近くの6箇所に及んでいます。(詳細後記)
もう一人は、江戸時代中期の木食僧仏海です。我々には室戸の仏海庵と、そこでの土中入定を知るところですが、仏海は32歳から2年間、この奥の院で千体地蔵彫像を行っています。(地蔵峠でその一端を見ることになります。)

さて、三角寺よりまず地蔵峠を目指します。2.6kの山道です。
三角寺内の58丁を始め峠の32丁を含め多くの地蔵丁石が残されています。
峠前の林道を渡る前に急坂がありますが、標高差は400mですし、よく整備された道なのでそれほど厳しい道ではありません。
入口から2丁の所に茂兵衛道標(二百五十一度目、大正弐年)があります。
上りの途中で体格のいい遍路が休んでいます。この人が東京のSさん。仙龍寺とその少し先まで同行します。
峠到着、三角寺からの所要時間1時間20分。
4基の地蔵が並んでいます。右から首の無い地蔵(大師像)、三角寺まで32丁、奥の院26丁の地蔵道標、仏海の地蔵道標、26丁の地蔵丁石の順です。
これらの向いに、奥の院の案内を彫った道標「奥の院へ三十一丁 毎晩御本尊大師さまの於開帳や於護摩の修行があります 於通夜をして御縁を結びなさい」

 地蔵峠への道

 地蔵峠の地蔵

峠から仙龍寺までの下り2.1k。これが結構大変な道なのです。崖崩れがあったり、急坂や石段の上に落ち葉が溜まっていて滑ります。
市仲(いっちゅう)の集落に通じる道に出て更に下ると不動堂へ。その少し手前に2mもある茂兵衛道標「箸蔵寺七里、雲辺寺五里/奥の院是より八丁・・壱百八拾五度目、明治三十四年十月・・」。
ここが箸蔵寺へ行く道との分岐点。昭和10年代までは、茶店を兼ねた遍路宿があったという場所。真念が大久保と書いているのもここのこと。この道標の隣には峠にあったと同様の奥の院への案内を彫った道標もあります。
不動堂にお参りして更に下ります。
一つ書き添えておきましょう。3年前、地蔵峠の上りに2箇所、峠に1箇所、下りに2箇所、長柄の草刈り鎌に草刈り接待に依頼の札を下げられた東京のMさんへ。1箇所を除いて鎌は健在でした。効果も大きいようで周りの草の繁茂もありませんでしたよ。


仙龍寺繁盛、その歴史
さてここで仙龍寺の繁盛の歴史を辿ってみることにしましょう。
江戸期の初め、澄禅は四国遍路日記(1653)の中で三角寺奥院について次のように記しています。
「(奥院までの道の様子はこの記事の頭の如し。略す)
扨、奥院ハ渓水ノ漲タル石上ニ二間四面ノ御影堂東向ニ在リ。大師十八歳ノ時此山ヲ踏分サセ玉テ、寿像ヲ彫刻シ玉ヒテ安置シ玉フト也。又北ノ方ニ岩ノ洞ニ鎮守権現ノホコラ在。又堂ノ内陣ニ御所持ノ鈴在リ、同硯有リ、皆宝物也。寺モ巖上ニカケ作リ也。乗念ト云本結切ノ禅門住持ス。昔ヨリケ様ノ無知無能ノ道心者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直ニ申ス者ハ一日モ堪忍成不ト也。・・」
その150年の後、四国遍礼名所図会(1800)には絵図とともに奥院仙竜寺の様子が次のように記されます。
「・・庵本尊不動尊を安置す、是より寺迄七丁、壱町毎に標石有り。後藤玄鉄塚 道の右の上にあり、護摩窟 道の左の下、釈迦岳 右に見ゆる大成岳なり、加持水 道の右にあり、来迎滝 橋より拝す。蟹渕 橋の下の川をいふ也。金光山仙竜寺 入口廊下本堂庫裏懸作り、本堂本尊弘法大師 毎夜五ツ時に開帳有り、大師御修行の霊地なり、本尊自作の大師也。大師四十弐才御時一刀三礼に御作り給ふ尊像也。一度参詣の輩ハ五逆十悪を除給ふとの御製願也。終夜大師を拝し夜を明す、阿弥陀堂 庫裡の上にあり、仙人堂 廊下の前に有り。」(引用最初の「庵」は現在は不動堂と呼ばれている堂宇。「夜五ツ時」は夜8時を指す。また、仙人堂は播磨國を中心にした多くの山岳寺院の開祖とされる法道仙人(天竺人)を祀る堂宇。)

澄禅の日記と名所図会では、大師が修行に訪れ自像を彫ったとされる年齢が異なりますが、全体の差異で強く感じられることは、参詣も稀な寺から通夜で繁盛する寺への変身ということでしょう。この繁盛は江戸時代後期から明治、大正、昭和にまで及んだとされます。それを進めた力はどこにあったのでしょうか。要因を列記してみましょう。
勿論、大師が自像を刻み、厄除け、虫除けの修法を行って以来、「厄除け大師」「虫除け大師」として敬われていたという前提は大きいことでしょう。
寛政5年(1793)、仙龍寺は三角寺末寺から大覚寺門跡の末寺となり、それより以後「三角寺奥院」から「四国の奥之院」(あるいは「四国總奥之院」)と名乗るようになります。
三角寺道の中田井にある道標(安政3(1856))には 「遍ん路道 是ヨリ三角寺 三十丁 奥之院 八十八丁/施主 當所 観音講女連中」と刻まれます。奥之院には観音講の女性の参詣が多かったようです。江戸後期、奥院は「女人高野」と称しさらに多くの女性の参詣を勧めるようになります。
名所図会に掲載された金光山(仙龍寺)絵図の諸堂はその後改築、増築が行われていますが多くは現存しています。それに加え絵図には示されていない清瀧を巡る参道が整備され大正3年住職、中務茂兵衛、地元有志により清瀧新四国が開設されます。新四国の素晴らしい石仏の姿、表情に魅せられます。  
午後8時の開帳による通夜、その後の風呂の無料開放は多くの参詣者に喜びを与えたと言われます。昭和に入り宿坊の形態となり、最大時300名を収容可能であったと言われます。
このような多くの要因が仙龍寺の繁盛をもたらしたと思われますが、一つ忘れてはならない要因があったと言われます。それは仙龍寺支援者とも言うべき人々の存在です。その熱心な支援者の一人が中務茂兵衛であったと言われます。
茂兵衛標石については、この日記でも様々なところで記したことですが、不動堂の少々手前、大窪(大久保)の元茶店があったといわれる場所に中務茂兵衛の標石があります。
「奥の院へ八丁 毎夜本尊御直作厄除大師尊像のご開帳アリ霊場巡拝の信者ハ一夜の通夜ヲシテ御縁結ビ現當二世ノ利益ヲ受ケラルベシ 中司義教誌  荷物ハ持参スルモヨシ又ハ店に預ケ置キ参詣通夜スルモヨシ」と刻まれます。 同様の案内石は地蔵峠にもあります。
中務茂兵衛の道標は、多く見られますが奥院仙龍寺近くで「通夜案内」が併記されたものを拾えば次のとおりです。
・三角寺境内 大師堂前(明治33年2月)奥の院 是より五十八丁 毎夜御自作厄除大師尊像乃御開帳阿リ霊場巡拝の輩ハ参詣して御縁越結び現当ニ世の利益を受く遍し 中務義教謹誌
・四国中央市中之庄町追分(明治36年12月))金光山奥乃院は毎夜御自作厄除弘法大師尊像の御開帳阿リ四国巡拝の砌に磐参詣して御縁を結び現当ニ世乃利益を愛く遍し 中務義教謹誌
・西条市洲之内甲(明治37年7月)金光山仙龍寺ハ厄徐弘法大師御自作の尊像〇て毎夜開帳阿リ四国巡拝の輩には参詣して御縁を結び現当二世之利益を受くべし 中司義教謹識
・四国中央市川滝町下山(明治34年6月)奥の院 是より一里半余 毎夜御自作厄除大師尊像の御開帳阿り霊場巡拝の輩ハ参詣し天御縁を結び現当ニ世の利益を受くべし 中務義教謹誌
少々強引で熱のこもった茂兵衛さんの声が聞こえてくるようです。考えさせられます。

(追記)中務茂兵衛の没後もこの奥之院への参詣の勧めは引き継がれたようです。三角寺への道に2基の道標を見ます。
・金田町三角寺の道標(大正15年)「・・三角寺に於て通夜ができます高祖大師の御開帳もあります奥之院へこれより六十四丁・・」
・上柏町の道標(昭和10年)「・・奥之院ハ大師四十二歳厄除修行の霊験にて谷深くして水きよく□□於護摩の修行併入浴のもうけありて誠にありがたい於寺であります参拝於通夜をして法縁を結ばれんことを敢て勧む・・」
この地域の多くの茂兵衛道標の建立に世話人として携わった「森實春治」。上記の二つの道標にも施主として「森實」の苗字を見るのです。
                             
                                  (この項おわり)



金光山仙龍寺(四国遍礼名所図会)


 不動堂前の茂兵衛道標

 通夜案内の標石

 不動堂


不動堂前の八丁仏、九丁仏

新四国仏

 新四国仏

  清滝

道の傍にある多くの石仏の鑿の跡の素晴らしさには感嘆するほどです。ベールが下がったような見事な滝も見ました。
以前に通った時あった崖崩れ2箇所の内1箇所は通りませんでした。後で分かったことですが、寺の境内を起点として循環する新四国霊場があって、崖崩れと滝の間に遍路道が繋がっているということのようでした。
やっと本堂の屋根が見えてきます。右手に法道仙人堂があります。ここも山岳霊場やはり法道仙人開基の寺だと納得。
以前に参った時もそうでしたが、「大師堂は何処でしょうか・・」と尋ねる人がいます。「こちらはご本尊がお大師様ですから・・」とお答えするのですが・・


仙人堂


 仙龍寺本堂

 仙龍寺本堂

 仙龍寺本堂通夜堂

岩の上、壮大なコンクリートの土台の上に建てられた立派な本堂に、靴を脱いで上がってお参りさせていただきました。
納経所では、峠越えの山道通行に対しかなり執拗に叱責されます。事故を防止したいという寺の気持ちも分かりますが・・しかし、この道は昔からの遍路道。この道を通ってこそ奥の院に参る意味があるとまで思います。歩く遍路の細心の注意とともに、寺側に、危険個所の整備をお願いしたい気持ちです。
仙龍寺からの帰路。Sさんは堀切トンネルを通って私と同じ佐野の宿に行くといいます。
私は堀切峠を経由する旧遍路道を探る積りですが、不動堂までの危険な急坂を上り返す気力は、先ほどの叱責も加わって失せてしまい、国道319を経由して市仲に行くことにします。

 市仲の集落

十二丁地蔵

点在する市仲の集落の家の間をヘアピンカーブを繰り返す道を上ります。
最上部から左に行けばすぐ不動堂、右が旧遍路道の入口です。
十二丁の地蔵丁石や破損した道標の一部も見ました。(追記:この道標は真念石であることが判明)その先にも丁石があるはずです。
畑で作業中の人がいます。道を聞きます。「去年の台風で木が倒れてむちゃくちゃやー、通れんよ・・ハミも出るしよー・・」
こういう状況では、無理やり進入する訳にはゆきません。併行した直下の道を堀切峠まで行きます。
峠側の旧遍路道の出口は確認しました。道標もあります。かなりまでは入れそうな気配・・
峠の手前に右に入る遍路道。すぐに「峰の地蔵」へ。
この地蔵、享和二年(1802)の建立で立派なもの。今はコンクリートの覆屋の中におられます。
地蔵の前に「250m下がって土佐街道に合し・・」の道標がありますが、私は3、400mほど東に行き土佐街道を下ることにします。

 峰の地蔵

また余談。
堀切峠から東に行き、水ヶ峰を越え呉石高原に至る尾根道、今は広い舗装道です。その途中、横峰という所から分岐して笹ヶ峰を越え土佐立川までの険しい山道を経て高知に通じていたのが土佐街道(土佐北街道)です。(街道の始点は川之江)
奥の院から雲辺寺へ行く遍路の一部は、呉石高原に通じる尾根道を通って境目峠に行っていたとも言われています。澄禅もこの尾根道を通ったと推定されている研究者もおられるようです。
しかし、「四国遍路日記」の文面では「・・件ノ坂ヲ山ノ半腹ヨリ東ニ向キテ恐シキ山ノカケヲ伝ヒ往ク。所々霜消テ足ニ踏所モ無細道ヲ廿余町往テ、少シ平成野中ニ出ヅ。・・」とあり、その距離からいっても、例の大久保の分岐から平山に出る道を記述しているようにも感じられます。如何なものでしょうか・・。

「追記」平山から雲辺寺への古道について
三角寺奥之院から雲辺寺への道については、上記のように呉石高原を経る道があったようです。
この道、尾根部分は緩やかな良道であったと思われますが、尾根から境目に下るルートに難があり、一般的な遍路道にはなり得なかったのではないかという気がします。
三角寺から雲辺寺への道について、江戸時代初期、真念の「道指南」には「〇平山村、茶屋有。〇はんだ村、くハん音堂。〇りゃうけ村、観音堂。〇だいお村、(今の田尾か?)地蔵堂。ねぎのお村(葱尾)ゆきて坂有。峠に与州・阿波のさかい有、大さかひとなづく。・・」とあります。それは、椿堂を経ない法皇山脈中腹のルートで、現在は「領家道」と呼ばれる道と思われます。(1800年の「名所図会」に至り「椿堂」が現れ、この頃遍路道の変更が行われたと想像されます。)
現在の領家道は、古下田(こげた)で椿堂を経る一世代前の旧道(道標も残る道)を更に南に過ぎ、中通、田尾を経て、葱尾で阿波道(現在の遍路道)に合流しているようですが、明治後期の地図を見ると更に直線的に東進し、境目峠に繋がっていたように見えます。嘗てはこのルートが雲辺寺への主道であったのかもしれません。


明治後期の地図に示された「領家道」
                                          (令和4年10月)


さて、土佐街道を下ります。途中、史跡「お茶屋跡」、土佐藩主が参勤交代中の休み場であったという所。
小さな橋を渡ります。樹木の伐採用の作業道と思われる草を刈りこんだ平らな道が暫く続きますが、やがて「堀り切り」の荒れた道に。流水のため深くえぐられた所も見られます。

 土佐街道の道標

天保二年の凝った道標が倒れています。「此方於くのいん道、此方うんへん寺道/土佐阿波上山・・水ヶ峰迄十三丁/南無阿弥陀仏、日本廻國供養・・」文面の如く遍路道道標ではありません。土佐街道の道標なのです。
平山に近い所に茂兵衛道標(壱百三十一度目、明治二十六年十月)があります。
地蔵丁石も続いており、平山の集落が見える所に四十六丁石、そして平山の嶋屋跡の四十八丁地蔵で終ります。ここにも茂兵衛道標「奥之院四十八丁、明治二十七年八月」があります。(この道標、徳右衛門道標を再刻したものと言われる・・)
堀切峠から約1.5kの山道を抜けた所、上の畑から声が掛ります。
「土佐街道を通られましたか・・以前は通れなかったんですが、最近、土佐街道を守る会とかいうのがあって、草刈りしたって聞いてます・・」 


田圃

椿堂近くの道標

田植えが終わったばかりの田圃を眺めながら、境目トンネルを目指します。
椿堂(別格14番常福寺)にお参り。その少し先に、前にも触れた、奥の院参詣を奨励する文の入った茂兵衛道標。(壱百八十四度目、明治廿四年六月)この道標は添句付でもあります。
「三つの角 うれしき毛乃者 道越しへ」 
境目トンネルを潜り、佐野の宿に着いたのは17時近くでした。二階からSさんの声「おつかれさん、早かったですねー・・」


境目峠の周辺、あちこち  (平成23年5月17日)

今晩は、佐野の宿からおそらく一番近い宿、雲辺寺を下りて4.5kの宿に泊まる予定。
何故?明日、その宿から山を越えて箸蔵寺へ行くという・・また、物好きなことを考えていたからですよ。・・で、今日は境目峠付近をうろうろして、曼陀峠をゆっくり歩いて雲辺寺に行きます。
ご主人のお人柄で、とても楽しい夕食が戴けた宿でした。
お嫁さんと二人で「また、来てください・・」とお見送りいただきました。
レストラン水車の前を左に入り、旧国道を戻って境目峠に行きます。
境目峠は、昭和47年トンネルが開通するまでは愛媛と徳島を結ぶメイン・ルートであった所で、朽ちかけた国道標示板や石の道標があります。道標は明治34年に建てられたもの(大正6年再建)
で、「従是東徳島縣三好郡/至愛媛県川之江町四里七丁」と刻まれています。
何しろ静寂で、過ぎ去った時間を惜しむような峠道の風情です。

 境目峠

 県境の家

峠の手前(徳島県側)100mほどに「呉石展望コース11.0k」の標示。
昨日、堀切峠から昔の遍路が通ったであろう呉石高原に通じる尾根道を展望しましたが、道そのものは違っていても、呉石高原から境目峠に下ってくるルートに違いありません。
暫く上ってみます。舗装はされているものの基本的に一車線の道。たまたまでしょうか、その道を四駆の車3台が上ってゆきました。
すぐ徳島、愛媛の県境を越えているはずです。二つの県を跨ぐように二軒の民家があります。徳島側の展望も開ける長閑な田園です。
道は樹林の中へ。愛媛県の川滝町辺りの展望が得られるまでには、まだ相当上らなくてはならないでしょう。戻ります。
地図には呉石高原への道の途中から七田に下る道がありますが、実際は草が繁茂して通行は怪しい。境目峠に戻ります。

(追記)境目峠から南へ行く道
境目峠より佐野側に少し進んだ所、右手に「阿州中津山道」と刻んだ自然石の道標があります。中津山って??と戸惑いますが、阿波の中津山といえばその山頂(1446m)に中津大権現や大師像を祀る修験の山として古くから知られたところ。(現在は三好市池田町に属す)きっとその山への道しるべに違いありません。
この明治16年の道標、読み難いながら次のように記されているようです。「是より白地渡場へ百八丁、渡場より垢離取川へ七十八丁、垢離取川より寺へ十八丁、寺より御山へ五十八丁・・」即ち、池田町白地で吉野川を渡る、白地より垢離取川(祖谷川)へ、寺(光明寺)から中津山(神社)へ・・のルートかと。
私はこのルートとは別に、道標辺りから南へ行く道が浮かんできます。
その道程、現在の地図には欠けたところが多いのですが、明治末期の地図(図示)にはしっかりとした佐連(され)への道が示されています。佐連から銅山川に架かる沈下橋を渡り西進。南への枝道を辿れば安楽寺。(現在では旧土佐北街道の新宮より銅山川に沿った県道319を東進、南に入るルートが全舗装の車道となっており、実用的と思われますが。)
安楽寺は歴史的には熊野信仰、修験道、弘法大師信仰が混淆した寺で三角寺、雲辺寺、萩原寺など密教系寺院との繋がりが強いと言われます。幕末の嘉永7年再建された本堂は
「板軒」(軒に平板が貼られている)という独特な構造を有し、その上を龍や獅子の彫刻が躍動し、のたうち廻るという・・その幽玄な迫力。是非お参りして拝見したいものと思わせられます。                         (令和5年9月
 改追記)

 中津山道の道標


境目峠南の道(明治末期の地図)


安楽寺本堂                                          安楽寺の板軒


さて、七田に戻ります。ここから曼陀峠に上る遍路道の起点に二つの道標があります。
集会所の西に1.8mほどの大きな道標「奥院箸蔵 金毘羅道/奥院箸蔵ヨリ雲邊寺に行クノガ阪ナシ順路」と、おもしろいことが書いてあります。なお、ここの奥院は箸蔵寺が金毘羅の奥の院であることを言っているのでしょう。
その上に、やはり1.8mほどの天保十四年の道標、添句付です。
「うん遍んじ道/・・末の世耳 共尓功徳を残須石寿恵・・」

 曼陀峠

ここより愛媛、徳島県境まで3.5k、さらに雲辺寺まで7kの道です。県境から0.5k以降は基本的に広い舗装道です。
やがて曼陀峠。屋島の戦いに敗れた平家一門が、この地に落ち延び、供養のため曼荼羅供を営んだところから名付けられたと言われます。
昔は阿波と讃岐を結ぶ生活の道が通っていたところです。もちろん、それと交差して尾根道を通る遍路道があったところで、僅かながら地蔵丁石も残されています。
高原野菜の畑や草原が広がり、高原の雰囲気が満喫できる道です。
寺まで2.5kで佐野から上る遍路道と合流します。
参道に近ずいたところ、かなり大きなハミ、いやマムシがお出迎えでした。「おーこんなところにおいででしたか・・」

 雲辺寺


雲辺寺釈迦涅槃像


雲辺寺五百羅漢

 雲辺寺を下る

66番札所雲辺寺。コンクリート製の本堂も完成し、五百羅漢の数も揃ったようで、境内の整備も一段落の感じ。大変豪華な寺になっていました。
かえって近寄り難い雰囲気もあるほどです。
今日はどうしても時間を持て余します。寺でゆっくり過ごし、膝に厳しい下りの階段の道もゆっくり下って宿に入りました。
それでも15時過ぎ・・ワンちゃんが大騒ぎで迎える宿にはご迷惑をかけました。


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四国遍路の旅記録  三巡目 第7回 その3

香園寺から前神寺の先まで  (平成23年5月15日)

前日、大頭から横峰寺に上り、山の東側を回って寺の北東、黒瀬湖畔まで来てしまったため、61番から63番までの札所を打ち残した格好になって
しまいました。
今日は黒瀬湖畔の宿から県道142号を辿り、霊場芝之井まで行き、ほぼ讃岐街道を西へ進んで61番香園寺へ。そして国道11号に沿って62番宝寿寺、63番吉祥寺に。
その後は讃岐街道と重なった遍路道で64番前神寺へ、西条市街の南の遍路道で新居浜市まで進んでおくことにします。
日記は札所以外の余談を中心に簡単に記しておくことにしましょう。
なお、この日はまた矢鱈と道標に注目しました。備忘録として留めておきますので、お読みいただいている方はどんどん読み飛ばしを・・

 石鎚神社の鳥居

 杉林

 西条の街と田園

黒瀬湖からの県道142号が切り通しを過ぎた所に大きな石鎚神社の鳥居があります。
現在、西条市州之内にある石鎚神社、前神寺から石鎚山へは、ここが参拝道であり、石鎚王子の道の始まりでもあるのです。
周囲の山は見事な杉林。この辺りから見る西条の街と田園は、なかなかの絶景です。
4kほどで住宅地の一角に芝之井。大師が、遠くから水を運んできた老婆の苦労に報いるため、錫杖で地を突き湧水させたという伝説の井戸。今も大師堂の下から水が湧き出ています。

 芝之井

香園寺前の道標

宝寿寺の道標

これより讃岐街道を西に向います。さて予告通り、目についた道標について記しておきましょうか。
小松の街の中心辺り、天保9年の「右こんひら」の金比羅道標。
61番香園寺駐車場入口の北に二つの道標が並びます。(写真)一つは徳右衛門道標「是より一ノ宮迄八丁」、右横の小さな道標「六十二番へんろ」。
香園寺から宝寿寺に向う三島神社交差点東に茂兵衛道標「(手印)六十一番香園寺/(手印)六十二番一の宮寶寿寺、壱百七十九度目 明治三十三年十月」。これは添え句付です。
  「旅う禮し 太だ一寿じ尓 法の道」
その先、藤木橋東にも最初期の茂兵衛道標「四国六十二番一之宮道/八十八度目為供養/明治十九年二月」
62番宝寿寺山門左には、近くから集められたと思われる四つの道標が並んでいます。(写真)左から明治28年のもの、明治14年のもの、年号なし、一番右は徳右衛門道標「これより吉祥寺七丁」。
63番吉祥寺の横に茂兵衛道標「吉祥寺/寶寿寺 壱百九十七度目為供養/明治三十六年」。

「吉祥寺その昔」
寂本の四国遍礼霊場記には江戸期以前の吉祥寺について次のように記されます。
「密教山胎蔵院吉祥寺。当寺むかしは今の地より東南にあたり十五丁許をさりて山中にあり。堂塔輪冕(立ち並び)として梵風を究む。天正十三年(1585)毛利氏当所高尾城を攻めるの時、軍士此寺に濫入し火を放ち、此時本堂一宇のみ相残り、仏具典籍一物をも存せず〇撤(焼失)す。それより今の地に本尊を移し奉る。本尊毘沙門天坐像、大師の御作なり。・・」
また、西條誌稿本の坂元村の項に「氷見村の吉祥寺、昔は当村の上の山にあり、村名の坂元と云ハ山上の寺より呼んだ名号成・・」とあります。
現在は、旧寺の痕跡は何も残りませんが、長谷(ながたに)の集落より尾根を真南に上る道があります。(上り口に妙見社がある)
この道は黒瀬峠の手前で里前神寺(石鎚神社)より上る旧石鎚道に合しており、古くより石鎚参詣登山道として用いられたものと思われます。


 吉祥寺

吉祥寺を出て遍路道が左に曲がる所に安政五年の円柱形の道標があります「左へんろ道」。
やがて道の左側に丹民部神社が見えてきます。地元のお年寄りが声を掛けてこられ、この神社は豊臣秀吉の四国平定の戦いで討死した丹民部守を祀ったもので「足の神様」であるとお教えいただく。
足の遅い私はしっかりとお参りをしなくてはなりません。
石鎚神社の門と本殿が見えてきます。門の所から遥拝して64番前神寺に参ります。
山門の横に昭和8年の道標があり、驚くことに「是ヨリ次ノ六十五番三角寺迄汽車ノ便アリ石鎚山駅ヨリ三島駅行便利」と書いてあるのです。
さてさて、歩き遍路はこの誘惑に勝てるでしょうか・・私ももう少し歩いてから、お言葉に従うことにしましょう。
前神寺は、明治始めの神仏分離により一旦廃寺になった寺で、その後復活して今はまた石鎚山修験道の中心となっています。境内の雰囲気も何処となく他の寺とは異なったものを感じます。

 前神寺


前神寺東入口の道標

寺を出て、通常は使われないであろう東入口に、明治37年7月の茂兵衛道標があります。(写真)
正面は「左 札所 二百二度目為供養」ですが側面には「(手印)奥の院 十一里八丁、三角寺十里/金光山仙龍寺ハ厄徐弘法大師御自作の尊像○て毎夜開帳阿リ四國巡拝の輩には参詣して御縁を結び現当二世之利益を受くべし 中司義教謹識」とあり、茂兵衛の奥の院への拘りが見てとれます。これについては、また明日書くことになるでしょう。
前神寺を出て暫く、西条の街を越えるまで、現在の遍路道は国道11号と南の山側を通る道に分かれます。昔からの遍路道は讃岐街道ですから、国道と重なる部分もあるものの、いずれの道とも異なります。ですから、新しい遍路道を歩いている限り、昔の道標に会うことはありません。
どうしてこういうことになったのでしょう。 でも、山側の道はいい道です。こちらを行きます。
加茂川に近い田園の道を歩いていると、田圃見回りの地元の人から声がかかります。「広島からとはけっこう珍しい・・大阪とか名古屋の人が多くてのー・・」
加茂川を渡る伊曾の橋は、欄干の一部が鉄琴になっているメロディー橋なのですが、予想した通り、備え付けのバチは無くなっていました。
武丈公園の脇を通り、地蔵原に向かう鄙びた雰囲気の道へ。この道はいい・・


地蔵原への遍路道

 地蔵庵

地蔵庵は大師が一夜で刻んだ地蔵尊を置いたと伝わる地蔵原の地に建てられたものです。
室川を渡る橋で遍路道は讃岐街道に合流します。その少し先、西大道六地蔵集会所の前に新しい大師堂、六地蔵、金比羅道標「こんひら大門より十七里」があります。
ここは昔、旅人への接待が行われたと伝えられる場所。

 六地蔵と金毘羅道標

 祖父崎池

 池畔の地蔵と道標

 船木の金毘羅里程道標

そこより東へ1kほど。右手の土手を上るとけっこう広い溜池、祖父崎(そふざき)池。
その池の畔に地蔵と徳右衛門道標「是ヨリ三角寺マデ八里」。
ここも昔、接待が行われた地と聞きます。
新居浜市に入ります。旧道の畑の中、金毘羅里程道標「こんひら大門より十四里」を見ます。隣には古い自然石の常夜灯、小さな石地蔵・・

さてさて、この日の日記はこの辺りで朧に入ります。では・・



奥の院仙龍寺、往還の道   (平成23年5月16日)

昨夜は素泊まりの宿。宿に着いた時、女将と長話に耽っていました。
「旅館の食事は飽きるから、たまには素泊まりがえーでしょうが・・」などと。
何処の宿か?・・それが伊予三島なんですね。昨日歩いたのは新居浜に入った所まで・・ちょっと変ですね。細かいことは抜きにして、とにかく今朝は 伊予三島から出発なのです。
65番三角寺へ行く道には実に多くの道標があります。まーだ道標に拘っています。
街の中心を外れ、八幡神社(中曽根町)の近くから目についたものを追ってみます。
民家のブロック塀に挟まれた状態の茂兵衛道標(大正三年三月、弐百五十三度目)(写真)。
神社参道の北に3基の道標が集められています。中、文化十四年のもの「三角寺三十○丁」、左、「右さんかく寺道、左はし久ら寺道/明治十五年三月」(写真)。
この辺りから左に箸蔵寺への道が分岐していたようですが、市街化によりその先は判り難くなっているようです。
神社の東、2m近い大きな道標、文化五年「左遍んろミち三角寺三十四丁」(写真) 
旧大庄屋今村家跡の周囲に大師像を刻んだ文化十五年と寛政三年の道標(写真)があります。また後者の隣には、地蔵菩薩を上に載せた慶長七年(1602)の墓があります。
松山自動車道を潜った所に2.5mを超える大きな道標「遍ん路道、是ヨリ三角寺三十丁 奥之院八十八丁/安政三年・・/是ヨリ前神寺九里廿丁」(写真)。そのすぐ左に真念道標もあります。
銅山川疎水公園の手前高台に「此方へんろ道 三角寺廿二丁/元治元年・・」。
道は山に入り、数基の道標がありますが、目を惹くのは長文が彫られ、下方が草に埋もれた昭和十年の道標。次のように彫られているようです。
「第六十五番三角寺へ十五丁次奥之院へ七十・・奥之院ハ大師四十二歳厄除修行の霊跡にて谷深くして水きよく・・於護摩の修行併入浴のもうけありて誠にありがたい於寺であります 参拝於通夜をして法縁を結ばれんことを敢て勧む・・」(写真)

 塀に挟まれた道標

 神社参道北の道標

 
神社東の道標


今村家跡の道標(文化15年)


今村家跡の道標(寛政3年)


松山自動車道横の道標


長文が彫られた道標


三角寺への道から川之江の街を望む


三角寺への道、おかげの地蔵が見える

三角寺への道

三角寺への道


三角寺への山道は、雑木林の中で所々に日の光が落ちて輝く、いい道です。「おかげの地蔵」と呼ばれる大師所縁の小さな地蔵堂やいくつかの地蔵丁石にも出会えます。
また、江戸時代の年号を刻んだ多くの遍路墓があります。横峰寺をどうにか越えてきた遍路もここで力尽きたのか・・そんな思いを抱かせます。
三角寺にお参りして、本堂の奥から奥の院仙龍寺に向います。

                                          (5月16日 その4につづく) 

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四国遍路の旅記録  三巡目 第7回 その2

横峰寺から・・懐かしき山裾の道を行く  (平成23年5月14日)

丹原の宿から60番札所横峰寺に参り、星が森を経てモエ坂を下り、虎杖(いたずり)、河口(こうぐち)へ。ここより極楽寺に参り、黒瀬湖畔の宿まで。
これが今日の予定ルートです。

石鈇山山頂への道は元々遍路道ではありませんが、遍路道を経て石鈇山道を辿ろうとすれば、(それは横峯寺あるいは奥前神寺を通る道となるのですが・・)道は長く複雑となります。
横峰寺への現在のへんろ道は大きく分けて三つあるようです。(黒瀬湖畔からの車道は除いていますが・・)
一つ目は、大頭(おおと)、湯浪(ゆうなみ)を経由する道。二つ目は、伊予小松駅直南の岡村から「おこや」(昭和20年代、ここに茶店があったということですが、今は休憩ベンチのみ・・)を経る道。三つ目は61番香園寺から白滝奥の院、おこやを経る道です。二つ目、三つ目の道はおこやからは合流します。
私はこれまで2回二つ目の道を上ったことから、今度は一つ目の道を通ってみたいと思っています。

江戸期の遍路はどの道を通っていたのでしょう。例によって、澄禅、真念それに「四国遍礼名所図会」に登場願いましょう。
まず真念「四国遍路道指南」。
「・・〇しんでん村〇大戸村(大頭)、此所に荷物おきてよこミねまで二里。ゆなミ村(湯浪)、地蔵堂有。〇ふるほう村(古坊)、地蔵堂。大戸より山路、谷合。」 帰り道は「・・是よりかうおんじまで三里、右の大戸村へもどる。・・」
次に「四国遍礼名所図会」。「大頭町半より右へ入る、石燈炉是より横峰寺迄山坂也、明雲寺石燈炉より少し入あり、不自由仁峰へ登らゝざる人ハ爰にて札を納む、然共大方登る、おうごう村茶屋あり、是より五十丁、滝おうごうより少し行あり景よく二また滝也、蛤石登り口にあり、左手に在、形ははまぐりのごとし、深方村(ふるほう村のことか?)。是より甚だ山坂けわしく、拾七丁程上り一ノ皇子社石鈇山三拾六の王子の内也、左手にあり、銅の鳥居是より本堂迄三丁ばかり。(一ノ王子社は古坊にあったと思われる。)」
「道指南」および「名所図会」に紹介されるのは、大頭村、湯浪村、古坊村を経る道であり、いわば横峰へのメインルートと言えるものと思われます。
ところで、澄禅「四国遍路日記」には次ように記されます。
「(香薗寺)ヨリ元ノ道ニ返テ小松ト云所ヲ経テ横峰ニ掛ル。・・小松ヨリ坂ニカゝリ一里大坂ヲ上ル。夫ヨリ小坂ヲ上下スル事三ツ、又大坂ヲ上リテ少平地ナル所ニ二王門在り。爰ニ仏光山ト云額在、銅ニテ文字ヲ入タリ。・・未申ノ方ノ峰ニ上ル事五町、爰ニ鉄ノ鳥居在リ、・・」
この道は現在の二つ目の道と同様、採石場、おこやを経るルートと思っておりましたが、違っていたようです。
澄禅の詳細な記述に従い・・この大坂、小坂の地形に附合する道筋を探せば、小松(新屋敷)より岡村を経て綱付山(標高519m)に上り「おこや」、古坊、横峯寺に達する道に該当すると私は確信します。(遍路道地図「大頭」「小松」参照)(岡村の地蔵のすぐ先に分岐を示す文政4年の道標がある)この道は現在は横峰への参道として採用されていませんが、江戸期には屡々使用されたようです。(文久2年(1862)半井梧菴が綱付山を経て横峰に上った記録が残されている。)「古道は尾根道に従う・・」の原則にも合致します。
以上、江戸期、横峰寺へ至る主道と副道が確定します。また、横峰寺は、毎年7月の石鎚山、夏季大祭の登山道の経由地としても位置づけられていました。中国地方などから船で参詣する者は氷見(ひみ)新兵衛埠頭(西条市)から小松、岡村、綱付山、おこや、横峰寺、黒川、成就、石鎚山と辿り、松山付近からの者は讃岐街道を経て、大頭、湯浪、横峰寺、黒川、成就、石鎚山のルートを辿ったとも言われています。
なお、現在は遍路道となっている、採石場からおこやへ登る道と香圓寺奥之院白滝からおこやに至る道の間に尾根を通る古道があります。この道の傍には南北朝時代河野一族の岡氏が築いたとされる幻城(上城と下城の二つの山城)があったと伝えます。まっすぐ北上すれば香園寺に至りますから、現在でもおこやの先でこの道に入る遍路もいるようです。

さて、講釈はこのくらいにして、大頭からのルートを上ります。

県道147号を行き、国道11号と交差して間もなく石土神社と妙雲寺があります。昔より、横峰寺、石鎚山登山行者の礼拝所と定められた所。

そこから約2k、大郷の馬返(うまがえし)という所に左に分岐する道があり、小堂と新しい修行大師像があります。ここから湯浪の付近まで左側の山の斜面を行く道が旧道と思われます。地名の通り、ここで馬を返えし徒歩あるいは歩荷によったのでしょう。

 旧道の分岐

さーて、確実に通れるかどうか分かりませんが、斜面を見ると道らしき形跡が認められます。地元の人の話では、旧道は昭和20年代末ごろまで生活道路として使われていたらしく、今も舟形地蔵丁石が残されているようです。旧道は湯浪の手前で県道に合流しています。
ちょっと付記しておきましょうか。湯浪の手前、道が大きく左にカーブする所に、洒落た喫茶店があります。正に山の中の一軒屋。最新情報では月~水曜日は休みだそうです。

湯浪には、尾崎八幡神社があります。舗装道は更に1.4kほど続き、大きく右にカーブして、休憩所と水場があります。ここから山道の始まりです。
山道に入る階段の途中に二十丁の地蔵丁石があります。以降、一丁ごとに地蔵丁石と従峯○丁と刻まれた道標があります。
十丁道標の前には、「享保十六年(1731)・・千足山村・・市左門」と台石に彫られた大師像があります。五丁の丁石辺りは、かつて古坊(ふるぼう)という集落があった所で、石垣の跡が見られます。少し平らな所にお堂があり周りに六地蔵や石仏があります。
この辺りからやや上った所にかけて多くの遍路墓が見られます。
一丁の地蔵丁石を見ると、ようやく山門が見えてくるのです。

 二十二丁地蔵丁石


十六丁地蔵丁石

 享保十六年と彫られた大師像

古坊のお堂

この道、体調が良くないということもあったでしょうが、私には小松から上る道より山道の距離は短いものの厳しいものに思われました。上り始めの十八丁辺りで先を譲った身軽な地元のご夫婦が、三丁辺りでもう寺から下りてくるのに出合う始末。歩いているより休憩している時間が圧倒的に長かった感じです。
昨夜同宿であった神奈川の男性、宿を30分以上遅く出たにもかかわらず、寺到着は2、3分の差。
寺の名物、石楠花は満開を少し過ぎた感じでした。
お参りし、600m西、星が森に行きます。鉄の鳥居があり石積みの小堂の中に大師像が祀られています。鳥居の向こう、今日は石鎚山の全容が拝せます。
傍の新しい石碑には次のようにあります。「白雉二年役之小角この地より石鎚山を遥拝し蔵王権現を感得せらる。弘法大師四国巡鍚の砌り四十二歳除厄のため星祭を修し給う。因ってこの地を星森となづく 寛保二年建立の鉄の鳥居があるのでかねの鳥居ともいう。」 


星ガ森、石鎚山遥拝

ここより虎杖まで3kのモエ坂を下ります。
この道、3年前の秋にも通っています。懐かしく思いだします。
下り始めてすぐにある薬師堂(薬師如来、不動明王、弘法大師を祀る)。岡山、愛知など広く支援者がいる由緒あるお堂のようです。堂内は清楚に片付けられ、十数枚の遍路札も見られました。

 薬師堂


六地蔵と部落跡の碑

薬師堂の横には六地蔵と僧の墓、「元千足山村字郷部落跡」の石柱。
この千足山村というのは、かつて石鎚山の北面にあった山村で、石鎚頂上社、成就社、横峰寺なども村域に含んでいたそうです。ここも、横峰寺の手前の古坊部落も同様、かつては何人あるいは何十人の人が生活していたのです。それもそんなに古いことではなく、昭和40年代のこと・・
日本という国の変わり様、3年前に抱いた思いを新たにしました。
お地蔵さんは新しい赤い前掛けをして、今日は樹間の光の中におられました。
そういえば、樹の伐採や枝打ちが行われているようで、道の周囲は以前よりずっと明るくなったように感じます。道の所々に流したコンクリートの上の苔・・大抵の人が一度は滑って転倒した・・も無くなっています。逆に草の繁茂が道を覆ってしまいそうな場所もありますが、全体としては整備された道で通行困難な場所は殆どありません。
水の音がづっと聞こえていました。下ればシャガの花や豊かな水の流れに会えます。

 モエ坂の道

 シャガの花

道傍の水の流れ

道傍の水の流れ

地蔵菩薩

虎杖の県道142号に出た所に「右横峰寺・・」の石柱。星ガ森からここまで3k、私の遅足で1時間15分でした。
廃屋風の民家数軒。目の前の黒川道入口には「通行できません」の標示。

 モエ坂の出口(虎杖

0.8k行った河口には、旅館が二軒。「団体の宿泊者は相談に応じます」の看板。
ひと気は無いけれど道に繋がれた犬一匹。
極楽寺に向う県道12号。道の左側に流れる加茂川の流れの美しいこと。
軽トラが停まってみかんのお接待をいただく。

加茂川の流れ

 極楽寺

極楽寺

4kほどで極楽寺の下に。寺本堂へは長い急な石段を上る、300段以上だったような・・数えきれません。
極楽寺からは県道ではなく、山腹の道を行きます。
5年前に行って、どうしても再訪したい場所があるのです。大保木(おおふき)小学校跡です。
ありました・・校舎と校庭と桜の木。
校舎の一部は無くなっていましたし、5年前は3月末、桜(ソメイヨシノ)はまだ蕾、今は葉桜ももう濃い若葉・・
でも、私の心の中の5年前のままの姿で。
大保木小学校は昭和60年に廃校となり、今は校舎の一部が地区の集会場として残されているのです。校舎の壁のらくがき板はいっぱいですが、人影はありません。
5年前の日記と写真、ここに再掲させていただきます。

 5年前の校舎と桜の木

向いから おばちゃんが歩いてくる。
「あらー、お四国さん・・どこゆくのー」 「極楽寺さんまで・・」
「このへん歩いてるへんろさん、めったいないよー・・」
「この桜の木、立派ですね、もうすぐ咲くのかなー」
「ようこのさくら見にくるんですー、わしらの学校でしたけー・・」
「あの頃は、小さいこーもぎょうさんおって、よかったですよー。いまーおらしません。
こどもも、わかいもんも・・このさくら そめいよしのですー、これだけですーむかしと変わらんのはなー・・」
おばちゃんは、桜の幹を撫で、枝を見上げている。
「お元気でねー」「おせったいなーんにもでけしませんけど、おへんろさんもお元気でねー、
きーつけておまいりくださいなー・・」
おばちゃんのそんな声を背に歩き始めた。

大保木小学校跡


大保木小学校跡(石碑と校門)

大保木小学校跡

横峰寺への有料車道にも繋がるこの道は、石鎚三十六王子の道でもあるのです。全く人に出会わぬこの道の傍にあるのは第二桧王子社です。
鳶寄の集落の先を右折、横峰寺へ参る自家用車やマイクロバスがひっきりなしの小峠を越えて、黒瀬湖の見える宿に行きました。


「奥前神寺と石鈇山山頂への道」
四国遍礼霊場記の里前神寺の項には常住の奥前神寺と石鈇山山頂への道について次のように記されています。(意訳)
「石鈇山には滅多に参詣できないので里前神寺から拝むことになっている。(里前神寺は納経所の役割) 奥前神寺を金色院と号す。本堂・護摩堂などが軒を連ね、神社本社・釣殿・拝殿・伴社など多く整っている。
石鈇山は役行者が霊験を感じ籠った所で、蔵王権現が示現した霊地である。中でもこの地は役行者が最初に苦行した場所と伝えられている。
山頂に上るのは六月一日から三日間とされる。春と冬は雪が積もり氷が柱となって道は通れない。最初の二里は夜中に松明を灯し、真言、阿弥陀の名号を唱えながら上る。その後は精神を集中させ無言で刺々しい岩を踏みしめて登る。道が途切れ、鎖を伝って上る所がある。 一の坂、表白坂、禅師が峯、大窪の森、せりわりが嶽、横に鎖を掛ける所もある、第一鎖は八十六尋、第二が三十三尋、第三が三十六尋(一尋は1.8m) これから先は都卒の内院と呼ばれ、どのような場所かを人に語ってはならない。登坂することを禅定という。・・山頂に不老池がある。(常住から山頂に至る道程や鎖の位置については、時により細かな変化があったようである。鎖長については測定方法による差異もあろう。西條誌稿本ではこの辺り「早鷹、大久保を経て夜明しに至る」と記し、鎖についても第一の鎖十七尋、中の鎖二十五尋、大の鎖七十五尋としている。大まかに言えば、表白坂が今の八丁坂、禅師が峰が29番前社が森王子辺り、大くぼの森が34番夜明し峠王子辺りと思われる。鎖については昭和後期の計測として一の鎖30m前後、二の鎖50m前後、三の鎖65m前後の記録がある。)「本社から東南に九層の石塔がある。自然の造形と思われる。高さ二十余丈、四方の側面は各六七歩、中には大日如来を祀る。空海が護摩を修した所という。」(御塔又は天柱石と呼ぶ、25番御塔石王子)そこから三町ばかりに岩屋がある。仙人が開いたものという。薬師如来を安置している。」(26番薬師王子)

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四国遍路の旅記録  三巡目 第7回 その1

思い直して・・今治からまた歩き始めます

今年3月の、三巡目第6回の区切り打ちは、その途中で東日本大震災が発生するという悲しみ。歩く気力を無くし4日間で中断してしまいました。
このところ体力、気力とも充実しているとは言い難いのですが、一方には、いつまで歩けるだろうかという懸念も常にあって、心を奮って第6回の区切りで予定していた讃岐の国、観音寺までのプランを実行することにしました。
波はあるものの体調が良くない日が多く、特に宿の方には心配をお掛けしたように思います。
思うところがあって、宿のこと、お会いした遍路仲間のことはできるだけ書かないことにしておりますけれど・・
それから・・今回の日記では、道標のことに相当拘りました。拘り過ぎです。笑ってやってください。
でもね・・この古い道標というもの。その字体、表現方法は人の顔のように一つひとつ異なっているし、中には句が入ったものや、もっと長文が彫り付けられたものまであるのです。道標が建てられたその時代、現代よりずっと表情豊かな世であった・・という気がしてくるのです。

それと、ちょっと大袈裟なことを言ってしまえば、この道標(丁石を含む)というもの、歩くための具体的な道しるべであるとともに、遍路の本当の目的、一義には仏道・・私には、札所で唱える心経の「空」の認識に近づこうとすることに思えるのですが・・への「なぞらえ」であるという気がします。それは、茂兵衛道標の添句に多出する「道おしえ」、「法(のり)の道」の言葉を見たためかもしれません。

せめてもと、お寺では大震災で亡くなられた方のご冥福と復興の早からんことを祈らせていただきました。
梅雨前の数日、天気に恵まれ1日も雨の日はありませんでした。それでいて、それほど暑くはなく・・幸せな日々でした。
では、今治の59番国分寺からスタートです。
                                         (平成23年5月13日~19日)
 

地蔵峠への道


緑の衣を纏う興隆寺境内  (平成23年5月13日)

59番札所国分寺の先の道を歩き始めます。
高速自動車道の側道を通ります。道は緩やかな上り、じっとりと汗が浮かぶ、そんな季節になりました。
栴檀寺(世田薬師)に着きます。寺の横から裏の山に登る道があり、中腹に奥の院もあるようです。初巡目の時、上る気になり途中まで行って、下りてくる人の「きついよー・・」の言葉で挫けたことを思いだします。今日は始めから上る気はありません。
 ここから少し下って三芳に入り、臼井御来迎、そして大きな楠の木の下、日切大師にお参りします。
 

 日切大師 

 大明神川の橋の袂の道標 

天井川で有名な大明神川を渡った橋の袂に二つの道標が並んでいます。一つは「こんひら大門へ二十一里」の金毘羅道標、もう一つは、明治40年の遍路道標です。
桜井から三芳までは、嘗て今治から西条までの主要道であった西条道を辿ってきました。西条道はこんぴらへの道でもありますから、金毘羅道標があるのです。
ここは西条道と遍路道が分岐する場所。遍路道標には「四国六十番前札所清楽寺へ五十余丁、六十一番香園寺へ四丁、六十二番一ノ宮へ八丁/新町、西山、久妙寺、大峰寺の方位」等が示されています。
私は西山興隆寺に向います。前記の道標のすぐ先、生木地蔵への道と香園寺への道の分岐、3kほど行った生木地蔵道と興隆寺への道の分岐には、それぞれ茂兵衛道標があります。
後者の道標には興隆寺への道は示されていません。当時は今の県道150号は無く、少し先の道を右折していたようです。

丹原の道 

 六角堂

丹原の田園は黄金の麦の波でした。そんな中を歩くと心も晴れわたってくるようです。
別格10番札所、興隆寺(ああ、地元ではもっぱら「西山さん」でしたね)は、標高275mにあって道は緩やかな坂なのですが、体調次第では結構応えます。
寺域に入って最初に現れるのが、墓地の中の六角堂。明和3年(1766)の建立で六地蔵を祀る、なかなか重厚で立派なお堂です。
過ぎると左手に古い石段、「弘法大師の杖と足の跡」という立札と大石。やがて赤い御由流宜(みゆるぎ)橋を渡り境内へ。橋の袂に青年空海の歌とて「み仏の法の水 ながれも清く見ゆるぎの橋」と書かれています。
目に入る、立派な仁王門、仁王は鎌倉時代の作とか・・、杉に囲まれた長い石段、牛石、石仏。
私は3度目のお参りですが、この寺の静寂とこの幽玄な空気は他の札所とは格別のものと思われます。新たな発見も・・これは余談で。
この季節、もみじの若葉が一際見事です。三重塔も観音さんもみな緑の衣を纏った様でした。

興隆寺仁王門

興隆寺境内

緑の中の観音菩薩

本堂への石段

本堂

緑を纏った三重塔

緑を纏った三重塔

緑を纏った三重塔

さて、余談です。
以前この日記で宮本常一の「土佐源氏」の故郷、高知県梼原の竜王神社に彫刻を残した長州大工のことに触れたことがありました。長州大工とは、宮本のそして奇しくも中務茂兵衛の出身地でもある周防大島から伊予や土佐の村々に出稼ぎして、多くの寺社建築や彫刻を残した大工たちのことなのです。その活動は江戸末期(寛政期)から大正時代までであったと言われます。
大正時代に活動した、その代表的な人が門井友祐で愛媛県内に16件の寺社建築を残しています。(55番札所南光坊の大師堂の彫刻も門井が手掛けたものと言われます。)
この興隆寺の仁王門の彫刻は大正7年門井友祐が残したものです。
躍動する龍や獅子の姿が見事です。ひと時見入ります。

仁王門

仁王門の龍

仁王門の獅子

寺を下る道、目の前いっぱいに丹原の町が田園が見渡せます。やはり、一面麦の黄金です。

丹原遠望


黄金の麦畑

久妙寺、それに別格11番札所生木大師に参ります。
生木大師の裏の福岡八幡宮のこんもりとした小山を左手に見て南東に歩きます。
この道で見て、確認しておきたいことがあるのです。
300mほど行くと、右手畑の中の四つ角に舟形地蔵が立っています。この地蔵には、次のような由緒が伝わっているそうです。
江戸時代の文化年間(1810頃)、一人の女遍路がこの辺りの稲穂を国に持ち帰ろうとして見つかり、ある百姓に打ち据えられて亡くなった。その後、その百姓の家運が衰え、祈祷により女遍路の祟りであることがわかり、供養のため地蔵を建てた・・と。
この日も新しい花が供えられていました。合掌して哀れな女遍路を思います。

女遍路供養の地蔵

「沙界霊」の地蔵

野中の大師

また、南東に200mほど、左手に「沙界霊」と刻まれた台石上に、首を接いだ地蔵があります。
更に200m足らず、左手に大師像、地蔵菩薩、両側に回国六十六部供養塔の四基が並んでいます。ここは「野中の大師」と呼ばれ、その昔茶堂、接待所が置かれた場所と言われます。

今も昔と殆ど変らぬであろう畑の中の一本の遍路道。様々な遍路の思いが沁み込んだ道であることをしみじみ感じさせられるのです。
中山川の畔をぐるっと回って、丹原の街中にある今日の宿に向います。




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