四国遍路の旅記録  平成24年春  その2

大龍寺の龍の窟を想う

今日は20番鶴林寺、21番大龍寺、21番平等寺にお参りし平等寺門前の宿に泊ります。

鶴林寺へ・・(当然、私ではない)

鶴林寺山門 「洗心門}

鶴林寺下り道の照蓮標石

水井橋

青い那賀川

大龍寺山門

大龍寺

昨夜からの同宿の遍路は3人。皆、1番からの初遍路。普段から山歩きをする人だったり、事前のトレーニングを積んだ人だったり。
焼山寺の坂も悠々越えてきて、これからの行程に期待と自信を持っているようでした。私の場合とは随分違う・・
鶴林寺への上り。息があがって休む私を、コンスタントなペースで追い越して行く人もいました。
「お先に・・」    
・・・・無駄口は、これくらいにして「まえがき」でも予告したように、4度目のお参りですので、お寺や以前に歩いた道の記述は、特に・・がなければ省略させていただきます。そして、これ
もお約束に従って拘りの道標について、蛇足をメモしておきましょう。
鶴林寺の登山道、水呑大師の先に茂兵衛219度目、明治40年の道標、「鶴林寺/大龍寺へ一里/立江寺二里半」の他「当山厄除け弘法大師毎夜開帳」の刻字。ちょっと仙龍寺への道標を想い出させますね。鶴林寺山門前に、茂兵衛179度目、明治33年「奥の院二里半」の道標。また本堂横にも茂兵衛179度目、明治33年があります。
鶴林寺を下る道、八幡神社を過ぎた所に、茂兵衛最初期の自然石の道標(88度目、明治19年)。これは貴重なものでしょう。
水井橋の手前、茂兵衛100度目、明治21年。これは添句付。「暮可希亭壱里モか礼ずあきの山 陶庵」(くれかけて いちりもかれず あきのやま)(もちろん現物は汚れていて判読困難です)
さて、鶴林寺を上り下って那賀川に至る・・ここで道標についての紹介はひとまづ置いて、川について、渡しについての話に飛んでゆきます。
(追記)那賀川を渡る、渡しについて 橋について
鶴林寺から大龍寺へ行く深い谷、真っ青な那賀川を越える水井橋を渡ります。霊山寺を発った遍路が最初に越える大河吉野川、そして次に渡る那賀川、夫々に違った印象で心を打つ川の情景です。江戸時代の初め那賀川には橋も渡しも無かった・・澄禅の「四国遍路日記」は次のように記す。

「・・晴天ニ成タレバ寺ヲ出、直ニ坂ヲ下テ川原ニ出。此川ハ大河ナレドモ舟モ無く渡守モナシ。上下スル舟人ニ向テ手ヲ合、ヒザヲ屈シテ二時斗敬礼シテ舟ヲ渡シテ得サシタリ。・・」
その三十年後、真念の「四国遍路道指南」には「なか川 わたし」とある。遍路の一般大衆への普及に伴い、渡しもまた広まったことが伺えるのです。ここでお約束をおおいに違えて四国遍路道全体の「道指南」に記された時代の「橋」「渡し」の状況を見てみましょう。(太字)には昭和前期の地図に記されたそれらの状況の変化を併せて見ることとします。
・10番切幡寺~11番藤井寺 よし野川舟渡し(渡し、後に橋) 渡しについて「吉野川の高地蔵を巡る その4」に少々記す。
・17番井土寺~18番恩山寺 つめた川 橋(園瀬川系冷田川 ) ほつけ川 橋(園瀬川 ) かつら川渡しは無記(勝浦川 渡し

・20番鶴林寺~21番大龍寺 なか川 舟わたし(那賀川 渡し
・23番薬王寺~24番東寺 カイフ川 サイモンジ渡しは不記(真念当時は渡しはなかった?)
・26番西寺~27番神峰寺 奈半利川舟わたし ()  
・28番大日寺~29番国分寺 物部川、大水の時ハ舟渡し (渡し
・30番一之宮~高知城下、31番五台山 ひしま橋、山田橋、さえんば橋 (
・31番五台山~32番禅師峰寺 江川舟わたし () 
・32番禅師峰寺~33番高福寺 浦戸渡し (渡し
・33番高福寺~34番種間寺 新川川、大水のときハ河上ニ舟渡し (
・34番種間寺~35番清瀧寺 仁淀川舟わたし (渡し) 
・35番清瀧寺~36番青龍寺 入海渡し(渡し
・36番青龍寺~37番五社 よこなみ三里舟にてもよし、山越、うしろ川引舟 (東又川、
・37番五社~38番佐陀山 五社への渡し(渡し) 下田道舟わたし(渡し) 大川舟わたし(渡川、渡し)、さね崎村天満、引舟あり、下ノかやうら舟渡しあり
・43番明石寺~44番菅生山 大川 舟わたし(肱川 
・53番円明寺~54番延命寺 ほうでう村、町中に橋有(立岩川 
以下伊予、讃岐には渡し、橋の記述はない。
以上、徳島、高知の市街地を除き橋は無かったこと、大河の渡しは江戸時代前期(真念の時代)の状態の多くが昭和前期に至るまで維持されていたことが分かります。
日本の国は明治維新の後も、太平洋戦争に至るまでそれほど大きな変化が無かったことに、むしろ驚きを感じます。あの変化の年代・・昭和40年代こそが日本の国の身も心も変えてしまったのかもしれません。
                                   (令和5年4月追記)

大龍寺から平等寺へ・・ここからまた道標の紹介に戻ります。
阿瀬比町大根峠への道の分岐に、茂兵衛169度目、明治32年。
茂兵衛道標以外では、平等寺門前に「これより薬王寺迠五里」の徳右衛門標石。鶴林寺、大龍寺にも徳右衛門標石があります。鶴林寺境内「これより/太龍寺迄、壱里半」、大龍寺参道階段傍「是より 平等寺へ 二里/靏林寺 一里半」。
大根峠登り口三差路の真念石「右遍ん路み○/(梵)為父母六親?」、木に縛りつけてあります。
それから、徳島県で忘れてはならない道標に照蓮のものがあります。このルートでは、鶴林寺を下る道の途中「是ヨリ大龍寺へ四十丁」を見ました。武田徳右衛門の標石設置が一応の終りを告げる文化4年(1807)に続き文化6年から建てられ始めるのが、この照蓮とそのグループの標石。「四国中千躰大師(しこくじゅうせんたいだいし)」「真念再建」の文字が見え、真念の志を受け継ぎ四国中に千躰の大師像建立を目指したと言われます。全部で72基が確認されており、その内62基が阿波の国なのです。石質あるいは設置場所の所為なのか、保存状態にばらつきが多いのも特徴でしょうか。鶴林寺下の照蓮標石は美しいものです。
大根峠を下り平等寺までの古い道標についてもここに記しておきましょう。
遍路道沿いに多くの古色の石造物が集められており、この地の人々の信仰心の深さを感じさせます。岡花に文化13年「平等寺十五丁」、西光寺(地名)に文化4年「是より平等寺ヘ十町」、その先に天保2年「平等寺江六丁」など。

鶴林寺への上り道の道標で重要なものを書き忘れていました。11丁から1丁の丁石です。これは南北朝時代の貞治年間(1362~7)から明徳年間(1390~4)の標石を再利用したもの。尖頭の頂部に二本線を刻します。(11丁石の手前にこれらの丁石とは形式が異なりますが、「鶴林寺道十三丁」と刻す道標があります。この隣は上記219度目の茂兵衛標石。)丁石の写真も追加しておきましょう。

 11丁石

 10丁石

 8丁石


大根峠上り口の真念石

大根峠

大根峠、竹林の道

平等寺

平等寺

大龍寺を下る道について、追記しておきましょうか。
本堂から少し南に行った所に、南の舎心といって大きな大師像が谷を向いて座っておられる所があります。(舎心とは「心を休める」という意味で、本来は捨身「捨身の行をする」であったと五来重博士は書いていますが・・) その少し先を東に下る道が旧道で、その途中に昭和30年頃まで岩窟があったそうです。
寺の縁起にも龍の窟と不動の窟という二つの岩窟があったと書かれているそう・・
澄禅は「四国遍路日記」の中で、その様子を極めて詳細に書き留めています。
その一部 「・・身捨山ト云所在。・・其ヨリ三十町斗下リ岩屋在リ。・・六七間入テ少ノビ上リて見バ、清水流テ広々タル所也。蝙蝠幾千万ト云数ヲ知ラズ、・・其奥ニ高壱尺二三寸ノ金銅ノ不動像在リ・・」 
その後、この
場所はセメント会社に売却されて窟は潰されてしまったそうです。誠に残念なことではあります。
大龍寺からこの道の途中までは行けると思われます。私も行ってみようと思っていたのですが、遍路2日目の体調は思いの他悪く、少し入った所で諦めました。せめてもと、旧道が下った県道28号側を見てみました。
そこはセメント会社の採石場への入口で進入禁止。路傍の三十三丁地蔵丁石がぽつりと寂しそうでした。大龍寺を下る旧道(いわや道)の採石場の上に三十丁の地蔵が残っていると聞きます。それからするとこの三十三丁石はもっと上にあったものを移してきたものと思われます。

(追記)龍の窟の位置
昭和初期の国土地理院地図(明治40年測図、昭和9年修正測図)この窟が「龍ノ窟」として大龍寺からの道(平等寺道、いわや道)とともに表記されています。意外に山を下った場所にあったのだ・・という感じ。



大龍寺旧道の丁石地蔵

                                             (平成24年4月13日)

(追記)江戸前期の大龍寺について
この日の日記中のすぐ前にも書きましたように、寺や道に関する記述はできるだけ省略する積り・・なれど日が経つと気が変わります。書いておきたいことがいろいろと・・よって追記ということに。
「四国偏礼霊場記」(元禄2年(1689))の大龍寺図を見ます。仁王門(「鶴道」と記入の傍)、鐘楼、本堂、大師堂、経蔵、弁財天、毘沙門堂、鎮守(五社明神)、天照大神、宝塔など、それに無記ながら三重塔が描かれています。
伽藍以外では、北ノ舎心、南ノ舎心、瀧(その位置からすると、細田周英「四国偏礼絵図」に示される「ソトバガタキ」と思われます。)、岩屋(龍の窟)が記されます。
約100年後の「四国遍礼名所図会」(寛政12年(1800))では求聞持堂が加わり、霊場記とほぼ同様の伽藍構成。ただ三重塔は「大塔」と表記されているようです。
大龍寺の三重塔は貞享元年(1684)建立の記録(棟札)があり、霊場記の絵図は建てられた直後(あるいは建設中)のものということになります。この塔は昭和34年、伊予三島の興願寺に移築、現存します。
現在の大龍寺に江戸前中期以来の伽藍は存在しないようです。古いもので文化3年(1806)再建の仁王門、嘉永5年(1852)再建の本堂、安政3年(1856)建立の六角経蔵、文久元年(1861)建立の多宝塔、以外の伽藍は明治以降の再建、建立。


四国偏礼霊場記 大龍寺

さて太龍寺まで来たところ・・ガラット気分転換、随分と真面目な遍路話を入れておきましょう。お許しのほどを・・

(追記)空海の修行地
四国八十八ケ所霊場の源となったと言われる四国における古密教の修行地(空海の修行地、空海以外の僧の修行地・・)についてはこの日記の諸所に雑記してきた積りですが、重複を覚悟の上で、ここに更に書き足しておきたいと思います。
まずは空海の修行地。延暦16(797)年、空海24歳の著書「三教指帰」には次のように記されています。
「阿国大滝嶽に躋り攀じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す・・」 また「或るときは金巖に登って炊凛たり、或るときは石峯に跨って粮を絶って轗軻たり・・」
即ち、空海の修行地は、①阿波大滝嶽(今の大瀧寺近く)、②土佐室戸岬(最御崎寺近く)、③金巌(かねのだけ)(吉野の金峰山、または伊予の金山出石寺の説がある。)、④伊予の石峰(石鎚)だというのです。
五来重は、初期の辺路の道、即ち空海の修行の道として、讃岐から大窪寺、藤井寺、焼山寺、ここより高鉾山の旭ケ丸を越え慈眼寺、鶴林寺、大龍寺、薬王寺、室戸埼・・(勿論多くは寺ではなく修行のための洞窟、滝、海原などを辿る道)と想定しています。
三教指帰に記された以外の空海の修行の道の拠点として考えられる処は、最初に平成になり発見されたまんのう町の中寺廃寺。ここは阿讃国境の大川山の北西山麓、標高600~700mに平安時代に栄えた山岳寺院。時も修行時代と重なり空海の修行地のひとつと見做せると言われます。次に挙げられるのは大窪寺。古様の本尊薬師如来、古い形式の鉄錫杖、奥院のせりわり禅定の存在などから相当規模の山岳寺院であったと想像される処。さらに、屋島寺、弥谷寺、八栗寺などもその可能性を秘めている寺も多いとされます。
さて、空海が修行地として選ばなかった場所であっても、空海以後多くの修行者が修行に適した場所(それは、洞窟や滝がある場所、海原に面した場所など行場と呼ばれる処・・四国には多く存在します。)で信仰に基ずいた修行が行われたと言われます。これらの場所の多くについても、日々の日記に加えて記してきた積りですが、若干を加えておきましょうか。
まず、補陀落信仰に基ずいた海岸の地。室戸崎、足摺の金剛福寺、志度寺などです。讃岐の七観音と呼ばれる平安時代に遡る古い観音像を本尊とする寺々もまたこの範疇に入りましょうか・・ また、修験道の山伏が四国の辺地を巡ることは修行の一つと捉えられていたことは明らかですが、これは後の大師信仰とは一線を画すものと見られているようです。加えれば、熊野神社を鎮守とする四国遍路の寺は数多い。神仏習合という日本仏教の特殊性故の弘法大師信仰との融合が図られている複雑さを感ずるのですが・・
これらの処こそ後に四国遍路の寺に繋がっていったと考えられているようです。
                   (参考文献 :五来重「四国遍路の寺」  武田和昭「四国へんろの歴史」)



山間の道、旧土佐街道を探る

平等寺門前から23番薬王寺まで行きます。
随分短い行程としましたが、旧土佐街道の山間の道を探りたいと思っているからです。
この辺りになると茂兵衛道標もぐっと少なくなります。忘れないようこの辺に書き留めておきましょう。平等寺の南の橋を渡ったところに 159度目、明治31年「二十三番薬王寺へ五里」。
平等寺から月夜辺りまでの古い道標についても追記しておきましょう。
平等寺の手前、石造物が集められた場所があります。淡路島の人の道標「遍路道/是へもどり川渡/左リびやうどうじ/享保13年(1728)」 左平等寺へ参り戻って川を渡って月夜に向う位置にあった道標と思えます。平等寺先広重に地蔵とともに二つの道標が並びます。「左 遍ん路道 延享3年(1746)」、「左 日和佐薬王寺 四リ 廣重女講(中)/平等寺江二十五丁/天保3年(1832)」

月夜御水庵に参ります。
真念は「・・月夜村、此名子細あり、たづねらるべし、・・」と興味を惹く書きぶり。
伝説では「水の無いこの地に立ち寄った大師が、衆生の不便を思い杖で加持すると清水が溢れ、水底に光明を放つ石を見つける。この石で本尊を造り祈願すると、闇夜に光明が現れ月夜となった・・」と伝わるとか。
そう聞いて改めて眺めると、お堂も周りの雰囲気もしっとりとして良いものだと感じます。
桜が散っていました。

月夜御水大師

小野の竹林

国道55号を行く。遍路は岩手のaさん

弥谷大師はパスして小野に。
ここに茂兵衛153度目、明治30年。
この道、薬王寺門前の193度目、明治36年「東寺へ二十一里/五里余」添句「鶯や法々希径の乃りの聲(うぐいすや ほうほけきょの のりのこえ)」まで茂兵衛さんには会えません。
さて、小野付近の道。
昨夜同宿の岩手のaさんと歩いています。この人、山歩きをしているようでなかなかの健脚。一時、地元の人も加わって三人歩き。
「この辺も若い人は皆んな出ていっての・・名産のタケノコ掘ったり出荷したりで、中国から若い人が大勢きているのですよ・・」 とけっこう深刻な顔で話をします。

くねくねと曲がる土道の旧国道に入り、星越峠を越えます。
新国道を行くaさんには先行してもらい、鈍足の私は旧国道を行きます。
この辺りは旧国道が旧土佐街道と重なっているようです。大戸の先で、いよいよ、北河内谷川の右岸(北側)にあるはずの旧土佐街道へ。

旧街道の地蔵道標、「へんろ道」と刻す

旧土佐街道の道

旧土佐街道の道、小さな峠

おそらく遍路墓


久望付近、強行渡河地点。樹木の中に旧道

消えかかっている旧街道の入口には大抵大きな農家があります。
家の前の庭の一部のようであったり、畑であったり。そんな場所を「ごめんくださーい」と声をかけて歩き抜けます。殆どの場合、家からの声は帰ってきませんが・・ 
やがて、森の中の道であったことを十分に感じさせる地形(路肩はかなり削れてなだらかになっていますが)に出会えます。
草木の繁茂した道傍に小さな石地蔵を見つけて「間違いなく街道だ・・」と喜んでいました。
藪漕ぎの先、畑のような地形で中年の男性に会いました。
突然の遍路姿に驚いて「いやー ごくろうさんじょ・・」。親切にも、抜け道を案内していただきました。

その先、久望(くも:昔は九毛村)の中心に近く、小さな峠に小さな社そして墓。
「文化14年 尾張城下田仲町村伊兵衛」(文化14年は1817)と私には読めました。きっと遍路墓です。
小峠の先は笹竹の深い河原。ジタバタしましたが、どうしてもその先の道を見つけられません。仕方なく来た道を戻って、旧国道の久望トンネル迂回道へ。迂回道からさらに農道を行き河畔まで。
そこに大きな一軒農家。声をかけると奥様が出てこられる。
「土佐街道の調査?ここで行き止まりじょ・・川の向こうが旧街道じょ。昔は岩に板を渡した橋があったがの・・浅いとこ見つければ渡れんこともないでしょが・・」
川の傍を歩いて浅そうな所を見つけ、靴を脱ぎ靴下だけで強行渡河。崖をあがってどうにか旧街道へ。
一軒農家の奥様は「通れるかも・・」と言っていた一ノ坂峠への道は、峠まであとわずかという所で無くなります。戻り、一ノ坂トンネルを潜ります。左手に水の溜まった不気味な旧トンネルの姿。
トンネルの出口側に自然石の道標。「是より薬王寺五十丁」(弘化3(1846)) 
こちら側からも一ノ坂峠への上り口を探ってみましたが、見付けられませんでした。
ここより薬王寺まで5kです。

一ノ坂トンネル出口の丁石地蔵

薬王寺

                                             (平成24年4月14日)

 旧土佐街道(久望付近)の地図を載せておきます。

(追記) 付録 鶴林寺三重塔

四国の寺に存在する三重塔は少なく、石手寺、西山興隆寺、興願寺(伊予三島)、それに鶴林寺を数えるのみです。
これらの三重塔のうち、私が第一に推したいのはこの鶴林寺の塔。
鶴林寺に参拝しても様々な理由により、三重塔にじっくり対面する機会は意外に少ないものです。私もそうでした。平成27年5月、何度目かのお詣りの際、写真に収めることができました。この鶴林寺の記事に、一緒に撮った本堂や山門の写真も含め、付録として追加させていただきます。

この塔は江戸時代の文政10年(1827)の建立。時代が下るため重文ではなく、徳島県指定文化財。
塔内には掲額の示す五智如来を祀る。高さ23m、銅板葺き、初層、二層の軒は二軒繁垂木、三層は扇垂木。軒先が鋭く反っています。
初層の中備えに一面彫刻が施されています。初層の四隅に軒を支える邪鬼が見えるでしょうか・・
三層には特徴のある高欄なども見えるのですが、何しろ山上の狭い敷地、全体像は撮影できませんし、カメラアングルも限られてしまいます。望遠レンズが無いのも残念。
しかし、私はこの塔のすばらしさを十分に感じとることができたように思いました。青い空に、緑の樹々の上に壮大に展開するその軒の様を見るだけでも、その壮大な世界にふれ心は開かれてゆくようでした。(平成27年5月)



































 

コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
ピンピンシニアさん (枯雑草)
2012-05-20 22:13:54
こんにちは。
江戸時代からの遍路道が消えてしまったのは、
おそらくこの50年の間だと思います。
また、トンネルの上や他にルートが出来た
道は、国土地理院の地図にあっても実際には
通れない所が多いですね。これは、山村の
過疎化とも関係がありそうですね。
 
 
 
地図を作っておられるとか? (manikinscepter)
2013-03-15 04:36:16
遍路道の地図を作っておられるとのことでコメントしました。できましたら「電子国土web」でKML、KMZファイルにして配布してもらえれば有難いと思います。グーグルアースで読み込むことができるので大変便利かと思います。  宜しくお願いします  合掌
 
 
 
manikinscepterさん (枯雑草)
2013-03-15 10:29:10
コメントありがとうございます。
そういうソフトがあることは存じて
おりますが、何しろPC音痴のボケ老人
ですから、使えるかどうか・・
とりあえず内内の試行版として作成して
います。ご理解のほどお願いいたします。
 
 
 
Unknown (たか)
2015-01-21 00:13:11
何時も、何度も拝見して参考にさせて頂いております。
何時もながら枯雑草様の知識と探究心に敬服して出来るなら
師事させて頂きたい位と思っています。
私もお四国を2周させて頂き、今、3周目を歩いておりますが
1周目は自分の好奇心と両親の代参のつもりで只々夢中。
2周目は気持ちに余裕も出来、先人の後を辿りながら、その方々の
思いも心に少し真面目にお大師様の後を追う旅。
今、3週目は自分の心のままに自分が落ち着く場所を訪ねる旅を
心がけて歩いています。
そう言う中、昔の方々はどこを歩いていたんだろう?と言う
興味が湧き、真念四国遍路指南(現代語訳)も柄にもなく
入手し後を辿ろうと地図と睨めっこしながら落とし込んで
いる所ですが、記述が余りにサッパリしていて追いきれない
内容を枯雑草様のHPで補っている次第です。
出来ればご本にされても良いのではないだろうかと思う程で
これからもご指導書として拝見させていただきます。
 
 
 
たかさん (枯雑草)
2015-01-21 16:13:26
こんにちは。
ありがとうございます。
わたしは、遍路は札所を訪ねることだけではない
と思っています。
先人の方が歩かれたみちを辿るのにわたしの
ブログがすこしでも役立てばこんなにうれしい
ことはありません。
10年以上思いつくままに書きなぐってきたもの
ですから、粗密があり、本にするのはちょっと
無理でしょうか・・
 
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