尾道の二つの阿弥陀堂
















     前回、多宝塔を紹介しました尾道の浄土寺。本堂と多宝塔、二つの国宝に挟ま
     れて、ちょっと可哀想な阿弥陀堂。私は、このお堂が好きです。その佇まいに
     心打たれました。本堂や多宝塔に遅れること約20年、1345年の建立という。
     寄棟造りの雄大な屋根、柱上の簡素な木組み、柱間の蔀(しとみ)戸の簡潔さ。
     秘めた力が迸るようでは、ありませんか。
     浄土寺より歩いて5分も経たぬところに、もう一つのお堂があります。
     智月山西郷寺。山門一つ、お堂一つの小さなお寺ですから、お堂は当然、本堂
     ですが、時宗の寺ですから、阿弥陀堂と呼んでも許されるでしょう。1353年の
     建立と伝えられますが、その後数多くの改造が為されていたといいます。それを、
     昭和39年の大修理で創建当時の姿に復元されたそうです。柱上、舟肘木だけ、
     蔀戸の美しさ、浄土寺阿弥陀堂よりさらに徹底した簡素さがまた素晴らしい力を
     感じさせます。時宗の最も古いお堂の様式を今に伝えるという。 そういえば、
     先日見た同じ時宗の石見益田満福寺本堂と共通するところが多いことに気づか
     されます。

     (暑い日、浄土寺から西郷寺を訪ねてみると、浄土寺の賑わいに比べ、ここには、
      誰一人訪ねる人もいないのです。でも、ここには、涼しげな風の通る木陰があり、
      古い石仏があったりするのです。
      仰げば、お堂の屋根の上、抜けるような青空に輝く雲の一塊がありました。)
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尾道、浄土寺多宝塔
















     尾道の街は、狭い瀬戸の水道を前に、山が海に落ち込むわずかな隙間に拡がって
     いる。その街並みの最も東にある大寺、それが、転法輪山大乗院浄土寺(現在は
     真言宗泉湧寺派大本山)である。推古24年(616年)聖徳太子の開創と伝える。
     海岸の道から、山陽本線の下を潜り、急な石段を上ると山門に着く。
     境内、左より本堂、阿弥陀堂、そして多宝塔と並ぶ様に圧倒される。(本堂、多宝塔
     は国宝、阿弥陀堂は重文)そして、一際美しい姿で、迎えていただくのが多宝塔。
     1328年、この地の富豪道蓮、道性夫妻の発願により、本堂とともに建立されたと
     伝える。和様を主に、大仏様、禅宗様を採り入れた様式と言われ、牡丹唐草に蝶、
     法輪などの彫刻のある板蟇股(かえるまた)も見事である。二層軒下の幾重にも
     重なる木組みを見ていると、心が吸い込まれそうだ。
     やがて、真っ青な夏の空に掃いたような雲が現れた。あたかも、塔の軒先から解き
     放された気が雲に導かれて、天に上って行くさまに思われた。

     (多宝塔とは、塔身の下方が方形、上方が円形の二重塔である。上座部仏教の国、
      タイやミヤンマーあたりで見かけそうな気がするが、日本独自の塔形式であるらしい。
      この塔、以前に紹介した大津の石山寺、それに高野山金剛三昧院に在るものととも
      に、日本の最も優れた多宝塔と言われる。
      中国地方の国宝建築物を訪ねて・・、これで5つ目ぐらいでしょうか。まだ、続きます。
      またどんな素晴らしい古の心に触れることができるでしょうか・・。)
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石見益田、満福寺本堂
















     島根県益田にある、清瀧山満福寺は、時宗の寺。
     室町時代、水墨画の絵師で画聖とうたわれた、雪舟。
     実は、この寺には、雪舟が作庭したと言われる庭園があるのです。
     雪舟は、周防の大内氏に仕えたことがあり、また、近傍のここ益田
     は、終焉の地とも伝えられています。
     庭園を見に満福寺の門を潜ったのですが、そこで思いもかけず、
     すばらしい本堂をみることができたのです。
     (・・で、また、お寺です。ブログのタイトルに免じてお許しあれ。)
     建立の年代は、定かではないが、14世紀の前半と推定されるそうだ。
     お堂は、鎌倉時代の寺院建築の典型的な特徴を備えると言われ、
     華麗さに代えて、簡素な力強さがある。後代の補修を思わせる箇所
     もあるが、特に、大らかで美しい屋根の線が見事である。
     人々とともに、念仏を称え全国を遊行し、後に時宗の開宗とされる
     一遍上人の思いには・・、こういった簡潔なお堂こそ相応しい・・と
     思わせられる。

     (受付の婦人は、「全部見て行ってください。写真も構いませんよ」。
      縁に座って、雪舟の庭園を見、本堂の畳の上で、金色の本尊
      阿弥陀佛に手を合わせた。
      外の猛暑にくらべ、薄暗い本堂には、微かな涼しい風が吹いていた。
      日本海に面した、この益田は、雪舟とともにもう一人の所縁の人がいる。
      万葉歌人の柿本人麻呂。柿本神社もある。思いもかけぬ歴史の人の
      名を聞く。)
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萩の街で(2)














     夏の日の炎天のもと、
     萩の街、見て歩きの後半は、町屋を中心に。
     こんな日でも、旧い格子戸の店の中の、
     土間は、少しひんやりとしている。
     蔵の中の千両箱や生活道具を見る。
     洒落た萩焼きを売る店がやたらと多い。
     暑さに堪りかねて、橋本川の遊覧船に乗る。
     川風が涼しい。やはりこれに限る。
     船頭さんに問われて、「広島から」と言うと、
     広島との縁をひとくさり。毛利家の故地は、
     ご存知、広島なのだ。
     船頭の顔に似合わぬ美声の「男なら・・」
     を聞きながら、澄んだ川面を眺めていた。

     (余計ながら、民謡「男なら」の一節をどうぞ。
      「男なら お槍かついで お仲間となって ついて行きたや 下関
      国の大事と 聞くからは 女ながらも 武士の妻
      まさかのときには しめ襷  神功皇后さんの 雄々しい姿が
      亀鑑じゃないかいな    オーシャリ シャーリ」 )
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萩の街で(1)














     山口県の日本海に面した萩の街。
     関ケ原の戦いに敗れた、毛利輝元が、
     萩に移封され、城を築いたことに始まる。
     徳川幕府に対する怨念が、
     260年の後、倒幕の先陣をきらせたと
     言われる。
     その間、蓄えられた人々の力の行方を、
     見るような、街並みが、今も残されている。
     夏の日の炎天に、汗を拭きながら・・。
     その1は、武家の家を中心の見て歩き。

     (土塀に続いて、周布家長屋門、繁沢家長屋門、益田家物見矢倉、
      菊屋家住宅の座敷、田中義一別邸。田中義一は、陸軍軍人で
      昭和2年、第26代内閣総理大臣を務めた人。
      ボランティアで別邸の世話をする婦人、「山口出身の総理、安部さんで
      8人目です」と言う。やはり、多いのだ。因みに7人は、伊藤博文、
      山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作、だそうだ。)
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