四国遍路の旅記録  平成28年秋 その2 

宇和町上松葉から宇和島へ

この日は、宇和町上松葉から松葉城址、御篠山を経る遊歩道を通り明石寺へ。明石寺から歯長峠を越え仏木寺、龍光寺に参り、宇和島までの予定。
前回の日記の終わり大洲から宇和町の間は「飛んで」ます。いやいや、日記の上ですけどね。

宇和町上松葉の辺り、主な道は南北に通じています。西から国道56号、旧国道、東の山際に古道です。
この辺りから松葉城址にゆくには、古道を横切って更に山側の道に入ります。
最初に出会うのが荒れ寺風の建物。後で調べるとこれが出雲大社だと思われます。それから松観山大恵寺。天台宗の寺。西園寺氏の祈願寺であったと伝わる古寺です。

 出雲大社

 大恵寺

松葉城は、鎌倉時代中期、京にあった西園寺氏が宇和郡地頭職となり、南北朝時代この地に下向して山頂に築いたとされています。
伊予西園寺氏は、その後黒瀬城に移りますが戦国大名の一つとして100年間の戦乱の明け暮れを経て1587年滅亡します。
城址へは「上松葉大谷線作業道」を上がります。
主郭は岩の上の要害の地にあって、もともとは西側の山腹をつづら折りに上がっていたようですが、今は木製の階段を上ります。
主郭跡には岩上に小祠が二つ。ここからの宇和の街・田畑の眺望はさすがに見事です。手前に宇和中学校、街の家並、その向こうに宇和川の流れ、久枝の山、神領の田、左には黒瀬山・・


上松葉大谷線作業道

 城址の近く

 城址への階段

 城址主郭跡

城址からの展望

城址を下って、御篠山を回って明石寺まで行く予定でした。
御篠山には四国写し霊場があって、坪ケ谷新四国と呼ばれます。その一部は明石寺まで及んでいます。
城址を下った四差路で道を間違えたようです。水天宮様を見、ネットで厳重に守られた松茸山を見、古い墓も見ましたが、篠山神社にも新四国霊場にも出会えず、出た所は旧宇和小学校、米博物館の大きな屋根が見える所。道を戻りどうにか明石寺の大師堂の横に辿り着く始末。

 四差路

 明石寺大師堂の横

明石寺の本堂は、いつもながら圧倒する立派さで迫ってきます。山門前の徳右衛門標石「これより菅生山まで二拾壱里」。

 明石寺

 徳右衛門標石

ここから歯長峠の上り口、下川(ひとうがわ)まで逆打ち方向で、旧遍路道を確かめ辿ってみたいと思います。この辺り自動車道などの新道ができて遍路道も混乱を来しているようですから・・ 
明石寺参道口の鳥居右側に茂兵衛標石「佛木寺へ三里」(256度目、大正3年)。
奥の院白王権現手前右側に明治15年の標石、半ば草に埋もれていますが「左へんろみち コレヨリ明石寺ヘ六丁」と。
白王権現先の三叉路に頭部の破損を継いだ標石「右 卯のまち よし田道 たわら津」と。これは宇和島街道の法華津峠を経て吉田、俵津(明浜町)への道を案内するもの。
この三叉路を左に行くのが旧遍路道。県道237号を横切り直進。とり残されたような未舗装の道です。やがて宇和球場にぶつかります。旧道は球場ができる前、その真ん中を抜けていたのです。


明石寺参道鳥居と茂兵衛標石

 明治15年の標石

 白王権現


宇和島街道、吉田への道標

 旧道

球場の土手を右に迂回。右に大本神社を見た先に標石が見えてきます。
茂兵衛標石(191度目、明治35年)です。「(手印)佛木寺/(手印)明石寺/左新道」添句も彫られています「山を踏みてうれしき毛乃者(ものは)道しるべ」。茂兵衛さんのお好きそうな句ですね。
この標石は移設されたもので、手印の方向は実際の方向とは合っていません。(間違えないよう標木が付けられています。)
この標石を目印に右折して、墓地などがある狭い道を下るとやや広い街中の道に出ます。池上塗装店の角。電柱に括り付けられた「(両手印)へんろ道」の道標。
前記の茂兵衛標石もこの場所に置かれていたといわれます。標石にある「新道」とは、この道を西に行き県道237号を右折して明石寺に向かう道筋を指しているのです。
この角を左折して、松山自動車道の導入路の下をくぐって県道29号に合流する。これが旧道の道筋です。


宇和球場横の茂兵衛標石

 細い道を下る

 街中の道への出口

自動車道の手前に写真のような道案内の遍路シールがありました。右?左?、どっちへ行ったらいいのでしょう。
近頃こういった遍路シールが増えたようです。団体や個人が自ら思うルートに勝手にシールを貼るのです。
やるべきことは明らかです。行政を含め関係者が話し合い推奨ルートを決めること。(1つのルートとは限らない。)特定の団体が責任を持って道案内シールを置く(貼る)こと。
そのとき、「旧道」「古道」は有力な選択枝になると私は思います。

 遍路シール

県道29号を行くと道引大師堂。(民宿兵頭の入り口ですね。)
堂内には、中央に道引大師、左に弘法大師、右に不動明王が祀られており、その荘厳さには驚き。堂前に茂兵衛標石(209度目、明治39年)「佛木寺へ一里半余/明石寺へ一里」。


道引大師堂と茂兵衛標石

旧道は堂前を右に川を渡り歯長峠への入り口、歯長地蔵堂に至ります。
休憩している二人の遍路姿と太いタイヤに大荷物の自転車遍路の若者。
「こいであがれるの?」「押して。あんまりがんばっても・・中道ですよ。」と若者。
遍路姿の一人は地蔵堂の扉を探します。「なんだトイレじゃねーのか」だって。

歯長峠に上る山道の入り口、石橋を渡った所に石標があります。明治36年7月の石橋建設寄付人名を刻んだもの。
「佛木寺一里半、明石寺一里半」と道標も兼ねています。
松山自動車道が真横に建設されたため、山道の入口付近のルートは若干変わり、コンクリートの階段になっています。それもすぐに終わり、昔からの荒れた山道の姿に戻ります。
最初にこの道を下ったとき、この辺で転倒したことを思い出します。(あれから、もう11年にもなるか・・)
上るほどに道の荒れも収まり、この道で唯一の標石。「(大師像)明石寺 是ヨリ二里 寛政7年乙卯七月吉日」。

山道入口の石標

歯長峠への道

寛政7年の標石

美しい石の肌に思わず触れます。200年を越える年月の間、清浄な空気と豊かな樹木に守られて立ち続けてきたことに感動を覚えます。
下川から峠に上る歩道はもう一本あります(四国のみち)が、この標石に出会えるだけでも、こちらの道を採る価値あると私は思います。
峠の直前、林道を渡る所に遠慮勝ちにロープが渡してあります。峠の下りが崩落して通行止めになっていることのアッピールと思われます。
「通れる」という情報もありますし、ちょっと考えましたが、トンネルの入り口に繋がる林道に入ることにしました。

 峠への上り道

トンネルの入り口の休憩所では、東京から来た「カープ女子」にもお会いできました。
トンネルを抜け県道を下ります。
急坂の鎖場の前にはしっかり「通行止」の標示。
県道の途中から地道に入ります。基本的には良い道なのですが、道土の流失を防ぐため石畳風に丸石を敷いた箇所があり、これが今の靴には合わず極めて歩き難いのです。
地道の出口には、明治36年の道標「(手印)へんろみち」。これも印象に残る標石です。

 地道の下り

地道出口の標石

溜池を右に見て、県道までは出ず右折し西谷橋に至る道が旧道ですが、すぐ近くの松山自動車道の工事で大部分はコンクリートで固められ、道の雰囲気は失われました。県道を通るべきかもしれません。

 旧道

仏木寺。
この寺辺りからの道の様子、道標などについては、すでにこれまでの日記に何度か書いてきました。毎回撮り忘れる家畜堂の写真は載せておきましょうか。

 仏木寺

 仏木寺家畜堂

龍光寺に向かう県道もその先の畑も、この季節コスモスで満ちていました。遍路もその花に誘われて、県道を歩きたくなるのですが、以前の日記(4巡目、平成26年春 その1)にもちょっと書きましたが、旧道は仏木寺を出てすぐ左に入る山際の道です。
この道の途中、消防倉庫横の広場には常夜燈があり、観音菩薩や古い遍路墓なども見られます。ここは沖戸駄馬と呼ばれた所で、馬の繋ぎ場でもありました。
少々回り道になっても、旧道好きはこういう道を通りたくなるのです。

 沖戸駄馬

 龍光寺


龍光寺から見た三間の街

龍光寺から宇和島へ。この道についても既に多くのことを書いてきたように思います。
道の近くに松山自動車道が開通して、時に右の上の方から顔を出します。何やら落ち着かぬ道行とはなりました。


                                                                                              (10月21日)


(付録)石垣の里、外泊へ

雨の一日、今日は遍路はお休みにして、愛南町の南、もう島かと思うほどにくびれた半島(西海半島)の先の方にある、石垣の里として知られる「外泊」を訪ねることにしました。
愛南町の中心から外泊に行くバスの便は粗く、半島のくびれたところにある船越までバスで、その先の4kほどは歩いて往復します。
船越から外泊の辺りにかけて、平床鼻、女呂岬、道越鼻という岬があってその間が深い入江で、入江の奥に内泊、中泊、外泊という港町があるのです。
船越から内泊の間の道傍に多くの軍人の墓、その隣に「鯨塚」(飛楊鯨塚)を見ました。女呂岬には門柱だけが残った西浦中学校跡がありました。そこにはこの地の人々の過去の心の一端が存在するのかもしれません。
入江の沖にはハマチの養殖筏が浮かび、港の水産会社の作業場では活気のある声と音が聞こえてきます。それに励まされ、歩いて外泊に着きました。
降り止まぬ雨のなか、後に敷かれたであろう路面の鉄平石が硬い底の靴には相性が悪く、滑る、滑る。擬木の手摺にすがってどうにか地区全域を歩くことができました。

中泊の歴史について、資料から抜き出し拾って少々書き写しておきましょう。
江戸時代の末期、中泊の人口が増加し、各家の二男以下の分家移住が提案される。それに応じた人々が中泊に隣接する入江の谷を埋め、水路を確保して居住地を造成したという。その地は外泊と名付けられた。全部の入居が完了したのは明治12年であったといわれる。
この地は岩盤の上で、急斜面に屋敷地を造成するため石を積み上げ、また台風や冬の風から家を守るため塀としても石を積み上げた。
集落の主産業は漁業であり、女性は家事を守り漁労の様子が見えるよう海側に「遠見の窓」といわれる窪みが設けられた。
最近は、石垣や歩道が整備され観光にも力が入り、食事やみやげ物の店「だんだん館」や民宿も充実してきたといわれます。
平成22年調査で人口95人、37世帯。明治中期から昭和40年頃まで維持してきた人口の約半分であるという。




























                                    
                                      (10月22日)


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コメント
 
 
 
沖戸駄馬 (たけのしん)
2017-08-16 14:20:18
沖戸駄馬は見逃していますね。
次回はこちらを歩かねば。
おそらく成家の観音堂でしょう。大師堂もここだったのか、別な場所かですね。
 
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