野口英世のこと(渡辺淳一著「遠き落日」の紹介)(5)

1915(大正4)年9月5日午後4時、英世の乗った横浜丸は横浜埠頭に接岸した。1900年、単身渡米してから15年ぶりのに日本。夜8時東京駅についた。多数が出迎えてくれた。

いろいろな人たちに挨拶。文部大臣、東京市長、日本医師会長、北里研究所所長、等。
東大青山医学部長は、英世が東京についた翌々日、急遽予定を変え帝国ホテルに行った。
「青山もついに俺に頭を下げるか」と大声で笑った。歓迎晩餐会などなど。

9月8日、郷里の会津に向かった。懐かしい母に会うため。15年ぶり。英世を「手ん棒」とあざ笑った男たちもいた。郷里の翁島停車場(現在の猪苗代町)についたら、花火、大歓迎、万歳の声。

小学校時代の友人八子弥寿平宅に行った。どれだけ英世にむしり取られたかわからないほど英世にカネを工面した男だった。英世は感謝の気持ちでニューヨークで買った金の鎖の時計を取り出した。「ありがど、清さんは、ほんなに俺のごとを思ってでくれだがぁ」。
しかし弥寿平の母「ほんまもんで、いままでおらんぢから持って行った銭(ぜに)の帳消しがでぎっと思ったら大間違ぇだ。わだしの夫(おど)は、おめごど恨んで死んでった」
英世は一言もいわず、ただうつむいていた。

10月23日、会津に行く。父の佐代助は相変わらず酒びたり、完全なアル中。母のシカ「おれはいままでの60年分、いっぺんに生ぎたような気がしる。もうこれでいづ死んだっていい。本当におめのおがげでありがど…」。
「3年後には、まだ帰ってくっから」
「3年後だな、みなが欠けねぇうぢに、必ずな」。汽車の窓から上体をのり出し、「おっ母ぁ…」と叫んだ。

その年(1915)の11月にアメリカへ帰る。体調はよくなかったのだが、黄熱が伝染しておりこの対応のため、中南米を訪問する(エクアドル、メキシコ、ペルー、さらにブラジルなど)。

そして英世最後の地になるアフリカに発ったのは1927(昭和2)年10月だった。52歳だった。
アフリカ行きには、妻をはじめ英世の周辺の人たちは皆反対した。軽い糖尿もあり、心臓もよくないことはたしかだった。わずかの階段を上るのも口を開け、肩で呼吸をする。「なにも地の果てのアフリカまで行く必要はないです」と。
英世は言う。「わたしは一日も早くこの黄熱という奴を片付けたい。アフリカへ行ってきっぱりとけりをつけたい」と。
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