「不登校」をどう見るか

数回にわたって教科研「現実と向きあう教育学」についてコメントした。この書でいう「現実」が、本当に子どもたちの置かれている状態を冷静に見つめた現実ではないのではないか、という指摘をしたかったからである。その根拠に「不登校問題」の基本的な欠落があると言いたかった。
いうまでもなく「不登校」だけが日本の初等中等教育に含まれる問題ではない。いくつかある問題の一つであって、これを大きく取り上げるかどうかは編者の観点またはその書の意味の違いにあるといわれるかも知れない。
しかし、「もっとも貧しいもの、恵まれないものにこそ、手厚い教育が施されなくてはならない」ということをモットーとする北海道檜山の笹原克哉校長の実践(「北のきょういくブックレット5<北海道子どもセンター刊>)をまとめた田中孝彦氏の基本視線に思いをいたしたい。学校からはじかれ学校になじめない12万余の子どもたちが心から発しているメッセージは、教科研が繰り返し指摘する「子どもの声」の最も切実なものではないだろうか。

「不登校」をどう見るかという点を少々論じたい。現在の主流は不登校生の「学校不適応」論である。そのきっかけや背景についての評価はあったにしても、だいたいこの立場は文科省から教科研の方がたも、奇妙に一致する。学校に適応できない問題をもつ子どもというとらえ方ではないか。

しかし、精神医学の立場から、文字どおり臨床的なやり方で、不登校の子どもに接してきた人たちがいる。10年以上前から、社会の変化が子どもたち全てに合う学校教育なんて不可能なのだ、ということを指摘してきていた。「不登校を解く-三人の精神科医からの提案」(ミネルヴァ書房・1998)。また滝川一廣氏「『こころ』の本質とは何か」(ちくま新書)など。
不登校というのは、100年以上まえにつくられた学校制度に対する子どもたちの厳しい問題提起であったといえる。だから不登校を「解決」しようとすれば、できるだけ子どもに合った学校(小規模校、フリースクール的学校)を進めることである。
いわゆる第三次産業社会は、第一次第二次産業社会とは大きく異なる。集団的教育のあり方は、「個を活かす」建前の今の社会ではうまくいかない。不登校はこのことを現しているのである。
もちろん個々の不登校のきっかけは千差万別であり多様である。しかし根本的な所をおさえて置かなければ、結局は隔靴掻痒の感を生み出すことになるだろう。
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