来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
教育ひとすじ半世紀 ~ わが80年の人生のスケッチ ~(6)
新しい学校を!
1980年代、遠藤豊さんという著名な教育者が中心となって「管理教育ではなく自由な教育を推進する学校を」という意図をもって埼玉県飯能市に「自由の森学園」を創設した。私は、北大時代からお世話になっていた鈴木秀一教授と語り合い、いずれは北の地に「自由と共同の学校をつくろう」という目標をもつ研究会「新しい教育・学校をめざす研究会(新教研)」を結成した。1986年4月4日、北大の鈴木研究室でこれを確認した。この時の確認は私と鈴木教授と当時札幌北斗高校の同僚若山征志氏の3人だった。忘れることのできない日である。
これ以降、原則月1のペースで「新教研」主催の「教育の広場」といった勉強会を開くことになる。最終目標は、自由の森学園のような学校を北の大地に開くことだったが、これを成功させるためには多額の資金が必要。そう簡単なことではない。しかし着実にこの動きを広げていこうという趣旨だった。
この研究会(勉強会)に、何人もの現場の教師、父母、学生たちも参加した。先にあげた遠藤豊さんをはじめ、首都圏から著名な人を招いて「講演会」なども開いていった。
そして「さらに前進を」ということで、私は札幌北斗高校を退職し、鈴木秀一氏は北大から札幌学院大学教授に転職して、所期の目標を実現すべく取り組みを進めることになった。1990年の4月のことだった。
30年間勤めた札幌北斗高校を退職し、新教研事務局長という立場で頑張ることになる。(尤もこの専従職員という点ではその後「余市教育福祉村」を開いた菊地大先生が先人だった。かれは小学校の教師だったが、退職して新教研に専念していた。1986年に開いた最初の事務所は北3条西11丁目の第三加森ビルの3階の1室)。90年に菊地さんは余市で「教育福祉村」を開くことになる。
菊地大さんの後任として、新教研事務局長の任についたのが1990年4月。事務所は北21条西4丁目のアカシアビル4階。ワンフロアを借りることになった。こういう事務局体制を運営するために、200数十名の会員の皆さんに募金を呼びかけた。しかし勿論それだけでは足りず、私は退職金のほとんどをこの活動につぎ込むことになった。私的なことでいえば、この行為(学校をやめて新教研の専従になること)は無鉄砲この上もないことだった。妻は「仕方がないね」という顔だったが、わが息子は「おやじ頑張れ」と励ましてくれた。
北21条の事務所は新教研の事務所であるとともに、私の生活を保障する活動という意味もあって「いきいき教室」という学習塾を兼ねることになった。講師として北大の学生たちが協力してくれた。
このころ、私たちのめざす新しい学校をつくる場所として夕張市をはじめいくつかの自治体と協議する機会をもった。私たちの学校名を「札幌自由が丘学園」と言うことにした。これは、今東京にある「自由ヶ丘」がかつて手塚岸衛さんという人がつくり出した自由ヶ丘学園の跡地であり、この意義ある学校を北の大地であらためて顕彰していこうという趣旨をもっていた。
1980年代、遠藤豊さんという著名な教育者が中心となって「管理教育ではなく自由な教育を推進する学校を」という意図をもって埼玉県飯能市に「自由の森学園」を創設した。私は、北大時代からお世話になっていた鈴木秀一教授と語り合い、いずれは北の地に「自由と共同の学校をつくろう」という目標をもつ研究会「新しい教育・学校をめざす研究会(新教研)」を結成した。1986年4月4日、北大の鈴木研究室でこれを確認した。この時の確認は私と鈴木教授と当時札幌北斗高校の同僚若山征志氏の3人だった。忘れることのできない日である。
これ以降、原則月1のペースで「新教研」主催の「教育の広場」といった勉強会を開くことになる。最終目標は、自由の森学園のような学校を北の大地に開くことだったが、これを成功させるためには多額の資金が必要。そう簡単なことではない。しかし着実にこの動きを広げていこうという趣旨だった。
この研究会(勉強会)に、何人もの現場の教師、父母、学生たちも参加した。先にあげた遠藤豊さんをはじめ、首都圏から著名な人を招いて「講演会」なども開いていった。
そして「さらに前進を」ということで、私は札幌北斗高校を退職し、鈴木秀一氏は北大から札幌学院大学教授に転職して、所期の目標を実現すべく取り組みを進めることになった。1990年の4月のことだった。
30年間勤めた札幌北斗高校を退職し、新教研事務局長という立場で頑張ることになる。(尤もこの専従職員という点ではその後「余市教育福祉村」を開いた菊地大先生が先人だった。かれは小学校の教師だったが、退職して新教研に専念していた。1986年に開いた最初の事務所は北3条西11丁目の第三加森ビルの3階の1室)。90年に菊地さんは余市で「教育福祉村」を開くことになる。
菊地大さんの後任として、新教研事務局長の任についたのが1990年4月。事務所は北21条西4丁目のアカシアビル4階。ワンフロアを借りることになった。こういう事務局体制を運営するために、200数十名の会員の皆さんに募金を呼びかけた。しかし勿論それだけでは足りず、私は退職金のほとんどをこの活動につぎ込むことになった。私的なことでいえば、この行為(学校をやめて新教研の専従になること)は無鉄砲この上もないことだった。妻は「仕方がないね」という顔だったが、わが息子は「おやじ頑張れ」と励ましてくれた。
北21条の事務所は新教研の事務所であるとともに、私の生活を保障する活動という意味もあって「いきいき教室」という学習塾を兼ねることになった。講師として北大の学生たちが協力してくれた。
このころ、私たちのめざす新しい学校をつくる場所として夕張市をはじめいくつかの自治体と協議する機会をもった。私たちの学校名を「札幌自由が丘学園」と言うことにした。これは、今東京にある「自由ヶ丘」がかつて手塚岸衛さんという人がつくり出した自由ヶ丘学園の跡地であり、この意義ある学校を北の大地であらためて顕彰していこうという趣旨をもっていた。
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