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日記 … Kametarou Blog
大相撲の八百長問題、その疑問
大相撲の八百長問題の波紋は広がる一方だ。「ウミを出し切る」「どのくらい時間がかかるか分からないが、徹底究明する」云々の語が飛び交う。
それはそれでけっこうだし、必要なことだろう。しかしどうも今一つ解せないことがある。「一つ」どころかいくつも…。
まず「ウミを出し切り」というのはどういう事態を想定しているのだろう。600余人一人ひとりにアンケートをとったという。誰ひとり「八百長を経験した」と言っていない。そこで調査委員会は問題とされた力士にケータイなどを提出させて徹底チョックすることにした。これはプライバシー問題にならないのか。また廃棄したり機種変更したりした場合もあるだろう。そういう時には警察権力を使った命令下で行うのか。その際の「犯罪容疑名」は?
そもそも「八百長」として問題視される場合はどういうことなのか。例えば、「勝ち負け」を調節するためにカネをかけて負けてもらう、というような場合は不正だ。こういう時には刑事罰でいえば「賭博罪」にあたるのか。「人情相撲」という言葉もある。あうんの呼吸で勝つ・負けることもあるだろう。時には「美談」として言われることもあるのではないだろうか。だから「八百長」として糾弾される具体的なケースを確認してほしい。とはいうが、あるケースをこまかく定義づけてもきりがないのではないか。必ず「こういう場合は…どうだ?」と説明を求められる。先に進まない。
もう一つ「そもそも」だが、大相撲は江戸時代からスポンサーの世界で生きてきた。各大名のお抱え力士という意味が大きかった。その大名間の関係で勝ち負けを微妙に譲り合ったりしたことだって想像に難くない。大相撲は最初のプロスポーツだろう。プロスポーツはスポンサーがいる場合がほとんだ。スポンサーの意向は常に「常勝あるのみ」なのか。
本来スポーツというのは、徹底的に実力の世界であり、そこに勝ち負けを「調整」したり「貸し借り」をしたり、「負けてあげたり」などしないものだ。そこにスポーツの美しさとおもしろさと感動がある、とはいうが、例えばプロレスなど、昔から力加減を上手にしている、といわれていたではないか。だからといってプレレスは八百長だとは言われていない。
これはウチのS学園長の話の受け売りだが、かつてプロ野球で、あるホームランバッターが大投手と対決したとき「ストレート勝負」を相互に確認しあった(らしい)。バッターは見事にこれをホームランした。逆に彼はある投手が変化球を投げて三振した際「あの投手は男らしくない」とののしった。「ストレート勝負」を相互にあらかじめ確認しあっての投球・打撃は八百長にならないのか。だから変化球で三振したら「あいつは男らしくない」というのはあらかじめストレートでやり合うことを想定していたのに、この約束に違えることの批判だが、逆の八百長的言動の告白ではないのか。
人と人との駆け引きが世間のありようだから、あうんの呼吸で力のアクセントを変化させることだってあるだろう。私の言いたいことは、だから八百長のウミを出し切るといっても土台無理な話ではないか、という疑問である。
複数の大臣が「公正でない大相撲は許せない」といった発言をしている。そんなことを声高にいう大臣の党がマニフェストに掲げたことを次から次へと裏切ることは、「八百長」を超えて「◎◎」ではないのか。
道徳的な八百長問題と、公約を平然と裏切る政党の行為を比較したとき、私にはどちらが重いマイナス行為かはいうまでもないと感じている。
あの小澤代議士の裁判問題だって、彼は疑わしいのに「不正はない」といってやめたりはしないらしい。これと比較して大相撲も何場所も休むことなどはいかがなものか。
大相撲の八百長問題と対比されることがらなど枚挙にいとまがないほどたくさんあるだろう。
力士諸君のこれからの決意と覚悟を確認しあい前に向かって進めるべきではないか、と思う。興行中止にともなう経済的精神的マイナスは、できもしない「ウミを出し切る」措置よりもはるかに深刻ではないか。
どこかに落としどころを見つけて「善処」を提言する大人物はいないのだろうか。
大相撲に「前科」がいくつもあるので、なかなか弁護しにくいことだが。
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