6. 三善清行について・・・続き
6-4 意見封事12箇条
学者三善清行が、延喜14年(914年)醍醐天皇に提出した政治意見書である。三善清
行 意見封事十二箇条とも呼ばれる。[
清行が、30年間の中級(地方官)としての生活体験からの提案。国司層を擁護し、
文人貴族の不満を代弁して、上級貴族の奢侈(おごり)に対する強い批判的性格。
菅原道真を指しているであろう。
7. 菅原道真と三善清行の政治観の違い
菅原道真は、王権を中心にした中央政治主導の政治体制を重視する。
三善清行は、地方官人は自身で地方政治の経験を生かして、中央の政治に広範に
参加する政治体制を重視する。
8. 菅原道真の流罪と死、そして天満宮
菅原道真は、忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ・他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること)され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
初めて現職の大学生になったつもりで講義を聞き、それをまとめてみました。
8回にわたり、長い間お付き合い頂き、有難うございました。
6-4 意見封事12箇条
学者三善清行が、延喜14年(914年)醍醐天皇に提出した政治意見書である。三善清
行 意見封事十二箇条とも呼ばれる。[
清行が、30年間の中級(地方官)としての生活体験からの提案。国司層を擁護し、
文人貴族の不満を代弁して、上級貴族の奢侈(おごり)に対する強い批判的性格。
菅原道真を指しているであろう。
7. 菅原道真と三善清行の政治観の違い
菅原道真は、王権を中心にした中央政治主導の政治体制を重視する。
三善清行は、地方官人は自身で地方政治の経験を生かして、中央の政治に広範に
参加する政治体制を重視する。
8. 菅原道真の流罪と死、そして天満宮
菅原道真は、忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ・他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること)され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
初めて現職の大学生になったつもりで講義を聞き、それをまとめてみました。
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