kametaro爺さんのよもやま話(ペイント画を含む)

日常の生活の中で、主に気付いたことやしたことをまとめておきたい。また、ブログにアップしたい

映画「少年H」を見て・・・爺の当時の生活と重なって その9

2013-10-09 10:12:15 | 日記
           
昭和21年のパンパンの手入れ


11 戦後の混乱・・・食糧難で苦しむ

11-1映画では、戦後も食糧難が変わらず、タンスの綺麗な着物を背負って、田舎に列車で米と交換しに行った。買い出し列車といって、汽車が乗客で超満員、窓からの出入りでした

11-2 子供たちは米軍に食べ物をねだって大勢がついていく。戦災で家や家族も失い、裸同然の真っ黒い子供も大勢いて、地下道等で寝ていた。人も自分が生きるために必死であった。子供を世話する余裕もなかった。

11-3 若い女性の中には、米兵に身体を売って生活をしていた者もいた
 “パンパン”と呼ばれ、その頃の流行歌に「こんな女に誰かした・・・」があり、悲しい歌として多くの人にうたわれた。黒人の子どもが生まれ、めだつようになった。

11-4 外地から復員と言って、派遣されていた軍人がどんどん帰還してきた。
  ロシアの国と戦い、多くの軍人が捕虜となって数年にわたって、シベリアの酷寒の地で大変きつい仕事をさせられ、現地で多くの人が亡くなられた。
11-5 戦死の公報が届き、主人が死んだものとして、再婚していた妻の所に、生きていて帰還したという悲しい事も割に多く聞かれた

こんな中にも、平和になり立ち上がらるべきとの意思から、焼け残った柱等を利用して、掘立小屋を作り生活と仕事を見つけるようになった
  H少年も親元を離れ、独立して生きるようになった

 戦争は人を苦しめ、人を殺し、家を焼けつくし、生活を奪い、全くが悪で、決してしてはいけない。今の憲法は平和憲法で素晴らしい。皆さんの心の中にしっかりと・・・。

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