kametaro爺さんのよもやま話(ペイント画を含む)

日常の生活の中で、主に気付いたことやしたことをまとめておきたい。また、ブログにアップしたい

NHK大河ドラマ 八重の桜  その3

2013-06-27 08:32:53 | 柏シルバー大学院
Ⅱ 会津若松と京都守護職

幕府の力が日に日に落ちるなか、京では不逞浪士たちの天誅(てんちゅう)騒ぎが続き、それまで都の治安を担っていた京都所司代と京都町奉行では抑えることができなくなっていました。そこで幕府の威信をかけて新設されたのが「京都守護職」。ドラマの中で八重も勘違いしたとおり、名前だけ聞くと名誉な職のようですが、その実は、困難が目に見えた損な役割でした
しかも京は、会津とは気候も文化も異なる地。純朴で生真面目な山国の藩士たちが、気位の高い公家たちと付き合いながら、西国諸藩の武士と渡り合うのは至難の技です。
京都守護職の拝命は、会津藩を悲劇へと導くことになる、重い、重い決断でした。なぜ会津の滅亡を覚悟してまで容保は引き受けたのか
Ⅲ」保科正之(1611–72年)は、徳川家康の孫である。京都守護職を断れなかった

会津松平家の歴史は、信濃高遠藩藩主・保科正之(1611–72年)が、1643(寛永20)年に会津藩藩主の座についたときから始まります。正之は徳川家康の孫で、2代将軍秀忠の息子。
正之は7歳のときに高遠藩保科家に預けられ、養子となり高遠藩3万石を継ぎました。
3代将軍家光は、実質28万石の領主に引き立てました。御三家の水戸藩も28万石であることを考えると、いかに正之に目を掛けたかがわかります。家光は聡明な正之をかわいがり、その死に際には枕もとへ呼び寄せて「徳川宗家を頼む」と言い残したとも伝わります。
家光の死後、正之は遺言どおり、4代将軍家綱の後見として幕政を支えました。「松平」の姓と葵紋が与えられましたが、保科家への恩から、これを固辞出来なかった。
松平を名乗るようになったのは3代正容(まさかた)からです