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kametaro爺さんのよもやま話(ペイント画を含む)

日常の生活の中で、主に気付いたことやしたことをまとめておきたい。また、ブログにアップしたい

日立海浜公園西山荘・・・町内日帰り旅行(3/3)

2009-06-25 06:00:01 | 観光

兎も角、広い、広い。それにビックリ土地は、海岸線で国の所有だもの。

国の概要:国営常陸海浜公園は、首都圏における増大かつ多様化するレクリエーション需要に応えるため、茨城県ひたちなか市に国が設置した国営公園で、総面積は350haに及びます。現在、約44%153.2haが開園されています。
 本公園は、「海と空と緑が友達 爽やか健康体験」をテーマとして、樹林、草地、砂丘、海浜、湧水地等、特色ある自然条件を生かした整備を目的としており、その規模、内容は、わが国はもとより、国際的にも有数な公園となるものと期待されています。

園内は、サイクリングコースが整っている。また、上の写真のように園内見学車(シーサイドトレイン)135分、1日周遊券500円で遊び・見学ができる。

主なエリアとして、森林エリア、みはらしエリア、草原エリア、砂丘エリア、砂丘エリア、フレジャーガーデンエリア等がある。上の写真のように大観覧車に乗ると園や周りの様子等が一望できる。時間は15分おきに発車している。

子どもと1日中遊んでいても飽きないようである。機会あれば1度見学されたとと存じます。

町会の人々と親睦を深め、心の洗濯になった有意義な1日であった。町会長・幹事の皆さんの労に感謝しながら家路についた。有難うございました。(93)

アクセス:JR 上野―勝田駅―茨城バス15分、タクシー15分、

     道路 ひたちなかI.C-ひたち海浜公園   電話0292659001


我孫子あやめ祭り・・・梅雨の晴れ間

2009-06-19 05:28:21 | 観光

6月13日、梅雨の晴れ間、久し振りに手賀沼湖畔へ自転車散歩と・・・・。手賀沼公園に向けると広場でイベントやフリーマーケット等で大変賑やかであった。イベント会場に足を向けた。

「我孫子あやめ祭り」と横幕が張られ、出し物は獅子舞えで見事に演じていた。子供の頃に戻りながら惜しみなく拍手を送った。次に「坐我子」クラブの太鼓を3人で披露した。これも見事であった。友達にあった。彼の得意技を披露したとのこと、もう少し早く来て見たかった。残念!!。

そこから自転車で20分ぐらいの距離に「我孫子あやめ祭り」に向かった。湖岸の狭い道なので人通りが多く、気をつけてペタルを踏んだ。

「あやめ」が、綺麗に咲いていた。花びらが大きくやわらかく優雅であった、豪華な花であった。デジカメを向けた。

花畑は、それほど大々的な規模ではなかったが、客は割に多かった。皆、花の優雅さに満足している様子であった。

子供たちは、小さな小さな小川で、あやめの花をしりめに「エビかにつり」に興じていた。

綺麗なあやめの鑑賞の影に、地元の人の一年間の汗の努力があった。有難う!!。

初めて気づいたことは、この近くに観光船の乗り場があったこと。初めて知る嬉しさ。機会があったら乗って、手賀沼から周りの眺めを見てみたい・・・。

思わぬ収穫のあった、自転車散歩であった。あやめ祭りも今週一杯までか?。

来週が、東葛インターネット普及会のフォトクラブの水元菖蒲祭りの撮影会だ、待遠しい。(66)


西山荘・・・町内日帰り旅行(2/3)

2009-06-16 06:00:23 | 観光

これは。余りにも有名なテレビの6チャンネル「水戸黄門」の光圀の隠居先の住まいである。

徳川家康の子供は将軍家を以外に、尾張家、紀伊家、水戸家の御三家となった。水戸家の頼房の二男に光圀が生まれた。頼重についで光圀が水戸家をついて、やがて隠居し、169159日から1700年なくなるまでの10年間、西山荘で過ごした。ここで有名な「大日本史」を編纂した。

華美を嫌った光圀は、諸方から送られた調度は一切持ち込まず、わずかな身の回り品と編集事業に必要な沢山の書物を運ばせたという。現在の建物は1819年八代齋脩(なりのぶ)によって規模を縮小して再建されたものである。再建された西山荘には、「西山守護」と呼ばれる武士がおかれ、御殿のうらに、この時建てられた別棟に居住していた。

荘内の観月山では、中秋の名月には観月の宴を開き、詩歌の会を催し、大日本史編纂に務めた家臣の労をねぎらったという。

現在、テレビの水戸黄門とは違い、質素で勉強家であったようである。

アクセス:常陸太田市新宿俟90 電話0294721538

近くに行かれたら訪問されることもよいと存じます。歴史探検の一助にもなるかも?(50)。


龍神大吊橋・・・町内日帰り旅行(1/3)

2009-06-10 05:45:30 | 観光

先日、町内親睦旅行をバスの日帰りで実施した。和気あいあいの内に全日程を終わり、親睦を深められた。爺も、初めてあった人とも親しくなり握手して別れた。町会の人と素晴らしい1日を過ごした。

見学先は、龍神大吊橋、西山荘、日立海浜公園の3カ所である。

今日は、龍神大吊橋についてアップする。

結論的にみると、見学専用の観光施設、吊橋としては規模が大変大きく、上の写真のように見晴らしが素晴らしい。機会があれは1度体験することもよいと存じます。但し、古来のつり橋と違って、近代建築の固定式吊橋である。吊橋固有の揺れも全くない。しかし、あまりにも谷が深く、すくんでしまった人もいた。

1.    長さ本州一である。竜神峡は、茨城県久慈編立自然公園に位置し、V字形の美しい渓谷の中を流れる竜神川をせき止めた竜神ダムに上に龍神大吊橋はかけられた。歩行者専用として375mの長さを誇り、ダムの湖面よりの高さ100m、橋の上からの眺めは、四季おりおりのパノラマが広がる。橋はその大自然の空間を舞い上がる龍が想起される。

2.    アクセス:道路、常磐自動車道―那珂 I.C下車―国道349-水府方面へ

 鉄道、水戸選乗換―水郡線―日立太田下車―茨城交通―高倉・太子方面へ

次回は、西山荘をアップする予定です。 


大谷観音・平和観音、大谷採石場跡を訪ねて(3/3)

2009-06-03 06:08:21 | 観光

縄文最古(1万千年前)の人骨「ほぼ完全」で

大谷観音の資料館に、横臥屈葬の姿が見られる。この人骨は、年齢20歳前後、身長154センチの男性で、重要文化財でガラスケースに収められていた。

大谷魔崖仏防災工事中、お堂の下約150センチ位の地下より出土した。私たち現日本人のはるかなる祖先の姿を知る上に貴重な資料である、と解説書にあった。

1998年6月29日の某新聞の記事に、この人骨は、縄文時代最古の「草創期」にあたる約1万千年前のものだったことが、県教育委員会が依頼した専門家の調査で分かった。出土した当時は縄文時代早期の約七千年前のものと見られていた。ほぼ完全な形で出土した人骨としては、縄文時代で最も古いという。

見た目の割に綺麗で違和感がない。一度見る価値があるように思う。

旅は、見聞を広めてくれ有意義な楽しいことですね。(73)

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大谷観音・平和観音、大谷採石場跡を訪ねて(2/3)

2009-06-02 06:15:29 | 観光

5月18日に第一信をアップした続きです。

平和観音像

平和観音は、大谷寺の南側に高くそびえ、身丈は26.93メートルの高さ、第二次世界大戦の戦没者の霊を弔い、世界平和を祈念して彫刻された。大谷石の採石場の壁面を利用して6年歳月を費やし、昭和29年12月に完成した。往来の老寂若男女が、この尊像を拝し、信心の回向と世界平和建設の真髄となし、以って自他の平和のためになさんことを願う。

上の写真のように採石後の大規模の壁面の上の彫刻された平和観音は圧巻である。

大谷石の採石場跡

大谷石は、大谷町を中心に東西8キロメートル、南北37キロメートルに分布。約2000万年前、海底火山が噴火して火山灰が海底堆積してできたもの、「凝灰岩」といわれる。現在は地下数十メートルから百メートル以上もある坑内に移って採石している。昭和35年から採石は完全に機械化している。

現在、採石場跡の空間は見学されている。大きな直方体空間をいくつも集まっている感じ。内は多少の電灯はついてはいるが真っ黒の大きな空間に吸い込まれ、先が見えない暗闇である。

ここでジャズ演奏をされたことがあるようだか、反響が大変よかったとのこと。NHKでも紹介されたとのこと。

臨時に扱っている犬だけを、家に残したままだったが、多少に渋滞にあいながらも予定より1時間遅れで帰宅できた。犬の厚い歓迎を受けた。

娘夫婦に案内されてのドライブでした、ありがとうございました。(70)


浅草の三社祭(3/3)…驚く人出、人、人、人!! 

2009-05-21 06:02:11 | 観光

この写真は1つの神酒所の様子です。

ここにある神輿の担ぎが終わって、暫しの休憩の間、町民や担ぎ手は浅草神社の方に出かけていると思う。いつもと違って、人では閑散としていた。これでも祭りであるのかと不思議に思うぐらいであった。

浅草三社祭の神輿は、神社の3台の大きな神輿(宮出し・宮入という)と、氏子四十四カ町の町内神輿(みこし)約百基が街に繰り出す「町内神輿連合渡御」を行う。現在は16町会に分かれているとのこと。

各町会の神輿大小約100基が浅草寺本堂裏広場に参集、浅草神社でお祓いをうけた上で各町会へ渡御。

この時、各町会の神輿は、町の中へ、そして仲見世へと・・・、御神輿の担ぎ手も、観客も、祭りのムードの中に吸い込まれ、手ばたきを、また掛け声をかけながら、気分が最高に盛り上がる。

各町会には、上の写真のように神酒所がある。神酒(みき、しんしゅ)とは、神道において神に供える酒(通常は日本酒)である。そこに、神酒した方の名前が貼り出され、町の商店の名前も「ちょうちん」で下げられている。町内の御神輿も鎮座している。商売繁昌か?。

今年は、神田明神祭り、浅草三社祭りを見学でき幸せだった。

沢山の方が読んで下さり有難うございました。浅草からの発信でした。


浅草の三社祭(2/3)…驚く人出、人、人、人!! 

2009-05-20 05:54:11 | 観光

午後4時頃銀座線浅草駅についた。観音様に向かう道路は人で溢れていた。人を掻き分け前に進もうとしても前に進めない。自然の流れに沿って歩くことにした。普通の御神輿が、町を練り歩いている。人の波も、神輿について流れ行く。それを周りで見学している方々。老いも若きも、神輿担ぎも見学者も神輿に引きつけられ楽しんでいる。毎年繰り返される、長い伝統の文化的・精神的行事である。見知らぬ方も祭りに参加していると同じ仲間のような気分になる。爺のような歳になっても、祭りは気持ちが高ぶってくる。今年も参加できたことを幸せに思いながら午後6時頃帰宅の途についた。これまでは、氏子四十四カ町の町内神輿(みこし)約百基の数基だけを見た祭りの様子である。

更に、下町の風物詩として知られる浅草神社(東京都台東区)の三社祭が最終日の3日目を迎え、本社神輿(みこし)3基の「宮出し」が2年ぶりに復活した。担ぎ手約1万人が集まり、祭りは最高潮に達する。雨も降らず、本社神輿が宮入する午後9時頃が最高潮になるであろう。

以上、三日間の浅草は、前国から見学者も大勢集まり、祭りを盛り上げる。予想では150万人という。浅草の祭りと同時に日本の祭りといっても過言ではないと自負している。(65)   <o:p></o:p>


浅草の三社祭(1/3)…驚く人出、人、人、人!!

2009-05-19 05:51:41 | 観光

5月17日(日)、午後1時より3時まで上野で、昔の仲間15人位で旧交を温める懇親会を実施した。当時の思い出話に花がさいた。また、今までのお互いの苦労話に耳を傾け、慰め合った。懇親会が終わり一人になると三社祭に自然に足が向いた。50年近くも台東区に勤務して台東区っ子になっている自分かも・・・。

浅草神社(三社権現)の由来  

推古天皇の三十六年三月十八日のことでした。

 漁師の桧前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁労に精を出していました。網にかかるのは、ただ人型の像だけでした。その尊像を捧持して今の駒形から上陸し、槐(えんじゅ)の切り株に安置しました。郷土の文化人であった土師真中知は、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして自らも帰依の念心仏体であることを兄弟に告げ、功徳、おはたらきをした。   土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音像を奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという。いわゆるこれが浅草寺の起源です。 土師真中知の没した後、三社権現と称し上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであるとされています。 今もなお、「三社さま」として親しまれている浅草神社ですが、元来三人の神様をお祀りしたことからそのようによばれています。こんなことを心におきながら、祭り見学の仲間に入った。神話の世界と現実を重ねながら・・・。

次回、祭りについてアップします。


大谷観音・平和観音、大谷採石場跡を訪ねて(1/3)

2009-05-18 06:06:02 | 観光

連休半ば、娘夫婦のご招待で受け、自家用車4人で、宇都宮市大谷観音、大谷石採掘場の見学に参加した。現地に入り、大谷石の採掘後の壁面の雄大さにびっくりした。

先ず、大谷観音を見学した。

大谷寺本尊千手観音(上の写真)は、弘仁元年(平安時代初期)、弘法大師の作と伝えれれている。堂内岩壁面の厚肉彫に彫刻されたものとして、最優秀なる技法を極めたとして、昭和29年3月に特別史跡に、昭和36年6月に重要文化財の指定され、日本最初の2度指定を受けている、

皆さん、ご存じと思いますが、1度見学の価値があると思う。

この彫刻は九州の国東半島の魔崖仏の方法と同じ技法のように思う。

アクセス:宇都宮駅下車-関東バス大谷行きなどで30分、下車徒歩2分。

参考:大谷石の特徴、耐火・耐震に富む特質がある上に軽量で加工しやすい。住宅、倉庫、防火壁、石塀、門柱、敷石、石垣等広く使用されている。

次回は、雄大な壁面に作られた平和観音をアップします。