*「これまで登った山で一番心に残っている山は…」と♀ペンに聞くと、すぐに「それは剣岳や」という答えが返ってきました。何故かこれまで彼女には縁がなかった山へ、この年二人で登りました。*
1998年9月7日 剣岳
【コースタイム】
6日 室堂 11:40~12:10 …雷鳥平12:40 ~12:45…別山乗越14:20…剣沢小屋15:00
7日 剣沢小屋5:25…一服剣6:25~6:30…前剣7:10~7:20…剣岳8:35 ~9:05…前剣10:10~10:15…一服剣10:50~10:55…剣沢小屋11:55~12:15…別山乗越13:15~13:20…雷鳥平14:20…(地獄谷を経て)室堂15:20~15:40…天狗平(立山高原ホテル)16:15
鎖場で大雷雨に見舞われた剣。大雨で池の平のテントが水没し、夜中に小屋へ逃げ込んだ翌朝、快晴の仙人峠から仰いだ剣。頂上の岩の間からオコジョがひょこひょこ顔を出していた剣。大日岳から奥大日、剣沢と重いテントを担いだ末、サブ一つの身軽になった嬉しさで足も軽かった剣…。剣沢小屋の前でコーヒーを飲みながら、黒い岩肌を眺めていると、若かった頃のさまざまな想い出が浮かんでくる。剣岳が初めての和子は、念願の三田平まで来たものの、果たして頂きに立てるか不安が去らないようだ。かなり疲れた足取りで小屋への斜面を登って来た同年輩の人に、「剣から今お帰りですか?」と訊ねている。話しを聞いて、これならと自信が湧いてきたようだ…。
雷鳥沢の登りは案の定きつかった。初めて来たときより年齢は37プラスだが、8㎏のザックは20近いマイナスだと自分に言い聞かせて、一歩一歩踏みしめて登る。ガラガラの岩屑の道を「立山参拝」のお札を付けた人たちが続々と降りてくる。ナナカマドがルビーの実を付けている草原帯からハイマツ帯に入る。ガスが捲いてひんやりした風が流れてくる。足を動かしてさえいれば高度を稼ぐ登りで、 野営場の色鮮やかなテントがどんどん小さくなる。別山乗越が近くなったところで、和子が道脇のハイマツの中につがいらしい雷鳥を見つけた。すぐそばでフラッシュが光っても逃げようとしない。「こんな近くでユックリと雷鳥を見るなんて初めて…」と喜ぶ。乗越には、雷鳥平から1度の休憩を含めて95分で到着。まあまあのペースだ。賑やかな関西弁の一団が剣御前の捲き道を剣山荘へ向かうのを見ながら、三田平に下る。
剣沢小屋の同宿は約20人。それぞれが個室で、シャワー室まであって至れりつくせり。汗を流しさっぱりして、小屋の前でコーヒーを湧かしていると、ガスが晴れて八ツ峰、源次郎尾根、前剣、本峰と次第に剣の全容が現れてきた。和子は別山から見たことはあったが、ここからは初めて。明日のルートを確認して小屋に入る。夕食にはなんと、下ろし大根添えのビフテキと湯豆腐がでて感激する。他にコンニャクのオランダ煮、素麺カボチャの中華風、ナメコ汁。満腹して部屋に帰ると、真っ赤な夕焼け空に早月尾根が美しいシルエットを浮かび上がらせている。明日の晴天を祈りながら、暮れゆく剣を飽くことなく二人で眺めていた。
7日。曇り空だが雲は高い。急いで朝食を頂き、サブザックを背に5時半出発。テント場を抜けていったん少し下り、ペンキ印の岩上の水平道を行く。剣山荘前では、幾つかのパーティが山頂に向かうところ。その中に混じって登り始める。歩き始めて1時間で一服剣。針ノ木から爺ヶ岳に続く稜線がくっきり見える。剣沢小屋は勿論、剣山荘の屋根も小さくなった。タテヤマアザミが群生して咲いている所から武蔵のコルに降りる。
ここから頭上に見上げる前剣へ岩礫の急登。所々でイワツメクサの白、チシマギキョウの紫が、モノトーンな灰色の道に彩りを添える。展望はますます拡がり、薬師の左に霞んでいるのは御岳か乗鞍か。大きな岩を乗り越すと左手に能登半島、富山湾、富山の市街が見下ろせた。
前剣の頂上で水分補給。立山の左に槍、穂高が浮かぶ。源次郎尾根のすぐ右に白馬の特徴的な頂き。そこからは後立山の峰々がずらりと居並ぶ。さらに…展望は頂上での楽しみに先を急ぐ。岩のやせ尾根を下り、いよいよ核心部。
門のトラバースは、かって下りに雷雨に遭ったところだ。あの時は雷光に怯えて鎖から手を離す女の子がいて、サブリーダーの私はその方が恐ろしかった。今日もガイド役の男性に連れられた女性4人組が通過に時間がかかっている。少し待って取り付くと、和子はあっという間に渡ってしまい、「ウチはこういう所好きヤ」とのたまう。長女がお腹にいるのに岩登りの練習をした位の女だから、怖くなくて当然なのである。先行のパーティに先を譲って貰って平蔵のコルを過ぎ、
「カニのタテ這い」もスイスイ登って「これだけで終わり?」とかえって不満顔。昨日まで心配していただけに「本に書いてあるのは大げさなんヤ」と納得している。
早月尾根からのルートと合うと、後はガラガラの岩屑を踏んで祠のある頂上に立つ。和子は念願の頂きに感激の面もち。私も5度目とはいうものの26年振りで、感慨深く祠に手をあわす。小屋で一緒だった千葉から来た夫婦と、記念写真を撮り合う。少し前をいいペースで登っていたが、朝食を摂らずに出てお腹が空いたと笑っていた。槍・穂高は雲に隠れたが、白馬から唐松、五龍、鹿島鑓、針ノ木と後立山連峰がくっきり。立山三山から薬師に続く山並み。室堂平から地獄谷の眺め。奥大日から大日への稜線。早月尾根の稜線と毛勝三山…360度の展望を楽しむ。コーヒーを湧かし、ビスケット状のシリアルを食べる。一服剣で私たちが追い越した、神戸のパーティが到着して、頂上は急に賑やかになった。「もう頂上は諦めた」と言っていた小父さんの発声で、みなニコニコ顔で万歳三唱している。剣沢でアルバイトしている女子大生二人も登ってきた。いつの間にかガスが濃くなり、展望はゼロになったので頂上を後にする。
「カニの横這い」では先行の若い男性二人組が手間取っていた。一人がなかなか思い切って足を踏み出せない。ようやく降りた後を、ここは私が先に降りてスタンスを確認。和子も殆ど鎖を頼らずにクライミングダウンした。一番傾斜が急で、かって電柱のアングルがあったところは、立派なハシゴが架けられていた。下りきると平蔵避難小屋跡に出る。前後して降りてきた千葉のご夫婦と一服剣で別れ、のんびり写真を撮りながら余分な荷を預けてあった剣沢小屋に帰る。
小屋の奥さんとしばらく話して剣沢に別れを告げる。別山乗越への砂礫の道には、ほう果になったチングルマの中で、いくつか咲き残っているのがある。キジムシロの黄色い花。紅葉し始めたナナカマドの葉と真っ赤な実。ミヤマダイコンソウは早や紅葉したものが多い。イワイチョウも黄葉を始めた。まだ、夏の名残を惜しんでいるように見える剣沢も、もう一週間もすればすっかり秋の色に染まるだろう。
雷鳥沢の下りから和子が少し不調になった。かなり急いだので低山病になったかも知れぬ。浄土沢の橋で少し休み、地獄谷を見に行く。みくりが池への歩道が、少し辛かったようだ。室堂で空室を確かめて、天狗平の高原ホテルまで下る。バスがなかった頃、重荷にあえぎながら登った懐かしい道を、冷たいビールを楽しみに歩く。
8日朝は見事に晴れ上がった。真っ青な空を背に大日、奥大日、立山連峰がずらりと居並んでいる。そして別山尾根の後ろからは、また一つ想い出を作ってくれた剣岳が私たちを優しく見送っていた。