小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

吉井勇の歌と土佐  6

2010-01-05 21:50:29 | 小説
 前回、勇が土佐に本格的に隠棲したのは昭和8年と書いたが、昭和9年に訂正した。昭和8年夏に土佐の山奥の猪野々に滞在したが、その年の10月にはいったん帰京しており、猪野々を隠棲の地と定めたのは、昭和9年4月であったからだ。
『渓鬼荘記』に吉井勇は書いている。
「…私が今度隠棲の地としようと思ってゐる、海南土佐の韮生の山峡、物部川の渓谷に臨んだ猪野々の里は、高知あたりに住んでゐる人達でも、殆んどその名を知ってゐるものさへなかった位のところだった…」
 吉井勇の時代と事情はいまもさほど変わらないはずである。高知市内で生まれ育った私は物部川はさすがに知っているが、猪野々には足を踏み入れたことはないし、平家の落人で、とんでもない山奥というイメージしかない。ちなみに渓鬼荘というのは、猪野々に作った勇の草庵の名である。
 猪野々(香美市香北町)には、いま吉井勇記念館がある。香美市のホームページで記念館へのアクセスを見ると、JR高知駅から車で1時間10分とある。土佐は、それだけの時間をかければ山奥に行けるのである。勇の草庵は、物部川の渓谷をみおろす断崖の上に立てられた。
 隠棲といっても、そこは名うての遊び人吉井勇である。こう書いている。
「人を厭ひ世を遁れてゐるとは云っても、私もまだ寒巌枯木となったわけではないのであるから、時には酔余飄然として山を下ってゆくやうなこともないではない」
 渓鬼荘という草庵は、6畳と4畳半の二間きりで、屋根は麦わら混じりの茅葺きだった。草庵のすぐ下は深い渓谷で、雨が降ると物部川の瀬音が高く響いた、という。
 
  物部川の水音たかしことありて薫的和尚雨降らします

 吉井勇は薫的のことを誰から聞いたのであろうか。薫的は土佐藩政中期の豪僧である。長曾我部国親の菩提寺を預かっていたから、山内家が入国したときに対立した。藩主山内忠義の戒名事件で7年間投獄されている。指を噛んで血で経文を書き、最後は絶食して死んだ。薫的の憤怒に、勇はどこか感情移入している。
 勇も自死の誘惑にかられることもあったらしい。しかし猪野々の人々の人情や、酒が彼を救った。

  いささかの酒ありがたし空海の慈悲かしこやと酌みたてまつる

吉井勇の歌と土佐  5

2010-01-03 17:54:19 | 小説
『定本吉井勇全集』(番町書房)の第九巻「年譜」によれば(昭和6年)「五月、土佐に遊び、伊野部恒吉と知った。そのすすめによって土佐隠棲の志をもつに至った」とある。
 土佐に遊ぶとか、隠棲などというと、いかにも文学的に聞こえるが、現実的には勇のそれまでの地方遍歴は債権者からの逃亡という側面をもっていた。父親の残した借金問題を抱えていたからである。
 勇自身が『私の履歴書』にこう書いている。
「大正十五年五月、父幸蔵が隠居したので家督相続をしたが、父の負債まで引受けなければならなかったので、家計はだんだん窮迫して、昭和三年三月には、角筈にあった邸宅も売り、借家生活をするようになった。そうなると、だんだん交友も少なくなったので、東京にも居辛くなり、私はたった一人で神奈川県下の南林間市に住んでいたが、そこにも落着くことができず、ほとんど旅で暮らすようになってしまった」
 父の負債というのは、樟脳製造事業の失敗によるものだった。父幸蔵は海軍士官で後に貴族院議員にもなったが、台湾の樟脳事業に手を出し、東京府下豊島郡尾久村に樟脳工場を建設したが、この経営が破綻したのであった。
 名門吉井家の内実は落魄の道をたどっていた。しかし伯爵柳原義光の娘で華族女学校出の徳子は、おそらくそのことをよく理解しないまま、吉井家の嫁となったのである。
 勇の妻徳子の乱倫について、彼女もまた家庭から逃げ出したかったのだと、弁護することもできそうである。可憐な美人で、絵封筒を集めるのが趣味で、料理も上手で、手製の洋菓子を焼いて訪問者をもてなしていた彼女が、幼児の世話も投げ出して夜遊びに走ったのは、吉井家の窮乏にも一因があったのではないのか。夫の勇は、もろもろの鬱屈を抱えて、それでも旅に逃れられるのである。逃れていたのである。徳子の旅は夜のさんざめきの中にまぎれることだった。
 さて勇に話を戻す。 
 土佐はかって遠流の国であった。だから勇は自分で自分を島流しするように土佐に我が身を追いやったのかもしれない。
 妻とも離婚し、満身創痍になって、勇が本格的に土佐に隠棲するのは、昭和9年である。

 いつはりの世に出でむより大土佐の韮生(にらふ)の峡にこもるまされり