今週はじめた地名探訪シリーズですが、はや第二弾です。今回は「目黒」を取り上げます。目黒といえば、目黒雅叙園や目黒寄生虫館などがあり、また噺の「目黒のさんま」の舞台とされ、秋にはさんま祭りが開かれています。
この「目黒」の地名については、徳川家康の側近として江戸幕府の草創に深くかかわった南光坊天海僧正にちなむものとする俗説が広く流布しています。この説によれば、天海は江戸の町の建設に際して陰陽五行あるいは風水を取り入れ、江戸の周囲五か所に不動尊を設置したといわれます。これら5体の不動尊は、それぞれ目の色が異なっていたため、目黒不動・目白不動・目赤不動・目黄不動・目青不動と呼ばれるようになりました。このうち、目黒不動尊のあった周辺が「目黒」となり、目白不動尊周辺も「目白」と呼ばれるようになったとするものです。この説にしたがえば、「目黒」の地名は目黒不動にちなんで江戸時代以降にできたものということになります。目黒不動は、今も下目黒の瀧泉寺に安置されています。
ついこの間まで流行っていたテレビの歴史バラエティー番組のいくつかでも、この天海起源説がまことしやかに流されていました。しかし、この説には大きな問題が2つあります。
ひとつは、天海の時代に確認できる五色不動は目黒と目白だけだということです。目赤についても、将軍徳川家光の命名によるという伝承がありますが、少なくとも目青と目黄についてはかなり時代を下らないと登場しません。すなわち、目黒不動も目白不動も、必ずしも五色を意識したものではなかったといえます。さらに、五色不動の中で、この目黒と目白は他の3色と異なり地名とセットになっています。このため、果たして不動が先か地名が先か、鶏が先か卵が先がの問題が生じています。
第二に、これが決定的ですが、そもそも江戸時代以前にすでに「目黒」という地名は存在し、ここを拠点とする「目黒氏」という鎌倉武士が存在していました。目黒氏は関東西部に勢力を持った武蔵七党の一派とされ、歴史書『吾妻鏡』にも登場します。鎌倉時代中期以降、目黒氏については動向が明らかではありませんが、一説によればその後奥州へ移動し、会津や阿武隈地方に末裔を名乗る人が数多くいるということです。
ここから分かることは、目黒の地名は天海どころか軽く鎌倉時代以前まで遡る古い地名であるということです。じゃあ、そのおおもとの地名の由来は、というと残念ながら現在のところ明らかではありません。天海という人物については、やれ山崎の戦いで死んだはずの明智光秀その人であるだの、135歳まで生きただの怪しいウワサが多く、バラエティー番組のネタとしては格好の人物といえます。五色不動の話も、風水っぽいということで天海と結び付けられたものでしょう。