塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

東日本大震災から3年

2014年03月11日 | 東日本大震災
  
 今日で東日本大震災から丸3年となりました。被災地や被災者の方々にはたいへん申し訳ないのですが、現在進行形ではなく、いくらか振り返って顧みる余裕が生まれたように感じます。この風潮は世間一般ではもっと強いように感じられ、あの日とそれに続く混乱の日々の事実を、データに基づいて客観的に捉えようという動きが加速しているように思います。データの解析が進めば、あやふやに曲折する防災や原発の議論にも、一定の判断基準が示されることになるかと期待されます。

 他方で、被災地以外の地域では、逆に過去のものとして風化しつつあるようにも思われます。最近感じた例では、(私にとっては)早くも震災当日の被災地を舞台としたドラマが制作されたり、まったく関係ないドラマや映画などでふた言目には「被災地を元気づけられれば」などという言葉が聞かれるのが鼻につきます。前者でいえば、3年経ったことだしそろそろいいだろうということで作られたのでしょうが、いまだ仮設住宅暮らしを強いられ、生活の目途も立たない被災者が多数いらっしゃるなかで、そのような作品を見る気にはとてもなれません。後者でいえば、深く考えもせず前口上のように「被災地のため」と軽々しく出てくるあたりに、非当事者には震災がすでに昔のものになっているのかと哀しくなります。

 3.11を前に、今の被災地のようすが様々な形で伝えられていましたが、沿岸の町の中心部がすべて更地のままで、1ヵ所として町としての体裁が復活している場所がないことに危機感を覚えます。地元が好きで更地のまま放置しているとは思えず、お上が納得のいく計画ができてからなどと綺麗事を並べて、遅遅として進ませないでいる状況がうかがえます。そのくせ、現場を知らない中央官僚のやることなど、より大きなコンクリートの塊の堤防を累々と建設することくらいでしょうに。3年もの間、更地のままほったらかしにしておきながら、任せられるところは地元や民間企業の自由裁量に任せようという発想がなぜできないのか不思議でなりません。

 気が付けば、またこうしてネガティブなことばかり書いている自分がいます。私にとってもまだ、震災の記憶が少なからずストレス案件であるということなのでしょう。今夜はこれにて、静かに過ごしたいと思います。
 
  



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