世界をリードする芸術家にアンケートを行ったところ、最もインパクトのある近代芸術作品として1位にマルセル・デュシャンの「泉」、2位にピカソの「アヴィニヨンの娘たち」が選ばれたという。
この「泉」という作品は、作者であるデュシャンがそこらへんの店で市販品の便器をひとつ買ってきて、題名を付けてそのまま美術展に出品したもの。近代芸術のさきがけとして大いに物議を醸した。この作品は、近代芸術について語る際に僕もよく引き合いに出すのだが、近代芸術の幹とも言える前衛や、ダダイスムの発端ともいえる。
すなわち、近代芸術における前衛概念をひとくくりに表すと「日常性の中から芸術性を見出す試み」であると常々考えている。デュシャンは、芸術性とは無縁の大量生産品の中にある種の芸術性を見出すという作業を初めて行ったといえる。ちなみにピカソにも、日常の分解と再構築を絵の中で繰り返していた時期がある。
しかし、この種の前衛を400年以上前にすでに見出していた国がある。それこそ、わが国日本である。安土桃山期に大いに発展した茶道はまさに「日常性の中から芸術性を見出す試み」といえる。そもそも「茶を飲む」という行為は日常そのものであって、茶道はその日常の一幕を練磨し昇華させることを目的とする。また、そこで使われる道具についても、たとえば庶民が使っていた飯茶碗や、フィリピン商船の中に転がっていた壷や、漁師が使う魚籠なんかが現代に名器として伝えられている。
はっきり言って僕は近年の前衛芸術にほとんど共感を覚えない。むしろ中世ヨーロッパのごと、芸術の暗黒時代に陥っているのではないかとさえ思う。そんなときにふっと周囲を見渡せば、意外と芸術というものは身近に散在しているものではないだろうか。これを読んでいる方(まず日本人しかいないと思うが)には、是非この期に自国の芸術を振り返ってもらいたい。
この「泉」という作品は、作者であるデュシャンがそこらへんの店で市販品の便器をひとつ買ってきて、題名を付けてそのまま美術展に出品したもの。近代芸術のさきがけとして大いに物議を醸した。この作品は、近代芸術について語る際に僕もよく引き合いに出すのだが、近代芸術の幹とも言える前衛や、ダダイスムの発端ともいえる。
すなわち、近代芸術における前衛概念をひとくくりに表すと「日常性の中から芸術性を見出す試み」であると常々考えている。デュシャンは、芸術性とは無縁の大量生産品の中にある種の芸術性を見出すという作業を初めて行ったといえる。ちなみにピカソにも、日常の分解と再構築を絵の中で繰り返していた時期がある。
しかし、この種の前衛を400年以上前にすでに見出していた国がある。それこそ、わが国日本である。安土桃山期に大いに発展した茶道はまさに「日常性の中から芸術性を見出す試み」といえる。そもそも「茶を飲む」という行為は日常そのものであって、茶道はその日常の一幕を練磨し昇華させることを目的とする。また、そこで使われる道具についても、たとえば庶民が使っていた飯茶碗や、フィリピン商船の中に転がっていた壷や、漁師が使う魚籠なんかが現代に名器として伝えられている。
はっきり言って僕は近年の前衛芸術にほとんど共感を覚えない。むしろ中世ヨーロッパのごと、芸術の暗黒時代に陥っているのではないかとさえ思う。そんなときにふっと周囲を見渡せば、意外と芸術というものは身近に散在しているものではないだろうか。これを読んでいる方(まず日本人しかいないと思うが)には、是非この期に自国の芸術を振り返ってもらいたい。
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