塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

桶狭間考①:「迂回奇襲」か「正面突撃」か

2009年07月15日 | 歴史
  
 関ヶ原の合戦に関する考察に続いて、突然ですが今度は桶狭間の戦いについて考えてみたいと思います。私は桶狭間古戦場跡には行っていないのですが、もう1つの舞台である鳴海城大高城周辺を訪れ、前回の関ヶ原と同様現地を知って初めて気付くところが多々ありました。こうした実地の経験を踏まえて、桶狭間の戦いを自分なりに再構成したいと思います。

 桶狭間の戦いといえば、全国で知らない人はいないというほど有名ですが、その内容についてはこれまでの定説の是非も含めて多くの議論を呼んでいます。その第一の原因は、小瀬甫庵の『信長記』をはじめとする数多の「読み物」によって作り上げられていった物語が、いつしか自然に定説として定着してしまったことにあります。このような、当時の生の記録である一次史料に基づかない、口伝的な定説については、近年徐々に検証が進められています。それでも、桶狭間の戦いは未だ謎の多い合戦として様々な説や憶測を呼んでいます。それは、合戦に関する手紙や当事者の記録といった一次資料の少なさと、いくつか論理的な説明のつけにくい不可解な事実があることに起因しています。

 まず大きな論点について整理してみると、
①今川義元本陣への攻撃は「迂回奇襲」だったのか、
  それとも「正面突撃」だったのか。
②義元の目的は何だったのか。
③今川方の鳴海城・大高城を巡る本戦前の攻防戦に
  おける各隊の行動。
の3点にまとめられます。そこで、この3点について回を分けて考察した後、いくつかの小さな点について最後に考えてみたいと思います。

 というわけで、今回は義元本陣への信長の攻撃が「迂回奇襲」だったのか「正面突撃」だったのかについて考えてみます。「迂回奇襲」説は、いわゆるこれまでの定説ですが、今一度その概要をまとめてみます。

 天白川河口域にある鳴海城と大高城は、織田方の重要な城であったが、城主が城ごと今川氏に寝返ってしまった。これらを奪還すべく、信長は両城の周囲にいくつもの砦を築き包囲戦に持ち込んだ。これに対し今川義元は、2万余とも4万余とも言われる大軍勢を率い、尾張に向けて進軍を開始した。今川方の先鋒松平元康(後の徳川家康)は、包囲を抜けて大高城へ兵糧入れを行い、さらに包囲網の一角である丸根砦鷲津砦を攻め落とした。こうした事態の急変を受けて、信長も本隊を率いて居城清洲城を出た。鳴海城を包囲する砦の1つ善照寺砦に入った2千といわれる信長隊は、義元の本隊が桶狭間で休息中であるとの情報を得た。信長軍は雨に乗じて山沿いを迂回して進軍を開始し、桶狭間の義元本陣を急襲した。この急襲に義元隊は混乱し、乱戦の中義元は討ち取られた。

 以上が、一般的に知られる桶狭間の戦いのあらましです。この「迂回奇襲」説は、江戸時代に小瀬甫庵が著した『信長記』に初見されるものですが、甫庵は現代でいう吉川英治のような人物で、その著作の歴史的史料価値については大きく疑問視されています。これに対し、信長の家臣であった太田牛一が自身の日記をもとに編纂した、史料価値の高い『信長公記』によれば、義元は桶狭間の谷間ではなく「桶狭間山」に陣取り、信長はこれに正面から突撃したとされています。

 このように、依拠する史料の信憑性という観点から、最近では「迂回奇襲」説はほとんど否定されつつあります。おそらく甫庵は、「桶狭間」という地名から谷間の村落を想像し、山上からの迂回奇襲に思い至ったのでしょう。普通に考えても、いくらちょっとした休息だったとしても、視界の利かない谷間に腰を落ち着けることはないように思います。こうした誤解がいとも簡単に生まれ広まった背景には、戦場となった「桶狭間」あるいは「桶狭間山」なるものがいったいどこなのか、未だ判然としていないということがあります。現在、古戦場とされている場所には名古屋市緑区内と豊明市内の2ヶ所があり、この両自治体でお決まりの本家・元祖紛争が生じています。

 さて、桶狭間の戦いが実は「正面突撃」であったとすると、なぜ信長は今川の大軍相手にバンザイアタックともなりかねない正面攻撃を仕掛けたのか、という疑問が湧いてきます。この点については、今川の「大軍」の内訳を考えることで説明がつきます。

 史料に見る今川軍の総兵数は、多いもので4万~5万、少ないもので2万余とされています。今川氏の領国の石高から考えて、もっと少なかったはずであるとする研究者もいます。要するによく分かっていないということですが、この点を考える比較対象として、たとえば桶狭間の戦いの12年前に行われ織田軍との激戦となった(第二次)小豆坂の戦いでは、今川軍の兵力は1万数千といわれています。この後今川氏は駿東地域や西三河を勢力下に収めますが、この分の兵力増加は多くて数千程度だと思われます。さらに、この間に甲相駿三国同盟が結ばれ、義元は後顧の憂いなく織田氏との戦いに全力投入できるようになりました。すなわち、これまで後背の備えに残していた分の兵力も桶狭間に注ぎ込んでいたと考えると、さらに数千ほど動員できたと考えられます。このように状況から判断すると、桶狭間の戦いにおける今川氏の総兵力は、多くて2万余とするのが妥当であるように思います。

 義元本陣へ突入した信長軍の兵力がおよそ2千といわれていますから、十倍以上の敵に正面突撃したとなれば、確かに無謀以外の何者でもありません。しかし実際には、大高城救援や鳴海城救援など、その戦線は広範囲に広がっていて、義元本隊の兵力は5千人ほどだったと言われています。2千対5千であれば、必ずしも無謀といえるほどの兵力差ではありませんし、信長にはこれまで、稲生の戦いや浮野の戦いで劣勢を覆して勝利している実績もありました。信長軍2千人の決死の突撃の前に、絶対的優位とまではいえない義元の本陣は崩され、乱戦の中で義元は討ち取られてしまったというのが本当のところなのだと思われます。

 つまり桶狭間の戦いとは、大高城周辺の戦勝を聞いて本陣を進軍させた義元に対し、信長の精鋭隊が正面から突撃し、その乱戦の中で運良く総大将の首を取るという大戦果を挙げた、というのが実際の流れだったのだと考えられます。

 ちなみに、18世紀のフランスの軍学者モーリス・ド・サックス元帥は、10レギオンすなわち4万6千人以上の兵力はかえって重荷となるだけであると説きました。サックス元帥によれば、100万の大軍を擁していたとしても、そのような大軍を有利に展開できるような地形はそうあるものではなく、兵力を分散して布陣せざるを得ない。たとえ少数であっても、精鋭をもってこれらの各陣を各個撃破すれば、兵数上の優越など恐れるに足りない。むしろ過剰な兵力は、兵站や各隊の統率などマイナスの方が大きい、としています。たしかに万の兵を操るには、それなりの経験と統率力が必要です。桶狭間と同じく日本三大奇襲に数えられる厳島の戦いや河越夜戦も、やはり万の大軍を擁しながら少数の兵に統率の隙を突かれ、その兵力差を生かすことなく敗れ去った事例です。今川義元にとっても、2万数千という兵力はこれまで扱ったことのない大軍であり、経験不足からその用兵におのずと隙が生じてしまったとしても不思議ではないのです。それゆえ「迂回奇襲」ではなく「正面突撃」であったとしても、少数精鋭の前に万の大軍が崩れたことは十分説明がつくといえます。

 結局、義元側の敗因は、従来の定説のような「油断」ではなく、第一に義元の大軍指揮の「経験不足」にあったのだといえると思われます。

  



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