塵埃日記

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奇跡のような戦国大名:安房里見氏と肥前有馬氏

2018年06月28日 | 歴史
 
古来名門の上位者が、後出の実力者に取って代わられる下剋上の戦国時代。なかでも最大の出世頭は、草履取りから天下人にまでなった豊臣秀吉でしょう。ただ、秀吉がそこまでのし上がれたのは、天下統一へ邁進していた織田信長の家臣として、戦国大名並みの所領を与えられていたことが大きな要因として挙げられます。

戦国大名と呼ばれる大勢力の多くも、守護や守護代、あるいは又守護代などから発展した例が多く、土豪レベルから独立を保ってそこまでのし上がるというのは、実際にはあまり見られないような気がします。秀吉以外で劇的な急成長を遂げた大名としては、土佐の一領主から親子2代で四国に覇を唱えるまでに成長した長宗我部氏や、安芸国の一有力国人から中国・九州10か国以上に勢力を広げた毛利氏、守護京極氏の一家臣から近江国北半を治めるまでに至った浅井氏、同様の条件下から九州を三分する勢力にまでのし上がった龍造寺氏などが挙げられるでしょう。

とはいえこれらの例も、地方世界の片隅から突如として湧き上がってきたわけではなく、もともと地方国内の中心部でそれなりの地盤は有していた勢力といえます。地勢・地縁・血縁など、ある程度有利な条件が揃っていないと、戦国大名化への舵を切るのはやはり難しいように思われます。

そのようななかで、スタート地点から考えると戦国大名にまで登り詰めたのは奇跡ではないかと思えるような大名が、私の知る限2家あります。房総の里見氏と肥前の有馬氏です。

里見氏は関東の雄の北条氏と争いながら、最盛期には千葉県の半分以上を勢力圏としていました。出自は清和源氏流で足利氏の同族、新田氏の庶流といわれ、その発祥の地は現在の群馬県高崎市とされています。そして里見氏が千葉県南部の安房国に移ったのは、15世紀中ごろのことと考えられています。ただ安房里見氏初代とされる里見義実は、『南総里見八犬伝』にも登場する重要人物ですが、史料上は実在していたかどうか裏付けが取れていません。里見氏がどういう経緯で安房国に土着したのかについても、諸説あってはっきりしていないのが実情です。

 

 
里見氏が居城とした
佐貫城(上)と久留里城(下)


来歴のあやふやな里見氏ですが、安房での最初の本拠地は白浜(現南房総市)にあったとみられています。今でこそ首都圏の南国リゾートとなっている房総白浜ですが、地図を開いてみると分かる通り、房総半島の先っちょのそのまた先っちょにあり、街道筋からも外れていてとても発展性の高い土地とはいえません。この白浜で一介の外様勢力からスタートして、安房国の中心である館山平野にいた同国の事実上の支配者安西氏を倒し、さらには房総半島全体を席巻するというのは、地図上からだけ見れば相当な奇跡のように思うのです。

 
里見氏のおおよその最大版図と
スタート時の勢力(緑丸)


他方の肥前有馬氏は、天草四郎らが島原の乱で立て籠った原城や、その近くの日野江城を拠点に、最盛期には長崎県のほとんどと佐賀県の一部にまで版図を広げました。藤原純友の子孫を自称していますが、こちらも島原半島に土着した経緯についてはよくわかっていません。


原城跡


有馬氏の拠点である原城と日野江城についても、江戸時代に島原半島の中心となった島原城からみると、かなり半島の南端近くに偏っています。とくに周囲に対して有利な地理的条件があったようにも思えず、肥前国の中心である佐賀平野からも遠く隔たっています。ここからスタートして有力大名にのし上がるというのは、やはり地図上だけで判断するならかなり難易度が高いように思われます。

 
有馬氏のおおよその最大版図と
スタート時の勢力(緑丸)


では、この両家の大化けにはどのような理由が考えられるでしょうか。また、そこには共通点があるのでしょうか。

肥前有馬氏については、南蛮貿易に代表されるような海運による収入が、勢力拡大に資したといわれています。ただ、複雑な海岸線をもつ肥前国で良港をもっているのは有馬氏に限ったことではなく、決定的な要因とはいえないように思います。むしろ有馬氏の対外政策で特徴的なのは、養子縁組を積極的に活用している点にあるといえます。江戸時代まで大名として存続した大村氏や、千々石ミゲルを輩出した千々石氏、松浦水軍を率いる松浦党嫡流の相神浦松浦氏、さらには有力国人の西郷氏や長崎氏など、肥前国内の多くの有力豪族に養子を送り込みました。

しかし他方の里見氏については、養子政策をとっていた様子はみられず、海上交易で潤っていたという話もとくに聞きません。したがって、これらの点は辺境からのし上がるための必要条件というわけではなさそうです。

では、両家に共通していることは何かと考えると、多分に憶測ですが大きく3つあると思われます。1つは近くに強力な大名がいないこと、もう1つは名君が二代以上続くこと、そして最後に、周囲に付け入るチャンスが巡ってくることです。

有馬氏を戦国大名に脱皮させたとされる有馬貴純のころ、のちに肥前の大大名となる龍造寺氏はまだ一国人領主に過ぎず、その龍造寺氏を倒すことになる島津氏は、薩摩国内で同族争いをしている状態。九州の最大勢力の座を争っていた大友氏と大内氏は、いずれも島原半島からは遠く離れていました。

そのため現在の長崎県内には、有馬氏と同程度の小勢力が盤踞していて、貴純はこれらをひとつひとつ取り込みながら勢力を拡大しました。とくに黎明期には、近隣の領主に後継ぎの男子がいないところに付け込んで、自分の子を養子に入れるというやり方で少しずつ地盤を確立していったようです。

貴純の子尚鑑は治政が短かったのか事績があまり伝わっていませんが、その子晴純は有馬氏の最盛期を築いた名君として知られています。とはいえ晴純一代でそこまで至った訳ではなく、貴純が戦国大名としての基礎を固めていたからこその飛躍といえます。

一方の里見氏の前に立ちふさがった安西氏や真里谷氏は、それぞれ安房国と上総国の戦国大名レベルの勢力でした。しかし、太刀打ちできないほど強力だったわけではなく、何よりそれぞれ内紛を抱えていました。内輪のごたごたを最大限に利用する形で、里見氏はライバルをひとつずつ退けて発展していったのです。とはいえ里見氏がこの両氏を独力で倒したことはやはり驚嘆に値することで、それは第2の点にかかわってきます。

『南総里見八犬伝』ではすべての因果の始まりのような役回りの里見義実ですが、実在したとすれば安房里見氏の基礎を築いた人物で、その後に続く義通の代に、安房一国を掌握したとみられています。そして、里見義堯・義弘父子のころに、里見氏は最盛期を迎えました。ただし義堯の家督相続は、本来の嫡流である従弟義豊を攻め滅ぼしての下克上だったとされています。もしこのとき周囲に野心家の名将がいれば、あるいは里見氏も窮地に追いやられていたかもしれません。ですが、義堯自身が知勇兼備の将だったこともあり、ピンチにまでは至らなかったようです。

それぞれの勢力の栄枯盛衰には、もちろんそれぞれ固有の理由が絡み合っています。ですが、特定の条件下にある勢力が同様の力学的作用を見せるとき、そこには何かしら共通の要因が関わっていることが考えられます。私が今回のテーマで安房里見・肥前有馬両家について直感的に思いついた仮説は、一見すると当たり前のようなものばかりです。ですが、これらの要因が歯車のようにピッタリ噛み合う状況というと、実は日本広しといえども意外と少ないように思うのです。

 



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