塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

広島・長崎の日によせて:核を廃絶するには

2010年08月08日 | 政治
    
 一昨日6日は広島の、明日9日は長崎の原爆記念日です。終戦から65年目となる今年の広島の平和記念式典には、潘基文国連事務総長やアメリカのルース駐日大使が初めて出席しました。両氏、とりわけルース大使の出席に関しては、アメリカ本国で大きな議論を呼んでいるようです。アメリカの保守系メディアは、ルース大使の出席が65年前の原爆投下に対する謝罪を意味し、戦争を早く終わらせることに貢献したとするこれまでの見解を修正するものだと批判しています。

 こうした議論が起きるということ、そして超国家組織の長や当事国の代表が式典に出席するまで65年を要したという事実が、核問題の難しさ、根の深さを感じさせます。式典では、誰も彼も平和と核廃絶への希望と決意を述べるのですが、じゃあどうやって?となると、抽象的な方法論さえも聞くことはできません。菅総理が核は廃絶したいが核の傘は必要だと発言したように、政治家の間では核廃絶については「希望」以上に突っ込んで議論されることはないように思われます。

 これは一般的にも同じことで、左寄りの人たちが「すべての国が核を一斉に放棄すればいいじゃないか」と訴えれば、右寄り人たちが「そんなこといって、どこかたった1つの国でもこっそり核を保持し続けていたらどうするんだ」とまくし立てる構図が長らく続いています。

 そこで、「どうやったら核兵器は廃絶することができるのか。」という問題について、今回少し考えてみたいと思います。時折砕けた表現で話を進めることもありますが、本人は至って真面目に書いておりますので、ご了承ください。

  
 まず、ちょっとした例を挙げてみたいと思います。ここに、あなたの子供がDSかなんかで遊んでいるとします。そしてあなたは、何らかの理由でDSを中断させたいと考えているとします。子供にDSをやめさせるにはどうすればよいでしょうか。

 おそらく、大きく分けて3つの方法が考えられるでしょう。1つは、無理やり取り上げる方法。2つ目は説得してやめさせる方法。そして3つ目は条件を出す方法です。

 1つ目の方法は、怒ったり手を上げたりして取り上げるものです。ほぼ確実にDSをやめさせるという目的は達成できるでしょうが、子供は泣き出したり抵抗したりするでしょう。2つ目の方法は、「そろそろやめないと目が悪くなるよ」とか「もう2時間以上やってるよ」とか言って諭し、子供に自らやめさせるものです。3つ目の方法は、あまり現実的ではありませんが、「やめたらお菓子をあげるよ」とか「やめたら明日遊園地に連れて行ってあげるよ」とかいうものです。あるいは「やめないと晩御飯抜きだよ」とか「やめないと新しいソフト買ってあげないよ」というのもこれに該当するでしょう。

 このうち、1つ目と2つ目の方法は、親という自分より上の権力であるからこそ成功するものです。これが親ではなく、たとえば弟や妹であれば、無理やりやめさせようとしても、説得してやめさせようとしても、おそらく成功しないでしょう。つまり、強制的に何かを諦めさせるには、その者が強制させられるだけの力をもっていなければなりません。

 さて、この話を国家に置き換えたとき、国家の上位に存在するものは国際法上ありません。現実的にも、ポリネシアの小国ならともかく、アメリカなどの超大国に上からものを言えるような存在はないでしょう。つまり、強制的に放棄させる方法は使えません。そこで、これらの国々にすべての核を放棄させるには、それなりの条件が必要ということになります。

 ただし、子供の例を引き合いに出しても説得力がないという人もいるでしょう。そこで、もう少し大人な例を挙げてみます。

 ある大学生が、ある講義式の授業を受けているとします。この授業は、全部で200ほど履修者がいますが、実際に出席しているのはこの学生のほか5人だけとします。5人は毎回それなりにきちんとノートを取っています。そして最後の授業で、試験にはこれまでの板書からそのまま問題が出ると通告されたとします。つまり、5人のノートが珠玉の価値を持っています。仲の良い友人であれば、「他の誰にも見せるなよ」といって貸してあげることもできますが、200人の履修者の中には残念ながらその念押しが信じられるほど仲の良い人はいません。一度誰かにコピーを許せば、そこから一気に広がると5人は考えています。

 この場合、講義のノートくらい見せたって構わないじゃないという人もいるでしょう。そこで、さらにこの5人はもう1単位も落とせないほどヤバいとか制約を加えることもできます。ただ、重要なのは、このときどのように振舞うのが5人にとって合理的であるかということです。当然ながら、5人にとって他人にノートを貸す合理的な理由などありません。貸せば貸した分だけ、自分の相対的優位が損なわれ、良い成績をとれる可能性が減ってしまうだけです。結局、大人だろうと子供だろうと、それ相応の理由がなければわざわざ自分から自分の優位を放棄することなどあり得ないのです。

 ここで、出席していない195人について考えてみます。この場合、彼らはノートを獲得することが目的ですから、ノートを貸すことに対するリスクに見合うだけの条件を5人に持ちかければ話は進むでしょう(現金を渡すとか、昼飯を何日か分おごるとか)。ただ、核廃絶という本題から、ちょっと現実離れしていますが、195人は5人にノートを捨てさせて全員平等な立場で試験を受けたいと考えているとします。こうなると、ちょっとやそっと現金を握らせたり食事をおごったりする程度では話は進まないでしょう。わざわざ苦労して得た優位性をすっぱり放棄しろというわけですから。先の子供の例にしても、一時的にDSをやめるのはそう難しくないとしても、DSを捨てなさいと言われれば、全身全霊をもって抵抗するでしょう。

 それでは、どのような条件が必要なのか。より魅力的なものが目の前にぶら下がっていれば良いのです。DSを捨てれば、もっと面白いと子供が思っているゲーム機を買ってあげると持ちかければ、子供はしぶしぶながら同意するでしょう。また、講義の内容がより分かりやすくまとめられた新書が800円くらいで出版されていることが分かれば、拙い学生のノートよりもみんな新書の方に飛びつくでしょう。そうなれば、5人も自分のノートを後生大事に抱えていたってどうしようもありません。

 さて、ここからようやく私見に入ります。以上の文脈で核兵器を放棄させるには、核兵器より魅力的で、核兵器ほど危険性のない兵器を開発すればよいということになります。核兵器が忌み嫌われるのは、爆弾としての爆破力だけでなく、核による放射能という目に見えず、長期的に汚染し続け、治療や浄化の難しいダメージを撒き散らすからです。すなわち、核兵器と遜色ない威力を持っているが、放射能は発生しない爆弾を発明すれば、核兵器からそちらの兵器へシフトしていくことになるでしょう。ちょっとネタに走った言い方をすれば、N2爆弾のようなものです。N2爆弾というのは、『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する上記の性質をもった架空の兵器です。架空のものですから、実現可能性については分かりません。

 ただ、もしこのN2爆弾のようなものが発明され、費用もそこまで莫大ではないとなれば、わざわざ非難の的となる核兵器など保有する理由はなくなり、すべての核兵器は自ずと放棄されるでしょう。要は、強制的に放棄させたり、理を説いて放棄させようとしても上手くいくはずはなく、「核など持っていてもどうしようもない」状態をいかに作り出すかが重要であると思います。

 もちろん、核の悲惨さを訴えることも人々の意識を喚起する上で重要です。その上で、ここに述べたような核より魅力的なアメ玉の開発という考え方も、並行して真剣に議論されてもよいのではないかと思います。すくなくとも、核は廃絶したいが核の傘は必要だと、何も考えていないに等しい発言をするよりは。

  


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