塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

舛添知事問題:時代遅れのリーダー観

2016年05月02日 | 政治
  
ホテルはスイート、飛行機はファーストクラス、他県の別荘へ公用車で。舛添要一東京都知事の税金の使い方について、批判は高まるばかりです。東京都との県境近くに住む私としては文字通り対岸の火事でありますが、今後の経過については興味が湧きます。

批判に対して、舛添知事が「トップリーダー」だから必要経費だといった反論をしたことについて、ネットを中心に「自分で言うな」とか「自意識過剰」といった反応が巻き起こっていると聞きます。ただ、この点についてはちょっと枝葉末節の揚げ足取りのような気がします。舛添さんは自分が能力的に、あるいは東京都知事が他の首長と比べて「トップ」だと言ったのではなくて、政治主体の長そのものが特別に重責を負う職位であるという意味だったものと解しています。

だとすれば、民意を背負った「トップリーダー」であればこそ、記者会見まで開いて行った知事の「言い訳」はあまりにお粗末でした。もし理由が先だってしたことなら、その理由を押し立てて主張すればいいわけです。ところが、「別荘」と突っ込まれて健康上の理由と言い出したり、「公用車」と突っ込まれて動く知事室とか言い出したり、「スイートルーム」と突っ込まれて警備の問題などといちいち質問を受けてから答えを捻り出しているようでは、おそ松どころかカラ松・一松・十四松です。

裏を返せば、これらの豪遊には共通した理由があると思われるのですが、かといって舛添氏が税金をつぎ込まなければ贅沢ができないような方とも考えられません。

で、ここからはただの私見なのですが、舛添サンは逆に「トップリーダーとはかくあるものだ」的な理想を追っているのではないでしょうか。もとをただせば、舛添氏は国際政治学で東京大学の助教授まで務めた人です。そこで、同じく一応は政治学を修めた者である私の目からみて直感的に感じたのが、彼はたとえばドイツ帝国建国の立役者ビスマルクや、ウィーン会議を主導したオーストリアのメッテルニヒおよびフランスのタレーランといった歴史上のビッグネームたちと、自分を並べてみているのではないかという点です。

いずれも、とりわけ外交を通じて多大な功績を残している大政治家たちです。一地方自治体首長という身分でありながら外遊を繰り返す舛添氏が憧れるには、十分な面々です。また、一挙手一投足にお金を使うという発想は良くも悪くも貴族的ですが、上掲の3人も貴族出身です。豊かさ具合で優劣をつけるなら、おそらく一番有名なビスマルクが意外なことに一番裕福ではないくらい、いずれも名家です。

こうした偉大な大昔の政治家たちの有様が頭にあって、トップリーダーでかつ教養もある自分は、モノを知っている政治家として他とは違った動き方をしなければならない。そして後世の教科書に、「立派なトップリーダー舛添要一は、その執政スタイルでも他と一線を画していました」とでも載ることを期待しているのではないか。そう考えれば、私のなかではすっきり説明がいくのです。

ですが、筋違いもはなはだしいのは、普通の感覚をもっていれば当然です。一言でいえば、舛添さんの「トップリーダー」観は時代遅れなのです。

まず第一に、舛添家は貴族ではありません。舛添氏自身、経歴的にみれば成り上がり者の部類です。そもそも今の日本には貴族制がありませんから、100年以上前の政治家と張り合っても意味がないのです。

第二に、ビスマルクら貴族政治家の政治生命は君主との信頼関係に大きく依存していましたが(ビスマルクは主君に見放されて失脚しました)、民主政の現代では政治家の政治生命は有権者が握っています。貴族政治家はどんなに民衆からのウケが悪くても、君主の寵愛を受けている間は、自分のやりたい政策に没入できたのです。毎度の選挙に当選しなければならない今日において、成果があればまだ多少の豪遊も有権者に目をつぶってもらえるかもしれません。ですが、現下の状況で2期目があると思っているなら、とんだ極楽とんぼでしょう。

さてはて、東京オリンピックは誰ものとで迎えるのか、エンブレムや競技場がどうこう言っている場合ではないような気がするのですが、今のところまだ私のなかでは対岸の火事です。