塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

大津いじめ事件所感 : いじめ定義の曖昧さ

2012年07月22日 | 社会考
     
 滋賀県大津市での学校・教育委員会のいじめ隠蔽問題に端を発し、再びいじめが社会問題としてクローズアップされている。私が小中学生だったころにも、いじめが社会問題として大きな関心を呼んでいたように思う。ただ、あのころと今回とで大きく異なるのは、インターネットの発達により情報の伝達速度が著しく上昇していることだ。昔も今も変わらず隠そうとしていることが、今日ではあっという間に広められてしまう。そうした情報技術の革新に追い着けず、従前の通りのシラ切りで嵐が過ぎるのを待とうとする学校や教育委員会の姿は滑稽にすら感じられる。

 大津市の事件から火が点く形で、あちこちのいじめ事件が取り上げられ、問題点が議論されるようになってきた。一連のいじめ事件報道を見聞きしていて私がもっとも問題だと思うのは、すでに方々でささやかれ始めていることだが、「いじめ」という言葉が語感的にも社会的にも非常に曖昧であるという点だ。いじめとは何ぞや、という定義が社会でまったく共有されていないところに問題の本質があるように思われるのだ。

 文部科学省の定義によれば、いじめとは「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」を指すのだそうだ。実際の教育や司法の場ではどのように考えられているのか分からないが、お国の出している定義なのだからこれを基準とみて差し支えないだろう。しかし、この定義は定義と呼ぶには曖昧に過ぎると私は考えている。「一方的」「継続的」「深刻な」と程度を示す言葉が3つも含まれているからだ。

 定義とは、あることがらが定義された事象に該当するかしないかを峻別する境界線となるものだ。定義が曖昧ということは、この境界線が線と呼ぶにはあまりに太くなり、どちらとも取れるグレーゾーンを生み出してしまうことになる。とくに、定義に程度を示す語句が入ってしまうと、2つの点で問題が生じる。ひとつは、程度を示す言葉の数だけ、別個に再定義が必要となるという点だ。すなわち、上記のいじめの定義でいえば、どこからが「一方的」で「継続的」で「深刻」なのか、というところで個々人の解釈の余地を与えてしまうことになる。極端な話、一度でも抵抗を試みれば「一方的」ではなく、1日でもいじめがたまたまない日があれば「継続的」ではなく、学校に来られていたのだから「深刻」ではないと言い張られてしまえば、「いじめはなかった」と結論づけても定義上は問題がなくなってしまうのだ。事件が起きた大津市立皇子山中学校長の記者会見で、記者の1人が「それでは何があったらいじめと認定されるのか」と質問し、校長が返答に窮するという場面があった。校長の保身的態度が言語道断であることは言うまでもないが、そもそも国の定義がもっとしっかりしていれば、校長にもじょもじょと言い逃れさせる余地をなくすことができたはずなのだ。先の記者の質問には、実は国ですら答えをもっていないのだ。

 ふたつ目の問題点は、程度を示す言葉が入ってしまうことにより、本来客観的な基準であるべき定義が主観的なものになってしまうところにある。「一方的」であったか、「継続的」であったか、「深刻」であったかの判断が個々人に委ねられてしまうため、結果いじめであったか否かも個々人の判断に拠ってしまうのだ。この点が、「いじめとは思わなかった」と言われてしまえばそれまで、という状況を生んでいる最大の元凶なのだ。文部科学省は、前出の定義に加え、いじめか否かの判断は受け手の立場を尊重すべきであるという見解を出している。平たくいえば、種々のハラスメントと同様、「いじめられている側がいじめと感じればそれはいじめである」という見方である。これは、一見するといじめられている側に配慮した、いじめのあぶり出しに有効な見解のように思われる。しかし、この付言によって逆にいじめの判断基準から客観性が排除されてしまい、現場でどうとでも揉み消せてしまう温床となりうるのだ。

 大津市の事件では、担任の教師がいじめた側と自殺した生徒の双方を呼んでいじめの有無を訊いたという信じがたい話が伝わっている。そのような場で、面と向かって「彼にいじめられています」などと言う生徒がいる訳もなく、担任教師がいじめなどなかったと被害生徒に言わせるために仕組んだのではないかとすら疑わせる話だ。では被害生徒だけ呼んでいれば良かったかといえば、そうでもない。教師が「深刻なのか?」と訊ねたならば、おそらく生徒は「いえ…」と口ごもっていたことだろう。いじめられている人間というのは、萎縮して周囲に遠慮がちになってしまうものだ。犯罪要件の成否を被害者の主観に委ねるということは、被害者のためを思っているようでそうはならない場合が少なからずあるように思う。

 上記の問題が具現化してしまったのが、今月9日の埼玉県北本市いじめ自殺訴訟判決だ。2005年10月に自殺した当時中学1年生の女子生徒の両親が、市と国に「いじめの防止義務を怠った」など として計7600万円の損害賠償を求めた訴訟である。判決では、いじめをうかがわせる事実を認定しながら、「一方的、継続的ではなく、自殺の原因になるようないじめがあったとは認められない」として原告の訴えを退けた。はじめから原告敗訴ありきだったのではないかとすら疑わせるほどの不当判決だと感じているが、ここでもいじめ否定に利用されたのは、「一方的、継続的」ではないという私が前述した定義の曖昧さである。いじめの定義が客観的な事実認定に基づくものではなく、主観性に委ねられる余地をもっていることが、このような解釈を許してしまっているのである。

 したがって、大津の事件で再びクローズアップされたいじめ問題から浮かび上がる喫緊の課題は、いじめの定義をより厳密かつシンプルにすることだ。そして、望むらくは「いじめ罪」なような刑事罰を制定してもらいたい。大津の事件では、暴行罪や傷害罪、恐喝罪といった個々の案件として捜査されているが、これらとは別に客観的な事実認定に基づく「いじめ罪」を導入し、何をすると「いじめ」なのか、そして「いじめ」は社会的に許されない罪なのだということを生徒たちに理解させる必要があると思う。今回の事件で、学校に警察の捜査が入ったことを異例で異常なこととする風潮がある。しかし、私にいわせれば学校が捜査対象となることを異常だと感じることが異常だ。学校だけが聖域視されて、信賞必罰の理から外れてよいということはないと思う。

 さて、ではいじめの定義とはどうあるべきか。ここからはまったくの個人的意見となるが、私が考えるに、いじめは加害者側が被害者側に対して優位な状況が創出されるところからはじまる。いじめる側は常に勝てる戦いをしたいわけで、そのために常に自分(たち)が優位である関係を構築し、その上で相手を虐げることで快感を得ている。つまり、ダメージが深刻かどうかとか、継続的であるかどうかなどということとは関係なく、優劣の決定した状況で苦痛が与えられれば、それはたとえ1回ぽっきりでもいじめであると考えている。多数が少数に、上級生が下級生に、先生が生徒に、健常者が障碍者に(ちょっと誤解を生みそうだが)といった具合に、優位にある者が劣位にある者に対して精神的・肉体的に苦痛を強いるようなことがあれば、深刻かどうかにかかわらずりっぱないじめである。上司が部下に、納入先が下請けにといった場合を考えれば、大人の世界でもいじめは至る所にはびこっている。したがって、今私のなかにあるいじめの定義を挙げるならば、「加害者と被害者の力関係の優劣に依拠して、精神的・肉体的苦痛を与える行為」となる。私がここで強調したいのは、いじめの構成要件は「力関係の優劣に依拠し」、「精神的・肉体的苦痛を与える」という2つだけで成立するという点だ。もちろん、この定義でも「力関係の優劣の有無」を何をもって判断するかというポイントが課題として残るが、それでも文科省の定義よりはずっと単純明快で要点をついていると考えている。

 今挙げたのはただの一私案に過ぎないが、大津の事件を機にいじめの再定義と罰則化が待ったなしの急務であることは疑いのないところであろう。政局の力関係のことで頭がいっぱいの政治家たちに解決する能力があるのかは甚だ疑問だが、世間での議論の高まりを通じて、立法・行政、次いで司法と突き動かされていくことを期待するより他はないように思われる。