静岡県の天竜川で川下り船が転覆し、いまだに行方不明者が見つかっていないという痛ましい事故が起きました。私なんぞは25mも泳げない超カナヅチですので、もしその場に居合わせてしまったらなす術もなく溺れ死んでいたことでしょう。
天竜川の川下りと聞いて、私は当初もっと上流の秋葉街道沿いあたりでやっていたのだろうと思っていました。ところが、今朝の新聞に掲載されていた現場の地図をみると、現場はやや下流の浜松市天竜区にある城山の直下ということでした。私はこの現地図を見て驚きました。
というのも、この城山には、戦国時代に二俣城という城がありました。三方を天竜川とその支流の崖に囲まれた天険の要害の城です。この城では、かつて有名な三方ヶ原の戦いの前哨戦が行われました。元亀三年(1572)、二俣城に攻め寄せた武田信玄の軍は、城兵の20倍以上の兵力を擁していましたが、要害の二俣城を力攻めでは落とすことができませんでした。
そこで信玄が思いついたのは、水の手を絶つ戦法でした。二俣城は城内に井戸がなく、今回の衝突事故があった側の崖に櫓を組み、そこに釣瓶を垂らして天竜川から水を汲み上げていました。そこで信玄は、上流から大量の丸木いかだを流し、水の手櫓に激突させました。これにより櫓は破壊され、水の手を切られた二俣城はまもなく降伏を余儀なくされました。三方ヶ原の戦いを取り上げた歴史群像シリーズの雑誌などには、粉々に砕け散る水の手櫓のようすがイラストに描かれています(多少誇張されているようにも感じますが)。
流した筏が激突した衝撃で櫓1つ壊れるからには、素人目に考えても相当な急流であったと思われます。もっとも、現代では治水・利水により、水量や流路、流れの速さなどは当時とは異なっているかもしれません。ですが、今回事故が起きた現場は、そういった過去をもつ、いわくのある場所なのです。
私が今回の事故現場が二俣城直下であることを知ったとき、真っ先に思ったのは「よりにもよってそこが航行ルートなのか」ということです。私だったら、先のような歴史を知っているので、とても乗りたくはありません。たとえ上流にダムだなんだとできて昔よりも穏やかになっているとしても、です。今回の事故では、一番の焦点は救命胴衣の着用義務云々というところにあるようですが、私としては同時にルートの選定に問題があったのではないか、という点も大きく気になっています。
急流大国日本では、全国いたるところに川下りがあることと思います。そのルート選定や許可・認可の基準がどこにあるのか、またあるのかないのかは分かりません。ですが、もしないのだとすればこれを機会に設ける必要があると思いますし、あったとしても、今一度見直しの上全国の川下り運営会社に調査を入れる必要があるのではないかと考えています。