塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

麻生首相と庶民感覚

2008年11月02日 | 政治
  
 先月の記録的な円高に、とうとう僕もユーロを買いにいそいそと出かけてしまいました。ただ株は全く触ってもいないので、連日の金融危機報道は対岸の火事のように眺めています。

 こうした金融不安や物価高騰、食料不安などに絡んで、マスコミなどでは最近麻生総理の「庶民感覚」がクローズアップされるようになってきました。一般国民の苦しい生活や先行きの不安をどの程度身をもって理解できているか、という趣旨なのでしょう。しかしマスコミの報道は、お約束どおり論旨がどんどんずれていっているような気がします。

 スーパーの視察に行った後どこでいくらのものを食べただの、夜はどこのバーで飲んだだの、現実に進行する景気悪化にどう対処するのかという大目的に対して余りにも瑣末な話題が先行しすぎています。もちろん私人と公人の境目という点では重要な問題と言えるでしょうが、報道の優先順位や問題の扱い方を見るにバラエティー感覚でいたずらに突っついているだけ、という感じがしてなりません。

 果ては、民主党の議員が国会の委員会質疑で、「このカップめんが市場相場でいくらぐらいか?」という委員会の趣旨と全く関係のない話題を振ってマスコミに話題を提供し政争の具にしようとするという、なんとも次元の低い場面まで出てきました。

 もちろん麻生首相の方も、無防備すぎると言わざるを得ません。ドラマや漫画に出てくるような典型的な御曹司として生まれ育ってきたわけですから、自分が一般大衆からどう見られているかについては人一倍気を使って振舞う必要があるはずです。漫画好きというのはおそらくパフォーマンスでも何でもなく素なんでしょうが、その買い方は余りに大人買いで、いわゆるアキバのオタクたちとも本質的には一線を画しているように思います。

 ただし、ほとんど貴族出身の麻生総理に庶民感覚を体得していろということに、どれほどの意味があるのか大いに疑問です。実際に庶民がどんなカップめんをいくらですすっているのか目の当たりにしたところで、麻生総理が感じるのはカルチャーショックに過ぎません。たとえば『ベルサイユのばら』のオスカルは、パリの庶民が粗末なスープで飢えをしのいでいるのを見て衝撃を受け、フランス革命思想に傾倒していきますが、それは庶民への共感ではなくあくまで同情と憐れみです。マスコミのいう庶民感覚が分かっていないという批判は、国民に対して憐れみと施しの政治を行えという意味なのかと逆に疑問がわいてきます。

 政治は国民全体の利益を考えるものですから、当然庶民の生活を知らないでは済まされません。しかしそれは知っていれば良いものですから、たとえば「庶民生活担当秘書」でも私的に抱えていれば済む話です。つまり誰かが平均的国民生活の相場のようなものを調査してまとめ、首相がそれを「勉強」すれば政策には十分反映されうるはずです。

 結局一番の問題は、総理にも、そしてそれを批判するマスコミの側にも、その先にあるべき総理像がないことにあるように思います。特にマスコミは、揚げ足を取るだけとって「じゃあどういう政治家や政策ならOKなの?」と考えたときに何ら具体的なものを提示できないため、野党と組んでひたすら井戸端会議のネタを提供するだけの状態に陥っています。

 困難な政局や政情にあって、麻生政権になかなかヒットが出てこないのは事実です。だからといって、被害者感情に訴え不安を煽るだけの野党やマスコミに踊らされるのも、賢い姿勢とは言いがたいでしょう。解散総選挙がいつになるか分かりませんが、その際には刹那的近視野的な感情で判断するのではなく、アメリカ大統領選挙のように今後最低4年の代表を選ぶのだという責任をもって我々も政治に参加したいものです。