世の中に争い、諍いの類は絶えない。戦争や内乱、災害、事故からごく身近の人間関係の不協和音まで、とめどない悲報を聞く。だからこそ、教会の働きがある。教会は、内輪だけに通じる特殊な話で、クリスチャンたちを安心に浸らせるところではない。聖書をベースにしているという意味では特殊な話だが、決して現実離れしたものではない。聖書は、クリスチャンのためだけにあるものではなく、読んでおいた方がよい、と言うものではない。神様の言葉である聖書は、読まなければならないものなのだ。聖書に書かれている事柄は、遅かれ早かれ、私たちの上に実際的に起きてくる。だから、聖書を読もう!と言っても、読み進む上で障害は多いのは事実で、本好きでも躊躇し、本を読み慣れない人にとっては、もって3分、2ページに進むのは至難の業だ。そこで本邦初公開、「えんぢぇるの30分de聖書」。
まず、新約聖書の最初、マタイ福音書1章1節を開くと、目に入るのは見慣れないカタカナ名前の羅列。ユダヤ民族は家系図を大切にする国民であり、家系図はアイデンティティの根幹、お家の宝、家族の誉、である。しかし、その彼らがこのイエス様の系図を見たら、女性、しかも不倫事件の当事者や娼婦の名を含んでいるようなあり得ない記録に目を剥いて、なんじゃこりゃ!と叫ぶはずの代物だ。
そして日本人にとっても、超難関の第1ページと言えるだろう。三浦綾子さんは、「新約聖書がルカ福音書から始まっていたら、より多くの日本人がもっと聖書を読むかもしれない。」と仰っていた。しかし、マタイ福音書のこの系図から始まることに、大きな意味、神様の意図がある。この系図は、古い契約である旧約と新しい契約の新約聖書を繋ぐ連結器の役割を果たしているのだ。そして、イエス・キリストは、人類の罪と破綻の末にこの地に来られた救世主という宣言でもある。
聖書は人のために書かれているが、人の都合に合わせては書かれていない。
聖書には、「何もこんなこと書かなくても!?」と思うような事件が少なからず記載されている。モーゼは殺人者、ダビデは不倫の末、忠実な部下である相手の夫を謀殺し、彼の妻を奪った凶悪犯、使徒言行録5章をツラッと読めば、ペテロは理解に苦しむカルト集団の祖??。そんな、後世に残したら誤解されかねない事件も、聖書にはそのまま記されている。そんことについて、えんぢぇる師も長年疑問に思っていた。「聖書には何故、このように愚かで、残虐極まりない話しが記載されているのか??」ところがその問いかけに対し、神様はこう答えられたと言う。『それが偽らざる人間の姿なのだ』と。
聖書はきれいごとでなく、究極のリアリズムがありのままに記されている。
聖書は、神様と人間との約束の書である。神様は、イスラエルという民族を来るべき全人類救済計画のプロトタイプとして選び、その存在を定められた。彼らが如何に弱くて、愚かで、邪悪であっても、神はその約束を変更することなく、貫かれた。「神様がいるなら、なぜこんなことが?」と、多くの人が言うが、神からの助けがなければ、イスラエルなどという小さな国は、とっくの昔に滅んでいたのである。
その神様の究極のリアリズム、究極の救済が、イエス・キリストの十字架である。見せしめのためにじわじわと生殺しにする正にサディズムの極致。「何故、こんな血なまぐさいことが?」いや、この半端ない方法でしか、人間を救うことはできなかった。この残酷極まりない十字架刑を通らなければ、救えなかったほど、人間の罪は大きかったのである。
「信じるだけで救われる」。この背後には、慄然とした根拠がある。それがイエス・キリストの十字架である。本当は救いはタダなどではない。値段などつけることができない尊い命の代償があったからこそ、イエスの十字架様を仰ぐ人々に、救いが訪れるのだ。
聖書のリアリズムは、私たちを実際に救い出すための現実である。
人生にはいつ何時、何が起こるかわからない。先が見えない苦難の中から私たちを救い出してくださるのは、イエス様だけ。過去にどんな過ちを犯した人でも、その人を救い出せるのは、すべての罪を背負って十字架で罪を償ってくださったイエス様だけなのだ。それは、かつて英雄と称えられたナポレオンの最期の信仰告白(遺言)で、実証されている。
私は大胆に「キリストを信じます。」と大声で告白できなかった。そうだ、私は自分がクリスチャンであると告白すべきだった。しかし私は今、セントヘレナ島にあって、もはや遠慮する必要はない。
私は私の心の底に信じていた事実を告白する。私は永遠の神が存在していることを信じる。その御方に比べたら、バートランド将軍よ、あなたはただの元首に過ぎない。
私のすべての能力を持ってしても、このお方と比較する時、私は無である。完全に無の存在である。私は永遠の神キリストを認める。私はキリストを必要とする。私はキリストを信じる。
今、私はセントヘレナの島に繋がれている。いったい誰が私のために戦って死んでくれるのだろうか。誰が私のことを思ってくれるだろうか。誰が死力を尽くしてくれる者があるだろうか。
明日のわが友はいずこへ。ローマ皇帝カイザルも、アレクサンダー大王も、忘れ去られてしまった。私とて同様である。これが大ナポレオンと崇められた私の最期である。
イエス・キリストの永遠の支配と、大ナポレオンと呼ばれた私の間には深くて大きな隔たりがある。キリストは愛され、キリストは礼拝され、キリストの信仰と献身は全世界を包んでいる。これを死んでしまったキリストと誰が呼べるだろうか。
イエス・キリストは永遠の生ける神であることの証明である。私ナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。しかし、イエス・キリストは愛の上に彼の王国を打ち立てている。 (上の写真は現在シカゴの国立図書館に保管されているナポレオンの直筆遺書)
今週の教会ご飯/みんなでワイワイ、鉄板焼そば
ロサンゼルス(グレンデール)の家の教会で、毎週集まっています。美味しい食事を囲みながら、えんじぇる田中牧師の聖書メッセージから、生きる知恵と希望を語り合いましょう 「教会って敷居が高い。。。」と悩んだこがのある方、ぜひ一度おいでください。教会は平和と笑いと聖霊様の満ちるところ。いつでもご連絡ください213-324-6942 / MUTSUMI
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