見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

中国★美の十字路/森美術館

2005-07-18 23:17:14 | 行ったもの(美術館・見仏)
○森美術館『中国★美の十字路展:後漢から盛唐へ』

http://www.mori.art.museum/html/jp/index.html

 森美術館で、この夏、中国美術展をやっていると気づいたのは、つい最近のことだ。だいたい国立や公立の美術館に行くと、同種の施設のポスターやチラシがあるものだが、森美術館の情報には、全く接することがなかった。たぶん全く違う方面に、広告戦略を広げているのだろう。連休初日、友人を誘って、おのぼりさん気分で六本木ヒルズにある森美術館を訪ねた。

 結論から言えば、見応え十分。会場入り口に掲げられた巻頭言を読んだ友人が、この場に及んで「200点以上も出てるのか!」と驚いていたが、普通に見ると2時間はかかる。質も高い。美術品と考古遺品では比べられないところもあるけれど、個人的な評価では、江戸博の『シルクロード展』(これもよかったけど)に優り、昨年の『中国国宝展』並みだと思う。

 中国の14の省・市・自治区、43ヶ所の機関から出品されているとのことだが、甘粛省の武威、新疆ウイグル自治区からの出品が目立ち、中国固有の(漢民族)文化よりも、東西文化の交流軸(シルクロード)が強調されているように思った。それから、内蒙古、寧夏、山西省の出品も多くて、北方騎馬民族・遊牧民族文化の影響を重視した構成である。

 見どころのひとつは、近年、急速に研究が進んでいるというソグド人に関する文物。山西省太原市出土の棺槨は、赤みを帯びた白大理石に、ゾロアスター教の祭祀など、ソグド人の風俗を彫り付けた興味深いものだった。

 古代ガラスの切子杯、ギリシャ神話の一場面を描いた銀の水差などは、シルクロードを渡って運ばれ、東西両世界で珍重された美の粋である。金に白玉や宝石を配した盛唐の宝飾品は、今でも十分に通用する趣味のよさを備えていて、「美の十字路」の名を裏切らない。

 一方、なんだかよく分からない不思議な文物も混じっていた。STAR WARSのアミダラ女王みたいな女子俑とか、ノコギリ(?)を構えた巫師俑とか。内蒙古など、辺境地域の俑は、人物も動物もかなり異形である。人間に比べて異様に大きく造られた駱駝の俑は、以前にも見たことがあったが「西域から富を運んでくる駱駝は、豊かさの象徴であった」という解説を読んで、初めて、そうか!と膝を打った。

 それから、甘粛省出土の木製の一角獣、新疆出土の木製の鎮墓獣、木製の天王俑。中国も初めから青銅器文化だったわけではなくて、古い木製品は(砂漠地帯を除くと)あまり残っていないということか。

 仏像も、『中国国宝展』でおなじみになった、山東省青州市龍興寺の出土品をはじめ、多数来ている。壁画あり、織布・刺繍あり、玉製品あり、拓本あり。とにかく、何でもあり。中国美術に何の興味もない人でも、たぶん1つくらいは「これ、かわいい!」というお気に入りを見つけることができるだろう。

 同じチケットで、併設展『フォロー・ミー!:新しい世紀の中国現代美術』も見ることができる。会場を出たときは、既に日もとっぷり暮れており、展望台で東京の夜景を楽しんで帰った。(22:00まで開館というのは嬉しい。国公立の美術館も、もうちょっとがんばれ!)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊本のやきもの/永青文庫

2005-07-17 22:37:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
○永青文庫 夏季展『熊本のやきもの-八代焼』

http://www.eiseibunko.com/

 展示品の主となるのは、別名を高田焼(こうだやき)とも言われる八代焼である。永青文庫のサイトには、茶色の地に大きな牡丹の花を描いた陶器の写真が上がっていて、ふーん、磁州窯に似ているかしら、と思って出かけたら、ぜんぜん違った。

 初期の作品は、褐色や黒色を用い、厚手で古拙な味わいがある。しかし、江戸中期以降、青緑色の地に、白泥の象嵌で繊細な花鳥文様を描いたものが主流である。ひとことで言えば、高麗青磁そっくり。今でも韓国の博物館や観光地のお土産屋さんで見るやきものそっくりだった。

 まあ、九州のやきものは、有田だって伊万里だって、朝鮮半島から連れて来られた陶工の存在なしには、あり得なかったわけだが、これほど似ていると、どうして独自の発展をしなかったのか、ちょっと不思議である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな物語/なぜ「話」は通じないのか

2005-07-16 12:47:43 | 読んだもの(書籍)
○仲正昌樹『なぜ「話」は通じないのか:コミュニケーションの不自由論』 晶文社 2005.6

 講演会で、演者の「話」を聴かない人々が増えている。私語やケータイいじりをやめられない若者だけではない。悪質な聴衆は、ウズウズしながら質問タイムを待っている。彼らがしたいのは、当日の講演内容に関する質問ではなく、自分が日頃、思っている意見を、公衆の前で披露することだけだ。同じような「コミュニケーション不全」は、学者や知識人どうしの論争にも、一般人のネット上の書き込みにも見られる。なぜ、こんなことが起こるのか?

 第1章では、上記の実例を、著者が司会をつとめた、あるシンポジウムでの体験をもとに報告する。「悪質な聴衆」に対する糾弾は、相当に厳しい。著者は「あとがき」で、自分はむしゃくしゃした体験をそのまま活字にしたりしない、ある程度、時間が経って、他人事のようになった時点で「ネタ」として再構成するのが「まともな物書き」だ、と書いている。しかし、大学のセンセイが(ネタであっても)こういう手厳しい糾弾を活字にすることに慣れていない読者は、ちょっと「引く」だろうなあ、と思った。実際、私も、この章は「そこまで言わなくても」「大人気ない」という引っかかりを感じながら読んだ。

 第2章以下は、こうした「コミュニケーション不全」が起きる理由を、理論的に解明したもので、私はここから初めて、わくわくする面白さを感じた。学界ゴシップの好きな読者は第1章を面白がるだろうが、私は、だんぜん第2章以下を買う。行間に颯爽とした著者の姿が見えるようだ。

 乱暴に要約してしまえば、「歴史=大きな物語」の衰退のあと、我々のまわりには「小さな物語」が乱立するようになった。その中には、フーコーの「ミクロ権力論」とか「カルチュラル・スタディーズ」のように、目立たないかたちで日常生活に張り巡らされた「権力」の網を暴露し、対抗しようとする、比較的まともなものもある。

 しかし、大多数の人々は、「小さな物語」にこだわるポーズを取りながら、結局は、白黒のはっきりした「大きな物語」を描いてしまう。一方では、知的経験が乏しいため、自分の「物語」が陳腐なものであることに気づかない。一方では、自分の主張と過去の大思想家に何らかの共通点を見つけると、権威に寄りすがって「私と大先生の物語」を作り上げようとする。また、弱者を単一のカテゴリーに押し込めて、自分がその代弁者になれると思い込みがちである。

 根底にあるのは、「二項対立」的思考法の不毛である――というわけで、本書もまた、安直なディベート教育の弊害を指摘している。別稿でも述べたように、私は、つい最近、生まれて初めて「ディベート」実習というものを経験した。はっきり書いておくと、人事院関東事務局が主催した「女性職員キャリアサポートセミナー」という研修でのことだ。そのとき感じた「なんだかなあ、これは」というモヤモヤが、このところの読書によって、だんだん明晰に言語化できるようになってきた。その点では、逆説的に、あの研修は非常にタイムリーで有意義だったとも言える(誰か、人事院の関係者、ここ読んでくれないかな)。

 本書の後半では、「噛み合わない論争」の例として、イラク人質事件をめぐる「自己責任論争」を検証している。人質と日本政府と、どちらの応援団も、論理的な錯誤を犯しているという指摘で、いま読むと、非常に首肯できる分析である。でもなあ、当時は応援団も観衆もむやみにヒートアップしてたし、私自身も、両応援団のどちらの態度に「より多く不快感を感じるか」が尺度になってしまって、本書のような冷静な分析はできなかった。

 もうひとつ、高橋哲哉と加藤典洋の「戦後責任論争」の分析も興味深かった。著者は、高橋が批判の対象とした加藤の「(自国の死者を悼むことを)先に置く」という言い回しに「優先する」というニュアンスを読み取るのは、高橋の深読み(ただし許容される範囲の)であり、加藤の意図は形式的に「先に置く」ことでしない、とする。そして、加藤は高橋の「(汚辱の記憶に)恥じ入りつづける」という言い回しに、無自覚な共同体意識(=隠れたナショナリズム)を看破している、実はこれこそ加藤が「自国の死者の哀悼」を通じて克服したいと考えたものだ、と続ける。

 う~そうか、そうだったのか。だとすると、高橋哲哉と加藤典洋の立ち位置って、そんなに離れたものじゃないじゃん。離れたものでないから、この論争、分かりにくかったのだろうか。しかし、正直なところ、私はまだ、加藤典洋の「先に置く」という文学的表現を、正確に理解できている自信がないのだけど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おじさんたちの放談/言論統制列島

2005-07-15 23:34:59 | 読んだもの(書籍)
○鈴木邦男、森達也、斎藤貴男『言論統制列島:誰もいわなかった右翼と左翼』講談社 2005.6

 斎藤貴男は高橋哲哉との対談本を、森達也は姜尚中との対談本を読んだことがある。私の整理では、2人とも、どっちかといえば「サヨク」の側の発言者である。鈴木邦男は、むかし、雑誌「SPA!」を読んでいた頃に名前を覚えた。あまり印象に残る発言を記憶していないが、右翼を名乗っているはずだ。というわけで、立場の異なる3人の鼎談本。ちょっと面白そうだと思って買ってしまった。

 あとがきで、鈴木邦男は「よく思い切ってこれだけのことを言ったもんだ」と自画自賛し、「どうせ編集が危ない発言を削るのだろうと思っていたら、そのままなので驚いた」という趣旨のことを語っている。しかし、私は本書を、それほどのものとは感じなかった。

 飲み屋でクダをまいているおじさんみたいな(この比喩は、高橋哲哉と斎藤貴男の対談本にも使った)暴言、放言はあるけど、別に目新しくないし、面白くもない。「よく思い切って」とは、「こんな中流以下に生まれたら最後、どうせ兵隊か慰安婦にしかされっこない世の中」(斎藤発言)とか「北朝鮮みたいな独裁者国家のほうが、支配されているという自覚があるだけまし」(森発言)などの発言を指しているらしいが、鈴木さん、ナイーブだなあ。いまどき、こんな発言、誰も驚かないのに。

 まあ、それでも、いまの社会の息苦しさの根底には「何がなんでも二項対立」という風潮があり、ジャーナリズムがそれを煽っているという指摘は、私の実感に合致している。これに対して、森達也が、子供の頃に読んだ『泣いた赤鬼』の衝撃を語って、むかしの童話や漫画には「この世は単純な善悪では割り切れない」ということを教えてくれるものが多かった、という発言は感銘深かった。いまの小中学生には、中途半端なディベートを教えるより、『泣いた赤鬼』や『ごんぎつね』の深い意味を噛み締めさせるほうが先じゃないか。

 むしろ面白いと思ったのは、3人が自分の半生を具体的に語った部分である。鈴木邦男でいえば、生長の家と産経の反共的親和性とか、産経新聞の大リストラとか。森達也の父親は、バリバリの左翼活動家から一転して海上保安庁に入ったとか。それぞれの個人史に、日本の戦後史の一断面が照射されていて面白い。

 そのほか、昭和16年に「独身税」法案が閣議決定されているとか、イラクに派遣されている自衛隊員の特別手当が1人1日2万円であるとか、未確認だが、気になる情報が、散見する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立ち読み写真集/渋谷道

2005-07-13 12:45:10 | 読んだもの(書籍)
○Beretta P-05撮影『渋谷道』 雷鳥社 2005.6

http://www.raichosha.co.jp/photo/pt9.html

 これは立ち読みしただけで、結局、買わなかったのだが、無視するには惜しい本なので、敢えて紹介しておく。

 日本全国、どこへ行っても街に掲げられた「○○区○○○丁目○○番地」という番地表示。青地に白文字の書かれた、短冊状の金属札である。本書は、「東京都渋谷区全番地…計2,862、撮ってこい!」という指令のもと、120人のカメラマンが、渋谷区内の全番地の撮影を敢行。番地表示の金属札と、その周辺の風景を4,500枚の写真に収めた写真集である。

 それだけ?と言われれば、それだけのことだ。私は渋谷区の住人なので、感慨深く眺めた。いつも歩いている番地のはずなのに、写真の撮り方次第で、知らない町のようにイメージが変わる。ほとんどの写真は番地表示が主役なので、わずかな周囲の風景から、うーむ、この塀は...と記憶をたぐってみるのも、推理ドラマのようで楽しかった。

 他の地域の人には、何も面白くないかしら。でも、東京なんてテレビでしか知らない、という人にとって、「渋谷」という地名は繁華街のイメージが強いと思うので、「渋谷区内」には、けっこう裏ぶれた住宅街もあるのだ、ということに、びっくりしてもらえるかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再登場/帰ってきたもてない男

2005-07-12 12:15:57 | 読んだもの(書籍)
○小谷野敦『帰ってきたもてない男:女性嫌悪を超えて』(ちくま新書) 筑摩書房 2005.7

 『負け犬』(続編)の後に『もてない男』(続編)というチョイスもどうかと思うが、実際、書店の棚で、両者が微妙な距離をおいて並んでいるのを見たときは苦笑してしまった。なんだかな、このニッポンの状況。

 どうかと思うといえば、「もっともてなくなって再登場!」というオビの宣伝文句。だって小谷野さん、結婚なさったはずじゃ、と思ってページをめくってみたら、表紙の見返しの内容紹介に「ついに、あの男が帰ってきた! 一度は結婚し、裏切り者呼ばわりもされたが、今また、独り身になり、より弱気になって帰ってきた。」って...ひえ~そうだったのか!

 実は最近、本書とは全く無関係に、職場で『もてない男』が話題になり、「読みたい」という同僚が現れたので、「あ、それなら貸してあげる」と請け合って、久しぶりに書棚から引っ張り出したばかりである。1999年1月刊行で、その年のうちに10万部を刷ったというが、私が持っているのは初刷である(ちょっと自慢)。あれから6年も経つかあ、と感慨深く思っていたところだ。

 その後も小谷野氏の著書はいくつか読んでみた。『もてない男』に先行する著作で、具体的な文学作品を論じた『夏目漱石を江戸から読む』や『「男の恋」の文学史』は面白いと思ったけれど、その後の身辺エッセイやライト恋愛論の類は、あまりパッとするものがなくて、最近は読み控えていた。

 というわけで、著者とは久しぶりの再会である。腹を括って『もてない男』の続編をうたっただけのことはあり、正編(?)に横溢していた「切れのよさ」を彷彿とさせて、うれしい。やっぱり、この手の本は、著者に身を切る覚悟がないと面白くない。本書には、テレクラ、出会い系サイト、そして結婚情報サービス(会社の実名入り)のリアルな体験談が綴られていて、非常に興味深かった。

 著者も言うように、30代後半・未婚で書いた正編と、40代・離婚歴ありで書いている続編には、微妙なトーンの差がある。これは結婚経験の有無よりも、年齢の差から来ているように思う。自分のまわりに鑑みても、30代後半というのは、いまの日本(都会)では、ギリギリ「晩婚」を笑って語れるラインだが、さすがに40代に入ると、結婚するもしないも、もう個人の自由、という段階に入って、周囲の扱いもソフトになるので、本人もいくぶん楽になるのではないか、と思う。

 著者はあいかわらず「才色兼備」の女性が好きだ、と言い放つのだが、これって、”負け犬”酒井順子さんの「つまらない男は嫌い」と、ちょうど対をなしているように感じた。

 しかし、著者のように「もてない=恋愛(結婚)できない」ことにこだわる男性って、もはや少数派なんじゃないだろうか。著者ぐらいの怨念と執心があったら、そのエネルギーで1回くらいは結婚できそうなものだが、それもない(ように見える)男性のほうが、実際、私の周囲には多いのだけど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

負け犬実践編/その人、独身?

2005-07-11 00:31:32 | 読んだもの(書籍)
○酒井順子『その人、独身?』 講談社 2005.6

 『負け犬の遠吠え』の著者による最新エッセイ集。前著『負け犬』は、主に女性読者をターゲットにしており、「あなたにも、分かるでしょ?」的なトーンがあり、実際”負け犬”のひとりである私も、「分かります」と深くうなづく気分で読ませていただいた。

 本書は、男性雑誌「週刊現代」に連載されたエッセイで、「話題になった”負け犬”って、どういうものなの? うちの職場にもいるんだけど、彼女たちは何を考えてるの?」というサラリーマンに対し、著者は、サービス精神たっぷりに、”負け犬”女性の日々の生活を、具体的なエピソードを取り上げて語ってみせる。前著が理論編なら、本書は実践編、という所以である。

 しかし、実践編を読んでみると、当然ながら”負け犬”にもいろいろあるので、激しく同意、という点もあれば、ここは違うぞ、という点もある。私が著者に賛同したのは、「つまらない男が我慢ならない」「男性はおまりお洒落すぎない格好をしてほしい」「敬語がタメ口に変わる瞬間が好き」など。

 でも、私は「シモネタ好き」には入らないな。振られたら平然と受け流してしまう程度の許容力はあるけど。あと、”負け犬”女性には歌舞伎好きが多いらしいが、この趣味もない。同じ伝統芸能でも、文楽のほうが芝居としての純度が高いので男性ファンを惹きつけるというが、私は文楽ファンである。というわけで、本書を読んだおじさんたちは、年々増え続ける”負け犬”を、単一のカテゴリーでは見ないように願いたい。

 ところで、著者の「琉球事件」は、男女二人きりで旅行しても誘われなかったというもので、いまどきの高齢未婚男女なら、そう珍しくないと思うのだが、あえて「事件」と呼んでみせるのは本気か、それとも週刊誌読者へのサービスか?(私も身に覚えがあるのだが)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢見る官僚たち/博物館の誕生

2005-07-10 00:21:29 | 読んだもの(書籍)
○関秀夫『博物館の誕生:町田久成と東京帝室博物館』(岩波新書)岩波書店 2005.6

 東京国立博物館には、よく通っている。しかし、私は、東京帝室博物館(東京国立博物館の前身)の実質的な創設者である町田久成(1838-1897)という薩摩藩士の名前を、本書で初めて知った。また、東京帝室博物館の創設に、さまざまな思惑の衝突と、こんな壮絶なドラマがあったことも。

 博物館の生い立ちは国によって異なる。ロンドンの大英博物館やパリのルーブル美術館の場合は、展示公開すべき資料があって、施設の構想が立てられた。しかし、日本の明治新政府には、資料など何もなかった。ただ、町田久成の「日本にも、博物館をつくりたい」という一途な夢だけが、全ての出発点になった。

 そもそも町田は外務官僚として新政府に出仕した。しかし、外務卿との意見の食い違いから、大学(文部省)への異動を命じられる。しばらく抵抗していた町田は、「博物館をつくる」という、自分なりの新しい目標を見つけて、ようやくこの人事を受け入れる。英国留学の経験を持つ町田がお手本としたのは、大英博物館だった。それは、第一に「文化財の収集と保護」「美術の勧奨」を目的とした人文系の博物館である。第二に博物館と図書館が合体したものでなければならない。

 ところが、同僚の伊藤圭介や田中芳男は、一過性の「博覧会」を最終目的と考えており、常設の「博物館」を目指す山田の意図を理解しなかった。そこで町田は、太政官の下に組織を移し、本格的な資料収集と用地の取得に乗り出す。このとき、町田は、文部省の所管だった物産資料や図書を取り上げるかたちとなり、文部大輔田中不二麻呂の激しい抗議を受ける。

 また、町田が博物館用地として目をつけた上野の山は、文部省が「文教地区」(学校や病院)に使用する予定だった。町田と同郷の大久保利通は、この計画を無理やり白紙撤回させる。博物館と文部省って、親戚みたいなものだと思っていたのに、こんな激烈な闘争があったとは、驚きだった。

 さて、博物館の着工にこぎつけたところで、大久保利通が死去。工事は中断を余儀なくされる。予算獲得のため、町田は、できた博物館を皇室に献上することを思いつく。これが、皇室の資産を増やしたいと願う岩倉具視の思惑と合致した。

 一方、内務省の田中芳男らは、町田の「大博物館」を勧業博覧会の会場として使うことを主張。対抗策として町田は、井上馨の協力を得て、収集済みの資料を保管していた内山下町(今の帝国ホテル付近)の施設を、鹿鳴館建設用地として引き渡し、上野への移転を強行する。

 また、田中は、上野の博物館に動物園と植物園を併設することを要求。最終的に町田は動物園の設置に妥協したが、動物園用の経費は認められなかった。明治15年(1882)、博物館の開館に当たり、田中は「内山下町に残っていた廃材をかき集め、粗末な動物小屋の囲いをつくり」開園の準備を整えたという。うわあ、上野動物園って、こんな悲惨はスタートを切っているのか。博物館と動物園の間にこんな確執があったというのもびっくり。

 最大の波乱はこのあと。開館から7ヶ月後、初代館長の町田久成は、突如解任される。後任に迎えられた田中芳男は、従来の持論に基づき、町田の博物館を、勧業博覧会の常設展示場に戻そうとしたが、周囲の非難を浴び、二代目館長の田中もわずか7ヶ月で退任する。その後、町田は公の場を退き、上野の山の近傍でひっそりと暮らしたらしい。

 明治22年、九鬼隆一が館長に就任、美術部に岡倉天心を迎えて「文化財の保護と美術の勧奨」という、町田の理想を具現化していく。また明治30年、上野に帝国図書館の建設が決まり、「図書館と博物館の連結」という、もうひとつの夢の実現を、町田は病床で聞き、同年死去。

 以上、長々と要約を書いてしまったが、どこかで名前を聞いたことのある明治の政治家・文化官僚が、多数登場する。彼らは、それぞれ少しずつ異なる「夢」を持っていて、その実現のため、時には衝突し、策を弄し、他人を陥れる。「夢」の純粋さに反して、やっていることの生臭さには、ちょっと言葉を失うものがあった。これからは、上野の山の雑踏をわたる風にも、少し物哀しいものを感じるかもしれない。でも、博物館を遺してくれた町田久成にも、動物園をつくってくれた田中芳男にも、とりあえず感謝したいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソロモン王の都/北京物語

2005-07-09 21:43:13 | 読んだもの(書籍)
○林田愼之助『北京物語:黄金の甍と朱楼の都』(講談社学術文庫)講談社 2005.6

 3000年前、燕国の首都「薊城」として、初めて歴史に登場して以来、さまざまな王朝の盛衰をくぐりぬけ、近代に至る北京の歴史を概括したもの。人物史中心で読みやすく、おもしろい。

 中心となるのは、元の建国から、明、清の三つの王朝である。とりわけ、清朝の最盛期、康煕、雍正、乾隆の三代の物語は、何度読んでも飽きない。不思議なもので、我々は「名君」の物語が好きだ。無名の民衆の活動に焦点を当てた歴史も面白いけれど、やっぱり、ひとりの超人的な「名君」が、どのように人々を心服させ、危機を除き、国力を高めていったかという物語には、よくできた小説を読む面白さがある。豊臣秀吉物語しかり、武田信玄物語しかり。まして中国皇帝となれば、難局も栄華もスケールが大きい!

 清朝三代の皇帝のうち、誰が好きか、と問われるとちょっと悩む。人格的な高潔さをいちばん感じるのは康煕帝かな。学問好きで熱心な読書家でもあった。一方、イメージは少し暗いが、短い期間に重要な政策を果断に実行した雍正帝も捨てがたい。治世の華やかさで群を抜くのは乾隆帝。爛熟と衰退の予感もまた魅力である。イギリスの外交官マカートニーは、間近に接した乾隆帝をソロモン王に見立てた。キリスト教信者としては、最大級の賛辞と言っていいと思う。

 「近代」をすぐそこに控えたこの時期に、歴史上有数の名皇帝が立て続けに出たというのは、中国にとって幸福だったのだろうか、不幸だったのだろうか。彼らが清国の富を蓄えたからこそ、西欧列強の容赦ない侵略に対して、中国があそこまで耐え得たとも言えるし、彼らのような人材が皇帝ではなく臣下の側に出ていたら?なんてことを夢想してみることもある。

 本書の最後を飾るのは、生粋の北京人作家、老舎が、小説『四世同堂』に託して描いた北京への思い。登場人物のひとり瑞全は、抗日戦線から戻って天安門広場に立ち、壮麗な故宮の建築に「永遠に死なない母親」を感じ取る。長い歴史を持つ王都に抱かれて生まれ育った者だけに分かる感覚かも知れない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被虜と漂流人/中世日朝海域史の研究

2005-07-07 23:44:57 | 読んだもの(書籍)
○関周一『中世日朝海域史の研究』 吉川弘文館 2002.10

 14世紀後半~16世紀後半にかけての東アジア海域における、主に日朝間の交流の変化を論じたもの。著者が2001年に筑波大学に提出した同名の博士論文に加筆訂正したものである。もとが学術論文であるだけに、史料に即した豊富な実例をあげ、堅実に論を進めている。大胆な推論や大雑把な要約がないので、素人が愉しみに読むには、ちょっとしんどいところがある。

 14世紀後半、同海域では倭寇が活発に活動し、中国・朝鮮人の略奪が頻繁に行われた。被虜人は筑前の博多や対馬で商品として転売され、奴隷として使役された。こう聞くと、前近代的で非人道的な話だと思って眉をひそめたくなるが、日本の公権力や地域権力は、しばしば、被虜人を解放し、送還することによって、明や朝鮮王朝に回賜品を求め、通交関係の契機を得ようとした。漂流人の送還にも同様の意味がある。中世人には中世人の倫理と世界システムがあったのである。

 また、「中世」とひとことで言っても、両国の政治事情(地域権力と中央権力、または地域権力どうしのバランス)によって、交流のありようは、さまざまに変化しているということを、実感した。

 明や朝鮮王朝が、冊封・朝貢体制や海禁政策によって、周辺海域に一定の外交秩序をつくろうと志向していたのに対し、(義満の一時期を除く)室町幕府の政策は、基本的に地域勢力の活動を黙認していた点で「むしろ東南アジアの港市国家との類似性を指摘できる」というのは、面白い見解だと思った(著者の独創ではない)。

 実は、先日のれきはくの展示『東アジア中世海道―海商・港・沈没船―』で、すっかりファンになってしまったギャラリートークの先生が著者なのである(たぶん)。まだ単行書の著作はこれ1冊らしいが、いい研究者になって、やがては我々素人が歴史を楽しめる本を書いてくれるよう、応援して見守り続けたいと思う。ちょっと勝手にパトロン気分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする