見もの・読みもの日記

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読解から創作まで/絵巻で読む中世(五味文彦)

2011-04-07 23:56:41 | 読んだもの(書籍)
○五味文彦『絵巻で読む中世』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房新社 2005.8

 1994年10月、ちくま新書の1冊として刊行されたものの文庫版。はじめに概論的に『鳥獣人物戯画』と『年中行事絵巻』の2作品を論じ、『伴大納言絵巻』と『信貴山縁起絵巻』は各巻1章をあてて、じっくり読み込む。最後に今昔物語集に見える「猫怖(ねこおじ)の大夫」の説話をもとに、架空の絵巻『猫怖大夫草紙』の創作にチャレンジ(!)する。各章は、著者の一人称による記述と、語り手「A」「B」の対話仕立ての解説が交互にあらわれるという異色の著述スタイル。学術的に「濃い」内容にもかかわらず、いろいろと果敢な試みが見られて、非常に面白い。

 まず『鳥獣人物戯画』について、私が驚いた著者の解釈を「ネタバレ」で書いてしまうと、「どうも猿が蛙を殺したものらしい。その殺された蛙が仏となって僧に供養されていたと考えられる」という。葉っぱの光背を背に結跏趺坐のポーズをとる蛙の後ろには梟が描かれており、これは「死」の象徴なのだそうだ。そんな…ほのぼの動物マンガが、一挙に陰惨な殺人絵巻になってしまって、驚愕した。梟の視線は絵を見る読者に向かっており「茶番劇は見透かしているぞ、といった風に僕には見える」と著者(話者A)は語っている。

 『伴大納言絵巻』は、菅原道真の御霊を素材とした『北野天神縁起絵巻』と同様、伴善男の御霊の鎮魂を目的として作成されたものだという。そうかー、絵画作品としての完成度があまりに高すぎるので、制作意図=御霊の鎮魂なんて考えたこともなかった。いま、Wikiで『伴大納言絵巻』を見ると、参考文献として本書は挙がっておらず、御霊信仰についても触れられていない。あまり賛同を得なかった説なのだろうか。いみじくも話者Bの言葉どおり、善男の謀略をあばく内容で「鎮魂になるの?」と疑問を呈したくなるのが、現代人の感覚だろう。これに対し、話者Aは、鎮魂というのは、御霊の訴えを聞くことであって、「真相は異なる」ということを語るものではないんだ、と答えている。たとえば、清盛の悪事を書き並べた『平家物語』にも鎮魂の意図があるという。これは、納得できる解釈だけど、古代や中世の人々も本当にそんなふうに思っていたのかしら…。

 また、著者はこの絵巻には「訴え」の三類型が描かれていると見る。善男の公への訴訟(最も一般的)、良房の天皇への直訴、信の天道への訴え(庭で訴える庭中とも。寺院の大衆の強訴にも通じる。天から神を下ろして訴える)である。それから、検非違使の主要な仕事(火事の警護から検断、追捕)が全て描かれているという指摘も興味深い。

 『信貴山縁起絵巻』は、聖と王権というキーワードで読み解く。里に住む平凡な僧、都に住み、内裏に参ずる顕密の僧との対比で、山の聖・命蓮の生き方こそが理想として表現される。また、最終巻には、旅する女性(尼公)と、多くの女性たちの姿が、生き生きと描かれている点に注目する。

 最後の『猫怖大夫草紙』の創作は本当に面白い。説話に書かれた事柄、しかも具体的な事物でないこと(猫嫌い)をどう表現するか。鼠がわがもの顔に走り回っているとか、犬が飼われていて猫が入ってこられないとか、説話の詞章を補って、いろいろなアイディアが示される。猫を見つけた主人公が冠を放り投げて逃げる図とか。既存の絵巻を例に挙げて、『伴大納言絵巻』の源信の邸宅を参考に、とか、『絵師草紙』の構図を利用しよう、等の構想も、いちいち肯かれる。誰か、実際に描いてみてほしいなあ。読解は創作に極まるのかもしれない。

 ところで、「文庫本へのあとがき」によれば、2002年に出た黒田日出男著『謎解き 伴大納言絵巻』は、絵巻に描かれた「謎の人物」に関して、本書の説を「自由気儘な解釈」と批判しているという。おやおや。私は黒田先生の本も好きだが、本書も面白かった。どちらも、きちんと筋の通った学術研究だと思うが、確かに黒田先生が「絵画ひとすじ」であるのに対し、著者のほうが、さまざまな材料を自由に援用して解読を試みている感はある。

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