〇菅野俊輔監修・はる制作室編集『江戸大古地図』 (別冊宝島2506) 宝島社 2016.11
私は東京育ちだが、生まれ育ったのは荒川の東側である。成人してからは、山手線の西側での生活が長かった。この春、門前仲町に引っ越して、初めて「江戸切絵図」の範囲内で暮らすことになった。嬉しくて仕方ないので、これから古地図を見ながら、いろいろ歩いてみようと思っている。
まず参考書として買ってみたのがムック版の本書。底本は国会図書館所蔵の「尾張屋板江戸切絵図」(嘉永2-文久2年/1849-1862年刊)(一部、同時代のほかの切絵図も参考)で、32枚からなる極彩色の地図で、江戸土産として人気だったと本書にある。なお本書には30枚の地図しか掲載されていないので、あとの2枚は?と思ったが、「八町堀細見絵図」と「霊岸嶋八町堀日本橋南絵図」という部分拡大図は掲載されていないようだ。※岩崎美術の「復刻 江戸切絵図 全32図」のホームページと対比させると分かる。
本書は、切絵図と、切絵図の収録範囲の現代地図を、左右のページに並べて掲載する(一部、半透明のトレース紙で重ね合わせになっているものもある)。はじめに長い時間かけて眺めたのは、四月から住むことになった「本所深川絵図 富岡八幡宮・清澄白河駅周辺」である。まだ現代地図にもなじみがないので、網目のような掘割を興味深く眺め、それが幕末には、いま以上に多かったことを知る。このあたりの首都高速は、もとの掘割に沿っているのだな。
いまの生活では、海沿いに住んでいる感覚はないのだが、永代橋(東京メトロ東西線が地下を通っている)が、墨田川にかかる最も下流の橋でだったことを再認識した。隣りの木場駅・東陽町駅あたりを見ると、東西線がほぼ江戸の海岸ラインだったことが分かる。京葉線なんて完全に海の中だったんだなあ。
切絵図では、白が武家屋敷等、灰色が町屋、赤が神社仏閣を表すというのもだんだん理解した。私が住んでいるあたりは町屋だが、町屋の中にぽつぽつと武家屋敷も混じっている。近所に「真田信濃守」という文字があるので、調べてみたら信州松代藩の下屋敷で、幕末に佐久間象山はここで砲術塾を開いたそうだ。今度、散歩がてら訪ねてみよう。深川が新たな町場になったのは、江戸の人口が飽和状態となった17世紀後半以降で、多くの寺社が移され、寺町も形成された。だからこの一帯は、町屋と武家屋敷と寺町が混じっていて、とても面白い。
一方、江戸城(皇居)に近い、今の東京駅周辺や霞が関・番町・駿河台などは武家屋敷一色で、町屋がないのはもちろん、寺社も全くなかったことは初めて気づいた。まあ屋敷の敷地内に神社を祀ることはあったのだろう(ネットで調べると、そのような記事がいくつか出てくる)。あと、明治に建てられた靖国神社は、立地から言っても江戸の伝統とは断ち切れているのだな。
築地・八丁堀・日本橋南の地図を見ていて、海に突き出したような「御船手屋鋪 向井将監」の文字を見つけ、黒田日出男先生の『江戸名所図屏風を読む』に出てきた名前だ!と思い当たった。黒田先生の本には、浅草にあった「三十三間堂」への言及があるが、元禄年間に焼失すると、深川の富岡八幡宮のそばに再建された。本誌の切絵図にはその場所が記載されている。千手観音を祀っていたというが、明治5年に廃されたというから、やっぱり廃仏毀釈の影響だろうか。今度、散歩のついでに往時をしのんでこよう。

まず参考書として買ってみたのがムック版の本書。底本は国会図書館所蔵の「尾張屋板江戸切絵図」(嘉永2-文久2年/1849-1862年刊)(一部、同時代のほかの切絵図も参考)で、32枚からなる極彩色の地図で、江戸土産として人気だったと本書にある。なお本書には30枚の地図しか掲載されていないので、あとの2枚は?と思ったが、「八町堀細見絵図」と「霊岸嶋八町堀日本橋南絵図」という部分拡大図は掲載されていないようだ。※岩崎美術の「復刻 江戸切絵図 全32図」のホームページと対比させると分かる。
本書は、切絵図と、切絵図の収録範囲の現代地図を、左右のページに並べて掲載する(一部、半透明のトレース紙で重ね合わせになっているものもある)。はじめに長い時間かけて眺めたのは、四月から住むことになった「本所深川絵図 富岡八幡宮・清澄白河駅周辺」である。まだ現代地図にもなじみがないので、網目のような掘割を興味深く眺め、それが幕末には、いま以上に多かったことを知る。このあたりの首都高速は、もとの掘割に沿っているのだな。
いまの生活では、海沿いに住んでいる感覚はないのだが、永代橋(東京メトロ東西線が地下を通っている)が、墨田川にかかる最も下流の橋でだったことを再認識した。隣りの木場駅・東陽町駅あたりを見ると、東西線がほぼ江戸の海岸ラインだったことが分かる。京葉線なんて完全に海の中だったんだなあ。
切絵図では、白が武家屋敷等、灰色が町屋、赤が神社仏閣を表すというのもだんだん理解した。私が住んでいるあたりは町屋だが、町屋の中にぽつぽつと武家屋敷も混じっている。近所に「真田信濃守」という文字があるので、調べてみたら信州松代藩の下屋敷で、幕末に佐久間象山はここで砲術塾を開いたそうだ。今度、散歩がてら訪ねてみよう。深川が新たな町場になったのは、江戸の人口が飽和状態となった17世紀後半以降で、多くの寺社が移され、寺町も形成された。だからこの一帯は、町屋と武家屋敷と寺町が混じっていて、とても面白い。
一方、江戸城(皇居)に近い、今の東京駅周辺や霞が関・番町・駿河台などは武家屋敷一色で、町屋がないのはもちろん、寺社も全くなかったことは初めて気づいた。まあ屋敷の敷地内に神社を祀ることはあったのだろう(ネットで調べると、そのような記事がいくつか出てくる)。あと、明治に建てられた靖国神社は、立地から言っても江戸の伝統とは断ち切れているのだな。
築地・八丁堀・日本橋南の地図を見ていて、海に突き出したような「御船手屋鋪 向井将監」の文字を見つけ、黒田日出男先生の『江戸名所図屏風を読む』に出てきた名前だ!と思い当たった。黒田先生の本には、浅草にあった「三十三間堂」への言及があるが、元禄年間に焼失すると、深川の富岡八幡宮のそばに再建された。本誌の切絵図にはその場所が記載されている。千手観音を祀っていたというが、明治5年に廃されたというから、やっぱり廃仏毀釈の影響だろうか。今度、散歩のついでに往時をしのんでこよう。