見もの・読みもの日記

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軍事は輸送である/鉄道と日本軍(竹内正浩)

2010-09-28 23:11:50 | 読んだもの(書籍)
○竹内正浩『鉄道と日本軍』(ちくま新書) 筑摩書房 2010.9

 日本近代史が好きで「鉄道」も好きという人間なら、かなりハマる1冊である。嘉永6年(1854)、日米和親条約締結のために来日したペリーが、蒸気機関車模型を持参して将軍に献上した。ひとりの幕府の役人が、模型の屋根に試乗した滑稽な様子を、ペリーは冷やかに記録しているが、この旺盛な好奇心こそが、近代日本の技術的進歩を牽引していったのだと私は思う。

 明治2年(1869)鉄道建設が決定し、明治5年(1872)には、早くも新橋-横浜間が開業する。ちょうど本書を読んだ直後に『皇室の文庫(ふみくら)』展で『明治5年 儀式録』の鉄道開業式の箇所を見て、感慨深かった。「天皇は各国公使に会釈を交わし、鉄道頭の井上勝から『鉄道図』一巻を受け取ると(略)南廊をプラットホームに進み、玉車(のちの御料車)に乗り込む」云々。本書は、こんな調子で、登場人物たちの一挙手一投足を語り尽くす。誰が、どこから登場し、どこを通ってどこに至り、何をしたか。小気味いいくらい、曖昧なところがない。

 特にそれは「移動」の問題について顕著である。たとえば、明治10年、西南の役は「征討軍によって鎮圧された」と、普通の歴史書なら書いて済ませるところだが、動員された兵士6万人のうち、半数近い2万6000人が、新橋→横浜間を鉄道で移動し、横浜港から船で旅立ったことを私は初めて知った。明治17年の秩父事件では、「私鉄」日本鉄道の第一区線(上野-高崎)を利用した兵員輸送が行われ、早期の鎮圧に功を奏した。明治27年には、日清戦争の開戦直前、山陽鉄道(神戸-広島)が開業し、明治天皇は広島に置かれた大本営へ御召列車で赴いた。翌年、広島~新橋の帰途も”凱旋”御召列車だった。

 明治37年の日露戦争は、さらに「鉄道戦争」の様相を呈する。開戦と同時に、東海道線・山陽鉄道は「特別運行」体制となった。軍事輸送は、兵員・軍馬・軍需品の同時輸送が不可欠なため(なるほど!)客車編成ほどのスピードが出せない。さらに、給養場のある停車場で兵士の食事休憩が必要だったこともあり、新橋-広島間が55時間半もかかったという。

 戦場では、陸軍の工兵と鉄道局の作業員から成る「野戦鉄道提理部」も活躍した。ダーリニー(大連)に上陸すると、ロシア軍が残して行った鉄道(5フィート軌間)を日本の車両が走れる3フィート6インチに改造する作業を行った。片側のレールはそのまま残し、もう一方のレールを中央に寄せるという無茶な工事のため、脱線事故も多かったという。もちろんロシアも、現実離れした経費節減策(これはこれですごい!)によってシベリア鉄道を整備し、日本の予想をはるかに超える大戦力の動員に成功していた。本書を読むと、軍事(総力戦)とは輸送の問題であること、戦争の遂行には、最新鋭の戦車や戦闘機だけでなく、多数の熟練した技術的人材が不可欠であることが分かる。たぶんこれは、今日でも変わらないんじゃないかな。

 それから、明治5年、新橋-横浜間の開業という早わざに幻惑されて、たちまち全国に鉄道網が整備されたように感じていたが、実はそうでもないことも分かった。本書には、日清・日露戦争直前の鉄道図が掲載されているが、私には意外なほど寂しい敷設状況だった。また、東西両京を結ぶ幹線を東海道筋とするか中山道筋とするかで激しい論争があったこと、あの『坂の上の雲』にも登場するお雇いドイツ人・メッケルが、国土防衛上の理由から幹線は内陸につくるべきと主張していたこと、鉄道=国家プロジェクトとは言いながら、初期の鉄道事業が意外と「私鉄」頼みだったことも興味深かった。最後の点は、そもそも「官」と「民」の距離感が、今と全く違うのだと思う。

 恥ずかしながら、日本の鉄道の父・井上勝(1843-1910)の名前も初めて知った。幕末に英国留学した「長州ファイブ」の1人なのか。調べたら、東京駅丸の内口に銅像があった(現在は撤去)というが、全然記憶していないなあ。本書は、大状況の描写が詳細な分、個々の人物には深入りしていないが、この人のことは、もっと知りたいと思った。

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