見もの・読みもの日記

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葬儀私記

2022-02-06 15:06:04 | 日常生活

 2022年2月6日に92歳の父が永眠した。その前後のことを書き留めておく。

 父と母は、2017年5月から老人ホームに入居し、2人1室で暮らしていた。長年、糖尿病で手術を繰り返してきた父に比べると、母は健康体だったが、2015年2月に脳梗塞で倒れてから復調せず、生活に支障をきたすようになってきたため、2人で老人ホームに入ったのである。その後、2人とも徐々に老化が進行していた。

 父はこの1年ほど車椅子生活だったが、昨年末にはリハビリの開始に意欲を示していた。しかしまた体調を崩したため、年末年始は病院で過ごすことになった。ところが病院の治療が合わず、年明け、入院前より病状が悪化した状態で施設に戻ってくることになった。1月に私は2回面会に行っている。

 1/15(土)には弟と2人でかかりつけ医師の話を聞き、いつ何があってもおかしくないですねえという予告を受けた。この日は父母の居室に入ることができたが、翌週から、東京都に蔓延防止措置が適用されたため、1/22(土)は面会室で会うことしかできなかった。20分ほどの面会だったが、父からはスマホの使い方について、いくつも質問を受けた。頭が朦朧として、使い方が分からなくなっているらしかった。結局、父から貰ったメールは、1/5(水)入院先からの「退院してお母さんと一緒に暮らしたい」という訴えが最後になった。

 1/29(土)は差入れだけ届け、2/5(土)の面会の予約を入れていた。

 2/3(木)の仕事帰り、施設から「土曜日では間に合わないかもしれない。今日会いにきたほうがいい」という電話があった。慌てて駆けつけると、父はベッドに半身を起こした状態で、北京五輪のテレビを見ていた(正確にいうと音だけ聞いていた)。あれが欲しいこれが食べたいというので、弟と2人で近所のスーパーで調達してきて差し入れた。缶ビールの一番小さいものを美味そうに飲んでいた。

 2/5(土)13:30に弟とともに施設を訪問。父を診察した医師から「あと1週間くらいでしょう」との説明を聞く。父は終始上機嫌で、学生時代の思い出を語り、二高の寮歌や「荒城の月」を歌っていた。呼吸を助けるため、酸素の吸入器をつけているので、気分がハイになるのだと医師が言っていた。

 2/6(日)迷いながら、ふらふら街へ遊びに出ていた私の携帯に、12:00頃、施設から「呼吸がなくなりそう」という連絡が来た。江戸川橋のあたりにいたので、1時間ほどで駆けつけると、すでに弟が来ていて、父はベッドで眠っていた。呼吸は安定しており、口元が動いているのが分かった。弟と交代で昼食をとることし、まず弟が出かけ、次に私も駅前のラーメン屋で食べて戻ってきた。弟が「途中だった洗濯を片づけてくる」というので、私はベッドの母と会話しながら父の様子を見ていた。

 15:00頃、スタッフの方が母の排泄ケア(パット交換)に来てくれた。父のベッドをそっと動かし、壁際のクローゼットから替えのパットを取り出し、母の服を脱がせるのを、私は少し離れて見ていた。と、スタッフの方が、父の口元の動きが止まっていることに気づく。顔を近づけて、名前を呼んでみたが反応がないので、母のケアを中断し、看護師さんを呼んでくることになった。私は弟に電話連絡。

 そして看護師さんによって呼吸停止が確認され、酸素吸入器のチューブが取り外された。やがて弟が戻ってくる。それから医師が来てくれて、父の死亡を確認した。施設のスタッフの方たちが、ジャージ姿だった父を、私と弟が選んだ服に着替えさせ、身ぎれいにしてくれた。お花も届けられた。

 施設で紹介してもらった葬儀社の方が、1~2時間後に来てくれることになったので、弟は洗濯の続きのため、自宅に戻り、私は父の遺体の隣りで、母と会話しながらしばらく過ごした。スタッフの方々が次々に部屋に来て、父にお別れをしてくれた。たぶん父が晩年を自宅で過ごしていたら、好んで近所づきあいをするタイプではないので、こんなに多くの人からお別れを言ってはもらえなかっただろう。

 18:00頃、葬儀社の方が来て、段取りを決めた。火曜が友引きなので、水曜に火葬にすることになり、父の遺体は葬儀社さんの安置所で預かってもらうことになり、車で運び出されていった。このときも施設のみなさんに送ってもらえて、果報なことだと思った。

 2/9(水)職場には理由を告げずに有休をとった。14:00に落合斎場へ。私と弟の2人だけで見送った。棺にはお花のほか、母の最近の写真と、若い頃の2人の写真を入れた。火葬は1時間弱で終わり、2人だけで収骨するのは大変だなと思っていたが、立会いの方の指示で、大きな骨をひとつだけ、弟と2人で拾ったあとは、全て斎場の方がやってくれた。父は体が大きい人だったので、骨の量も多く、骨壺に収まり切らないのではないかとハラハラしたが、なんとか収めてくれた。

 そして私が父の骨壺を抱き、弟の車に乗って実家へ戻った。いま父の骨壺は実家の仏壇の前に置かれている。三月最終週には墓に収める予定である。

 以上、他人に読んでもらう内容ではないが、ここに残しておくのが、後日の自分のために一番よいと思われるので、この場を使用する。(2/27記)

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