見もの・読みもの日記

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秦の文化と人々の生活/始皇帝と大兵馬俑(東京国立博物館)

2015-11-08 23:10:20 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『始皇帝と大兵馬俑』(2015年10月27日~2016年2月21日)

 始皇帝陵の兵馬俑が発見されたのは1974年。私は中学生だった。Wikiに「世界的な大ニュースとなった」とあるけれど、当時の記憶は全くない。ただ、なんとなく何かすごいものがあるらしいという程度の認識で、1981年に初めての中国旅行で始皇帝陵を訪れ、そのスケールに度肝を抜かれた経験がある。情報が少ないというのは、ある意味幸せなことだった。

 今では「始皇帝陵の兵馬俑」の何たるかを知らない日本人はほとんどいないだろう。11年目になるこのブログを振り返っても、2004年に上野の森美術館『大兵馬俑展』、2006年に江戸東京博物館『驚異の地下帝国 始皇帝と彩色兵馬俑展』があり、2007年の東博『悠久の美-中国国家博物館名品展』では武士俑、2012年の東博『中国 王朝の至宝』では跪射俑、跪俑が出陳されている。だから新しい発見はそんなにないだろうと思いながら見に行った。そして、実際そのとおりなのだが、兵馬俑発見から40年経っても、始皇帝陵の発掘が地道に続けられていることが感慨深かった。

 展覧会としては兵馬俑よりも、その前段にある春秋戦国~秦時代の各種文物が面白かった。西周時代(前10~前9世紀)の玉胸飾り、きれいだったなあ。蓋の上で蝦蟇と犬がにらみ合う陶製の動物形容器(戦国時代、前5~前3世紀)、何だあれはw 象嵌の帯鉤(バックル)も美しかった。

 秦は北方遊牧民族の影響を受けて、建国前後から金を多用しており、美しい金製品もたくさん出ていた。驚いたのは、玉剣(柄と刃が一体となっている)に透かし彫りの金の鞘。韓城市梁帯村27号墓出土とある。西安市の東北、南北に流れる黄河の西岸にあたるようだ。この展覧会、図録か出品リストに出土年を入れてほしかったなあ。宝鶏市で出土した『金円形装飾』は、碁石のように中央部がやや膨らんだ金の円盤で、裏面には真一文字の棒が通っている。革帯などに装飾として取り付けたとのこと。西洋美術館の『黄金伝説展』で見たブルガリアのヴァルナ遺跡の発掘品にも、こんな金の円盤があったことを思い出した。

 それから、秦の帝都・咸陽の暮らしを想像させる品々もずいぶん発掘されているのだな。量産された玩具と思われる陶鈴。円形のものや魚形のものがある。陶器を成形するときの「当て具」や瓦当に文様をつける「范(型)」は、これらを使っていた職人の存在を感じさせる。秦国の瓦当は鹿とか虎とか絵柄が面白い。都市インフラに用いられた取水口や水道管(全て陶製)にも感心した。技術水準、高いなあ。それから「墓誌」と説明されていたが、平瓦に二人の職人の名前と出身地だけを引っ掻いた傷のような文字で記したもの。始皇帝陵の造営工事の途中で死亡した者の集団墓地遺跡で見つかったものだという。諸星大二郎のマンガで使ってほしいネタだ…。

 さて後半。まず始皇帝陵の陪葬坑で1980年に見つかった銅車馬2件。どちらも四頭立てで、1号の御者は立って、車蓋つきの輿に乗る。2号の御者は、屋根付きの輿の御者台に座る。どちらも複製だが、きわめて精巧で迫真の域に達している。中国の複製技術はあなどれない。また、当時の御者って高度な専門技術職だったんだろうなと思った。壁に展示されていた修復作業の白黒写真を見ると、人々の服装や表情から発掘当時(1980年)の中国を思い出して懐かしかった。これらの写真が図録に収録されていないのがとても残念。

 そして最後の兵馬俑展示エリアへは、特設のスロープを上がっていく。バルコニー状の高い位置に立つと、正面の壁には始皇帝陵の外観イメージ。その下に複製の兵馬俑軍団(中国で特注したもの)が多数並んでいる。それらを背景にして、「本物」の文物が点々と展示されている。大型の俑は、将軍俑、軍吏俑、歩兵俑、立射俑、跪射俑、騎兵俑+軍馬、御者俑。将軍俑は10体程度しか出現していないというが、前にも見たことがある。跪射俑も覚えがあった。これら、海外の博物館等に貸し出すときは、いつも同じものが行くのかな。そして、どれも手が大きく、表情が豊かなことを感じた。今回初めて見たのは、恰幅のよい雑技俑。上半身裸で、スカートのような短い袴を穿いている。左脇と腹の前に垂直に組み合わせた竿を支えていたと考えられている。これは正倉院の「墨絵弾弓図」を思い出さざるを得ない!

 あと青銅製の、雁にしては微妙に首の長い水鳥。これは初見だろうか。かつて青銅製の鶴が来たことは覚えているのだが。咸陽市出土の小さな騎馬俑も可愛らしかった。会場にはデジタル復元した彩色兵馬俑のビデオが流れていて、これも面白かった。しかし、出土時には彩色が残っていても、空気に触れるとあっという間に消えてしまって、なかなか保存できなかった(近年ようやく保存技術が開発された)というのが、美しい伝説のようだと思った。

 展示室の最後には複製兵馬俑と写真が撮れるサービスあり。いまや中国の始皇帝陵と兵馬俑坑は、世界中のお客を引き寄せる一大観光地だが、そうやって稼いだ収入が、地道な発掘研究の資金になっているのかもしれないと思うと、少し学ぶべきところがあるかもしれない。

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1 コメント

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遅すぎるレスですが (アブダビ)
2016-02-14 01:58:52
私も行きました。
管理人さんも書かれたバックルといい、
金装飾品が、かつてロシアで見たスキタイ展の意匠に似ているのを観て、
「あー秦って国は西戎の国なんだな」と思いました。
ラーメンの丼模様そっくりの直線的デザインも見たし(笑)

兵隊達の顔が、あまりに色んな民族的特徴を持つので、攻め滅ぼした国から兵隊を集めて多国籍軍を作っていたのでは?
と思わせるのも感心です。

ただ不思議なんですよね。
中国の製鉄は、戦国時代に、砂金を溶解して水銀で取り出す時に、分離した砂鉄を利用したのが最初ですが、それはあくまでも鋳鉄の話で、武器に使う鍛鉄は西方から来たと考えられています。
コークスのない時代、鉄を鍛えるには、乾燥した家畜の糞(完全燃焼する)と、革を利用した「ふいご」が必要で、それは遊牧民から流入してきたとされているからです。
チベット系の姜族が多数すんでいた漢中平野の秦ならば、真っ先に導入していそうなもの。
ところが、出土する秦の剣や戟の多くは青銅器なんですね。
青銅器の剣は、一般に考えられているより鋭利で、春秋時代の遺跡から発掘された剣は、数十枚の新聞紙を一刀に切断したそうです。(ペラペラした紙の束を固定しない状態で切るのは武道的に難しい)
でも戦争はチャンバラと違いますから、
大量生産できる強味から、鉄武器を用いなかったというのは変であります。
そこが不思議なんですよね。
でも、秦が他の夏華の民より、遊牧民の影響を受けているのはバックルや装飾品を観ても明らかなんですが…
不思議であります。
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