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明治150年に読む会津人の歴史/斗南藩(星亮一)

2018-08-11 00:26:59 | 読んだもの(書籍)
〇星亮一『斗南(となみ)藩:「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起』(中公新書) 中央公論新社 2018.7

 斗南藩とは戊辰戦争後、朝敵の汚名をこうむった会津藩の人々が、現在の青森県の下北半島を中心とする旧南部藩の地に流罪として移住し、作り上げた藩の名前である。しかし廃藩置県で、すぐに弘前県(のちに青森県)に合併されたので、斗南藩はわずかに一年半しか存在せず、知名度は低かった。――これは本書冒頭の一段落である。

 私は、小学生の頃、明治維新を、ほとんど無血革命のように考えていたが、次第に上野戦争とか戊辰戦争とか西南戦争とか、大小さまざまな内戦の存在を意識するようになった。会津戦争(会津城籠城戦)の悲惨さを知ったのは、ずいぶん大人になってからで、星亮一氏の『会津戦争全史』(講談社、2005)によるところが大きい。しかし、敗者となった会津藩のその後、転封先の「斗南藩」で人々が舐めた辛酸は、まだぼんやりとしか理解できていなかった。

 本書は、明治元年(1868)9月22日の会津鶴ヶ城の落城から始まる。明治2年には、会津降伏人総数1万7千人のうち1万2千人を蝦夷地に移住させることが決まり、先発隊が船で小樽に運ばれ、余市、古平、忍路などに分散収容された。私は2年間だが札幌に住んだことがあって、当初は「北海道には歴史がない」と思っていたが、こういう記述を読むと土地の見方が変わる。明治3年、北海道開拓の所管が兵部省から開拓使に替わったことにより、会津人は斗南藩に引き渡されることになった。

 明治3年5月から10月にかけて、会津若松からの移住計画は船便と陸路で進められた。『ある明治人の記録』で知られる柴五朗(本書では柴五郎)一家は東京から船で移住している。冬は氷点下二十度にもなる厳しい寒さ、家も布団も満足になく、蕨の根や拾った昆布で飢えをしのぎ、空腹を満たすためには何でも食べた。しかし熱病や栄養失調で病人や死者が続出した。著者は(たぶん)さまざまな記録に当たり、斗南の壮絶な暮らしを具体的に描き出している。なお「斗南」というのは「北斗以南皆帝州」(中国の詩文より)から出たという解釈があるそうだ。きれいな言い回しだが、ほんとに中国の詩文かどうかはあやしんでいる。

 明治4年、廃藩置県が実施され(余談だが、島津久光は鹿児島湾に盛大に花火を打ち上げ、西郷を罵倒して怒り狂ったって面白すぎる)斗南藩は斗南県となった。斗南の行政を担ったのは、山川浩(1845-1898)、広沢安任(1830-1891)、永岡久茂(1840-1877)である。広沢は斗南ほか五県の合併を推進し、明治4年、青森県を成立させた。初代青森県知事の野田豁通は旧斗南藩士による開拓を中止し、移住の自由を認めた。

 こうして「斗南藩」は消滅し、旧会津藩の人々は、さらにバラバラの人生を歩み続ける。山川と永岡は東京へ。永岡は、明治9年、前原一誠の萩の乱に呼応して思案橋事件を起こすも、失敗して獄死する。山川は西南戦争に参加。戦後は「軍人として陽の目を見ることはなかった」で本書は結ばれているが、高等師範学校校長、貴族院議員になったのだから、栄達を遂げたと言ってよいのではないか。いちばん面白いのは広沢安任で、下北に残り、牛馬の牧畜に取り組み、明治9年の明治天皇東北御巡幸では、内務卿大久保利通にバターやチーズ、牛乳を供している。50歳を過ぎて若い妻を娶るなど、幸せな晩年だったらしい。この三人の人生はぜひドラマで見てみたい。

 本書は蝦夷地に渡った会津藩士についても語る。箱館戦争の際、榎本武揚の艦隊に乗り、蝦夷地に渡った会津遊撃隊の人々。廃藩置県後、下北半島の厳しい生活に耐えきれず、北海道に逃亡した人々(琴似の屯田兵に旧斗南藩士の記録が残されている)。また、斗南以前、最初に蝦夷地に送られたまま余市に住み着いた人々もいる。ここも斗南にまさるとも劣らない北辺の地で、エゾシカの通る獣道しかなく、余市川のサケや浜のニシンでなんとか食いつないだ。余市の開拓が軌道に乗るのはリンゴの栽培が盛んになった明治30年代以降であるという。NHKの朝ドラ『マッサン』(現在再放送中)の設定は、この歴史を踏まえたものだ。

 著者は会津藩の歴史を世に知らしめるため、多数の著書を執筆しているが、会津藩が全て正しく、薩摩・長州が全て悪いとの立場をとっているわけではない。印象的だったのは、「会津藩は農民と武士の間に軋轢があった」という率直な記述である。これは、戊辰戦争時に若松城下で傷病兵の治療にあたったイギリス人医師(へえー)の見聞によるものだが、会津藩の圧政と借款の強制に苦しんでいた農民たちは、会津藩が敗れたことで、これまでの不満を爆発させ、村役人の家に放火するなど「ヤアヤア一揆」を引き起こしたのだという。知らなかった。

 まあしかし、普通の人々に長い長い苦しみを強いるような戦争は起こしてはならない。明治150年を迎えて再確認するのは、そのことだけで十分ではないか。

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1 コメント

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山川浩 (h.inagaki)
2018-08-13 02:36:48
本書は未読ですが、会津の山川浩は軍事面でのセンス、力量は抜群だったみたいです。
ただ、陸軍を牛耳っていた長州人には嫌われた。
昔読んだ「田原坂」(橋本昌樹 中公文庫)の記述だと思いますが(手元にないので確かめられない)、
例えば、熊本城の包囲網を破って籠城する政府軍と初めて連絡をつけた手柄も、
旅団司令官山田顕義に軍令違反とされて、山川だけ叙勲されなかったとか。
(偵察のみを命令されていた)(叙勲は年金が付く)
誰しもが感嘆する軍人としての実績がありながら陸軍での場を与えられなかった。
会津藩、斗南の人達の悔しさを、星さんは思っているのでしょうか。

ご興味はないかもしれませんが、
「田原坂」は今年復刊されたようです。
会津の関連では、神保修理の奥さんの自刃に手を貸した土佐藩士、吉松少佐の戦歴と戦死の様子も詳しく書かれてました。
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