見もの・読みもの日記

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戦後日本の父祖たち/日本占領史(福永文夫)

2015-09-14 22:39:09 | 読んだもの(書籍)
○福永文夫『日本占領史 1945-1952:東京・ワシントン・沖縄』(中公新書) 中央公論新社 2014.12

 日本は1945年8月から52年4月まで、アジア・太平洋戦争の敗北を受け入れ、アメリカを主とする連合国の占領下に置かれた。私がそのことを認識したのはいつだったろう? 小学生の頃、自宅にあった「学習マンガ日本の歴史」は、最終巻が終戦以後で、軍服姿のアメリカ人が日本の政治にいろいろ口出ししていた。しかし、いつの間にか彼らはいなくなってしまう。「戦争に負ける」ということは小学生の頭でも理解できたが(豊臣と徳川とか、源氏と平家の戦いの延長で)、勝者による「占領」があって、しかも、いつの間にか(新たな戦争もないのに)それが終わって再び「独立国」に戻るというのは、なかなか理解しにくかった。「占領期」というものが、しっかり私の意識にのぼったのは、ずっと大人になってからで、2007年に読んだ吉見俊哉氏の『親米と反米』が最初ではないかと思う。

 本書は占領の7年間を「東京・ワシントン・沖縄」の三つの観点から描いている。「沖縄」が別立てされているのは、沖縄の占領が本土の占領とは全く別物であったためだ。単に独立(本土復帰)の時期が遅れただけではない。沖縄は米軍の直接軍政下に置かれ、民主化改革から置き去りにされ、経済的にも苦難と混乱が続いた。沖縄の戦後史はもっと勉強しないといけないな。

 「ワシントン」というのは、当然、アメリカ政府のことである。我々は、占領期に「アメリカから」さまざまなものを押し付けられた(立場によっては、ギフトを貰った)という表現を使うことが多い。しかし、本書を読むと「アメリカ」は決して一枚岩でなかったことが分かる。本来、日本の占領政策における連合国の最高政策決定機関はワシントンに設置された極東委員会で、そこで決定された政策は、アメリカ国務省→統合参謀本部を経て、東京のGHQ(連合国総司令部)に伝えられる体制だった。また、アメリカ政府は、独自にGHQに命令できる中間指令権を持っていた。しかし、マッカーサーは既成事実を積み重ね、極東委員会(および国務省)を無視していく。

 1946年3月、GHQ草案を基にした「憲法改正草案要綱」を日本政府が発表したときも「アメリカ国務省にとっては寝耳に水であった」とある(内容自体はワシントンを慌てさせるものではなかったが)。面白いな~。また、GHQ内部にもさまざまな意見対立があったが、最終的に反対派を退け、「民主化のエンジン」となったのは民政局であり、ホイットニー局長の功は大きい。

 しかしアメリカ国内では、1946年11月の中間選挙で共和党と南部民主党の連合勢力がニューディール派を破ると、GHQが依然としてニューディール政策を取っていることに対する非難が高まっていく。さらにワシントンでは、冷戦を背景に日本の再軍備を求める声が高まる。マッカーサーは日本の経済復興については同意(為替、公務員の争議権など具体的な政策では対立)したが、再軍備については強く反対していた。

 一枚岩でなかったのは日本も同様である。GHQの示す改革案に抵抗した勢力もあったが、改革を喜んで受け入れただけでなく、GHQに先んじて積極的に改革に携わった勢力もあった。婦人参政権、労働組合法、農地改革などは、戦前から計画され準備されていた懸案だったと著者は述べている。つまり戦後日本は、勝者「アメリカ」対敗者「日本」という図式では割り切れないような、多様な勢力の競争や協同から生まれた。その混乱と熱っぽさは、幕末・維新の歴史に少し似ているように思う。

 幕末・維新の歴史が大好きな日本人は多い。しかし「いまの日本」の本当のスタート地点は、明治維新ではなくて、占領期なのではないか。私たちは、占領期に何が起きたかを、もっと貪欲に知り、もっと率直に語り合わなくてはいけないのではないか。マッカーサーやホイットニーを、坂本龍馬や西郷隆盛のように、現代日本の「父祖」として受け入れることはできないだろうか。残念ながら今のところ、「異国人」が主役級を演ずる「日本史」というものを、私たちは想像できないんだろうな。

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