見もの・読みもの日記

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正義を考える・実践編/レ・ミゼラブル1~4(ユーゴー)

2011-03-31 23:59:44 | 読んだもの(書籍)
○ユーゴー作、豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』1~4(岩波文庫) 岩波書店 1987.4-5改版

 久しぶりの投稿だが、震災の影響があったわけでも、年度末で忙しかったわけでもない。ただこの長編小説に没頭していた。幼い頃に読んだ、ほとんど平仮名ばかりの名作文庫にも「ああ無情」は入っていたような気がする。もう少し長じて親しんだのが、小学館の「少年少女世界の名作文学」。さらに印象深いのは、みなもと太郎氏によるマンガ『レ・ミゼラブル』全2巻である(潮出版社、1974年刊行らしいが、私が読んだのは1980年頃か?)。本書を読みながら、みなもと太郎の絵とギャグが、はっきり脳裡によみがえってくるのを何度も感じた。みなもと作品が名作だということもあるけれど、ビジュアルの記憶はかくも強いのだ。

 それにしても、岩波文庫600頁×4巻の大作で、豊島与志雄(1890-1955)の訳って古すぎだろう、と思って、かなり怖気づいていたのだが、読み始めたら、全く「古さ」は感じなかった。Wikiの豊島与志雄の項に「創作家として名は残らなかったが、名訳者として名を残した」とあるのは、的を得た評だと思った。

 子供の頃の読書の記憶が鮮明なのは、とりわけ前半である。銀の食器を盗んでいこうとしたジャン・ヴァルジャンに銀の燭台をも与える愛の権化、ミリエル司教。マドレーヌ市長が超人的な膂力で、馬車の下のフォーシュルヴァン爺さんを救い出す場面。再び囚人となったジャン・ヴァルジャンが、仲間を助けると同時に、軍艦から落ちて行方をくらます場面。そして、孤児コゼットの前に、ある晩、現れる謎の金持ち老人。夜更けの水汲み、重たい桶、買い与えられる立派な人形など、驚きの連続のプロットも、印象的な小道具も、次々に記憶の内側からよみがえってきた。

 後半は、いきなり始まる市街戦など、子供心には全く歴史背景が理解できないところが多かった。あれは、第二共和政時代の1848年に起きた六月蜂起(→まだよく分かっていない)のことだったのか。パリの下水道逃亡シーンは印象的でも、その規模は実感できていなかったし、マリユスを愛し始めたコゼットに対する、父たるジャン・ヴァルジャンの複雑な嫉妬も、たぶん分かっていなかったと思う。だから、後半は、閉まっている鉄門をどうやって出るんだっけ?とか、マリユスはどうして真実を知るんだっけ?とか、記憶が曖昧な箇所が多くて、その分、初読のように展開を楽しめた。

 本書は、さまざまな読み方を許容する懐の深い作品だが、最近の読書つながりで「正義」について考えさせられた点がたびたびあった。貧困のゆえに一切れのパンを盗んだのが発端で19年を牢獄で過ごし、刑を終えても、黄色い旅券によって差別される男。彼を裁く法は「正義」なのか。銀の食器を盗んで捕まったジャン・ヴァルジャンに対し、「それは私が差し上げたものです」と証言し、銀の燭台をも与えるミリエル司教は「嘘」という不正を犯しているのか。過去を捨て、改心して人々の尊敬を得ていたジャン・ヴァルジャンが、人違いで捕まった男のために、真実を名乗り出る必要はあったのか。そのために、寄るべを失った哀れなファンティーヌ(コゼットの母親)は、絶望して死んでしまう。それは独りよがりな「正義」ではないのか。

 見返りを求めず、自分の損になると分かっていても、決然と「正義」を為す行為は、むろん尊い。しかし、私たちは、時に敢然と「不正」を働くことによって、正義(あるいは正義よりも大切なこと)を成し遂げる場合もある。逆に、杓子定規な「正義」や、不確実な根拠に基づく「正義」は、正しい人を破り、社会を損なうことさえある、と小説は語っているように思う。だから、死に際のジャン・ヴァルジャンが、コゼットとマリユスに遺した言葉をじっくり味わいたい。「世の中には、愛し合うということよりほかにはほとんど何もない」と。彼の最期が孤独でなくて、本当によかった。

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