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ねらわれた日本/勝海舟と幕末外交(上垣外憲一)

2015-01-02 21:24:34 | 読んだもの(書籍)
○上垣外憲一『勝海舟と幕末外交:イギリス・ロシアの脅威に抗して』(中公新書) 中央公論新社 2014.12

 一昨年から北海道で暮らすことになって、自然と日露関係史を考える機会が増えた。その結果、自分にこの方面の知識が乏しいことを実感するようになった。

 で、本書のオビの「ロシアが対馬を分捕りに来た!」という宣伝コピーを見て、え、そんな事件あったの?と驚いた。文久元年2月(1861年3月)、ロシア艦が船体修理を名目に対馬に入り込み、兵舎めいたものを建てて居座りを決め込んだというもので、本書では「ポサドニック号事件」と呼ばれている(Wikiは「ロシア軍艦対馬占領事件」とし、関連書籍として『坂の上の雲』をあげる)。

 本書の主人公、勝海舟(1823-1899)は『氷川清話』で、自分がこの一件を収めた顛末を生き生きと語っている。にもかかわらず、一部の歴史家はこれを「法螺話」と受け止めているそうで、Wikiの記述にも、勝海舟の名前は一切登場しない。著者によれば、この19世紀半ばから後半という時代は「秘密外交」の最盛期であって、外交の表と裏に違いがあった。また、明治維新後になっても各方面に差し障りが多いとして沈黙を守った人々が多かった。そうした制約のもと、限られた史料に大胆な推論を加えて、勝海舟の外交手腕を描き出したのが本書である。

 勝海舟が外交にかかわった始まりは、嘉永7年(1854)のディアナ号事件。ロシア提督プチャーチンの旗艦が安政大地震で損傷し、修理のため下田港から戸田に向かう途中、駿河湾に沈没してしまう。プチャーチンは事故にもめげず、交渉を進め、安政元年(1855)、日露和親条約を締結する。オランダ語の読める若手官僚であった勝海舟は、安部正弘、大久保一翁らの引き立てを受け、諮問を受けることもあったと思われるが、まだ表舞台には現れない。

 安政5年(1858)、暴風で損傷したロシア軍艦アスコルド号から、長崎での修理を認めてほしいという申し入れがあった。クリミア戦争(英仏×露)の直後であったから、断ればロシアも怖いが、受け入れれば英仏の反応も怖い。困惑する幕閣に泣きつかれて、交渉の任に当たった勝海舟はロシアに有力な人脈を得る。

 そして、アロー戦争(1858年)が起こり、ロシアから東シベリア総督ムラヴィヨフが9隻の艦隊を率いて江戸湾に現れる(1859年)。うーむ、蝦夷地(北海道)は危なかったんだな。アロー戦争によって、ロシアは北緯43度以北の清国領を獲得したが、札幌はちょうど北緯43度線上にあるという。ムラヴィヨフは、少なくとも樺太全島の領有を要求したものと著者は見ている。

 興味深いのは、「日本政府が蝦夷地をしっかり確保しなければ、英米が取ってしまうだろう。そのときは自分たちが先手を打って取ってしまう」というロシアの主張(恫喝?)が伝聞として残っていることだ。ずっと後年、日本が、ロシアの南進を防ぐという理由で朝鮮を併合したのとそっくりの理屈である。実際、アメリカは鯨の好漁場として北海道近海を重要視しており(まだ石油の生産は無に等しく、照明用の油としては鯨油が最も良質だった。なるほど!)、アメリカ領事ハリスは、ムラヴィヨフに強硬な申し入れを思いとどまるよう働きかけたと考えられている。

 また、対馬も狙われていた。1959年(安政6年)にはイギリス軍艦アクティオン号が突然、対馬に現れ、湾内を測量するなどして立ち去る。朝鮮に野心を持つフランスは、幕府との秘密交渉で対馬租借を要求していた(横井小楠の証言あり)と著者は考える。『氷川清話』によれば、当時のロシア軍人の言葉として、フランスはまもなく地中海を掘り抜いて(スエズ運河!)支那への海路が自由になるから、日本近海への往来が増え、対馬を占領するようになるのは必然、と語られている。

 世界(西洋)の動きが、さざ波のように伝わって、日本の運命を変えていく様子が、ベールを剥ぐように見えてくる。当時の日本って、本当に危なかったんだなあ、ということをしみじみ(寒々と)感じた。日本が生き残るには、どこかの国の庇護を求めなければならない。では、頼れる友好国はどこか? 幕閣には、親米、親露、親英など、さまざまな立場があったが、最終的に井伊直弼が「アメリカ一辺倒」に舵を切った。思えば、日本の百年(以上)の進路を決めた選択とも言える。

 勝海舟は、英露のパワーポリティクスを巧妙に利用し、ロシア軍艦を対馬から追い払って、ポサドニック号事件を収めた。著者が注目するのは、のちに勝海舟が「外交の極意は、誠心誠意にあるのだ」と語っている点である。対馬のことを英露が争うのは、日本の不利益ばかりでなく、世界戦争の脅威を増すことである。あなたも我々も世界平和のためにともに働くべきではないか、というのが勝海舟の「誠意」、別の言葉で言えば「大義」であった。智謀に長けた勝海舟だからこそ、智謀の限界も知っていたということではないかと思う。

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