不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

禁止と形骸化の歴史/人身売買(牧英正)

2021-08-19 20:49:39 | 読んだもの(書籍)

〇牧英正『人身売買』(岩波新書) 岩波書店 1071.10

 以前から気になっていた名著が「岩波新書クラシックス限定復刊」の帯つきで書店に並んでいたので読んでみた。日本における人身売買の歴史を資料に基づき記述したもの。ただし各時代の記述の厚みは一様ではない。十分な資料が残っている時代と、そうでない時代があるためである。

 古代については意外と詳しい。書紀・続日本紀、それから正倉院文書にも人身売買関連の記録がある。日本の律令制度がモデルとした唐の制度では、人民は「良」と「賤」に分けられ、「賤」のうちは売買してよいが、それ以外の売買は禁止された。しかし日本では、良賤の区別が定着せず、親が子を売ることへの罪悪感は唐制よりも弱かった(刑罰の規定が軽い)。この違い、良し悪しを別にして興味深い。律令法の後、人身売買に関する規制が確認できるのは平安時代末の太政官符になる。平安末から室町にかけて人商人が横行した実態は、説話集・お伽草紙・謡曲などから知ることができる。

 16世紀後半に始まる、南蛮人(ポルトガル人)の日本人奴隷貿易については、初めて知る資料が多く、興味深かった。当初、日本に渡来した西欧人たちは、広く人身売買が行われている社会の実態を見て、日本には法律上の奴隷が存在するものと考えた。だからイエズス会も、ポルトガル商人たちの日本人売買に許可を与える方針をとった。のちに秀吉から「ポルトガル人が多数の日本人を買い、これを奴隷として其国に連行くのは何故であるか」という詰問を受けたコエリョは「日本人がこれを売るから」と答えている。制度と実態の乖離から起こる、こういうディスコミュニケーションは今でもよくある。

 秀吉は全国的な人身売買の禁止令を発出し、江戸幕府もこれを引き継いだ。貨幣経済の浸透も影響し、譜代の下人という奴隷的な身分は徐々に消滅し、年季を限った「奉公」という労働形態が一般化する。なお年季の最長限が10年と定められたのは、御成敗式目で10年を超えると譜代と見なされたことに基づくそうで、現代の有期雇用の無期転換ルールのようで面白かった。

 実態としての奴隷身分が、例外的に残ったのが娼婦(売女)である。本書は、信州追分宿に残された女奉公人の文書の実例を、多数引用しながら解説する。たとえば、父親が一定額の金銭を借り、娘を10年間の質草として奉公に差し出す。債権主は娘をどのように扱ってもよい。債務者である父親は、10年後に借金に利息をつけて返済することで(え~強欲!)、ようやく娘を請け出すことができる。なお、食売女(めしうり女=売女)として奉公すれば、居潰(いつぶし)と言って、年季明けには借金が帳消しになった。だから貧窮に迫られた農民が、金策のため、妻女を一般の下女ではなく、売女として奉公に出すことは選択の余地のない手段であった。女性が自殺した場合は元金の返済が必要で、5割増や倍額とするという定めもある。自殺という逃げ道もあらかじめ封じられているのだ。

 親や家族の危難を救うために身を売る娘の行為が美談とされたことは、歌舞伎や浄瑠璃の演目でおなじみである。売女は固定的な奴隷身分ではなく、無事に年(ねん)が明ければ、結婚もできた。しかし『世事見聞録』(文化年間)の記事等に基づき、本書に紹介されている売女の生活は悲惨である。客の機嫌を損ねれば打擲されたり食を断たれたり、時には責め殺されることもあった。死骸の手足を一緒にくくって犬猫のように埋めるのは、人間に祟ることができないようにするためだという。形式的には契約に基づく奉公でも、実態は奴隷身分であり、人身売買であると思う。

 近代に至り、マリア・ルス号事件(清国人奴隷貿易船事件)をきっかけに、人身売買の禁止と芸娼妓解放令(本書では遊女解放令)が布告されたこと、しかし政府に売色を禁じ遊郭を廃止する意思はなく、娼妓が自由意思による営業者であるという体裁ができればよかったことは、横山百合子氏の『江戸東京の明治維新』等でも読んだ。

 明治5年(1872)の太政官布告は「従来年期奉公等、種々ノ名目ヲ以テ奉公住致サセ、其実売買同様ノ所業」を禁じている。形式でなく実態が「人身売買」に当たる行為を禁じたもので、なかなかいい条文だと思う。しかし、その後、司法省が、売買とはその明証のあるもののみをいう、と後退した指示を出しているのにはガッカリだ。

 戦後、日本国憲法が施行された後になっても、地方的慣行としての「いわゆる人身売買」が問題になっている。「法がいかに詳密になっても、その保護対策がともなわなければ、その響きはむなしい」と著者が述べているとおり、今日の日本でも完全に解決されたとは言えない問題だと思う。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 最も身近な参照例/韓国社会... | トップ | 人と仏の音楽/雅楽特集を中... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読んだもの(書籍)」カテゴリの最新記事