○白井聡『永続敗戦論:戦後日本の核心』(atプラス叢書) 太田出版 2013.3
読もうかどうしようか迷っていた本だが、旅先で購入して、勢いで読んでしまった。「私らは侮辱の中に生きている」というのは、中野重治の言葉を引いた大江健三郎の発言である。福島原発の事故以来、次々と明るみに出て来た「侮辱」の根底に、著者は「対米従属」という戦後日本の核心を見る。
われわれが、この核心を見過ごしてきたのはなぜか。「戦後=民主主義・平和・繁栄」という物語が、従属の構造を直視することを妨げてきたのだ。耳が痛い。これまで「戦後」という歴史の枠組みに対する否定や批判は、もっぱら右派勢力からなされてきた。それに対して、「戦後」という枠組みを堅持することは、「民主主義・平和・繁栄」に敬意を払う側に立つなら、自明のことと思われてきた。しかし、著者は言う。この20年の間に(戦後)民主主義の虚構は暴かれ、平和は軍事的危機へ向かいつつあり、経済的繁栄は失われてしまった。私たちは、今や剥き出しの「侮辱」に、日々対面させられている。
それゆえ、本書は「戦後」を認識の上で終わらせることを課題とする。日本の保守勢力は、声高に「戦後」の否定を主張しながら、実際は「戦後」の際限ない継続を願ってきた。「戦後」は、敗戦の否認(隠蔽)から始まる。敗戦を否認しているがゆえに際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を指して、著者は「永続敗戦」と呼ぶ。
このあたりを読みながら、内田樹さんの『街場の戦争論』(2014.10)と共通するところが多いな、と感じた。内田さんも、さきの敗戦によって日本人は、「戦争で失ったもの」を正面から問うことのできない「異常な敗戦国民」になってしまった、と断じている。正直にいうと、内田さんの本(文体)のほうが読みやすい。着流しのおじさんみたいな平易な表現で、言うべきことはきちんと言っているので、広い読者層に受け入れられやすいと思う。
それに比べると、本書はやや物堅い。領土問題、外交問題(拉致)、経済問題(TPP)など、具体例をあげて、従属の構造を論じているが、それら個別具体の問題について、ある程度の知識がないと、論の展開についていけないだろう。現今の政治問題だけでなく、江藤淳や福田恆存など、保守派の論客の主張を読解し、戦前と戦後の「国体」の類似を理解する力も要求される。知的な緊張を強いられる分、スリリングで面白いが、読者を選ぶ一面もあると思う。
私は「永続敗戦をめぐる政府と社会の構造は、戦前における天皇制の構造に実によく似ている」というアナロジーを、非常に面白いと思った。明治憲法において「現人神としての天皇」が大衆向けの顕教であるのに対して、政治的指導者たち(明治の元勲)の真の意図は、これを実現させないことにあった(密教としての天皇機関説)。けれども、大衆の政治参加が進むにつれ、顕教が密教を侵蝕し、御前会議における「御聖断」というかたちで、天皇親政が実現してしまう。
同様に、戦後、敗戦の意味を希薄化させ、「戦争は負けたのではない、終わったのだ」と認識することが大衆向けの顕教であり、その一方、無制限かつ恒久的な対米従属(永続敗戦レジーム)が政治的エリートの密教だった。けれども大衆向けの顕教であった「われわれは負けてなどいない」という刷り込みが、抑えの効かない夜郎自大のナショナリズムとして現象化していくとき、永続敗戦レジームの主役たちは、これを食い止める能力を持たずにいる。「顕教が密教を飲み込む」事態が、再び起こりつつあるということだ。まあ大衆をナメてはいかんということだろう。
なお「永続敗戦レジーム」という戦後の国体が選ばれる過程で、昭和天皇が自ら米軍の駐留継続を切望し、具体的に行動した形跡について著者は論じている。この点(天皇の関与)については、私は判断を留保する。昭和天皇の関与が全くなかったてとは思わないが、どのくらい重要だったかは、いろいろな人の意見を読んで、引き続き考えたい。とりあえず、今般の「選挙」投票前に読むことができてよかったと思う、刺激的な論考。
読もうかどうしようか迷っていた本だが、旅先で購入して、勢いで読んでしまった。「私らは侮辱の中に生きている」というのは、中野重治の言葉を引いた大江健三郎の発言である。福島原発の事故以来、次々と明るみに出て来た「侮辱」の根底に、著者は「対米従属」という戦後日本の核心を見る。
われわれが、この核心を見過ごしてきたのはなぜか。「戦後=民主主義・平和・繁栄」という物語が、従属の構造を直視することを妨げてきたのだ。耳が痛い。これまで「戦後」という歴史の枠組みに対する否定や批判は、もっぱら右派勢力からなされてきた。それに対して、「戦後」という枠組みを堅持することは、「民主主義・平和・繁栄」に敬意を払う側に立つなら、自明のことと思われてきた。しかし、著者は言う。この20年の間に(戦後)民主主義の虚構は暴かれ、平和は軍事的危機へ向かいつつあり、経済的繁栄は失われてしまった。私たちは、今や剥き出しの「侮辱」に、日々対面させられている。
それゆえ、本書は「戦後」を認識の上で終わらせることを課題とする。日本の保守勢力は、声高に「戦後」の否定を主張しながら、実際は「戦後」の際限ない継続を願ってきた。「戦後」は、敗戦の否認(隠蔽)から始まる。敗戦を否認しているがゆえに際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を指して、著者は「永続敗戦」と呼ぶ。
このあたりを読みながら、内田樹さんの『街場の戦争論』(2014.10)と共通するところが多いな、と感じた。内田さんも、さきの敗戦によって日本人は、「戦争で失ったもの」を正面から問うことのできない「異常な敗戦国民」になってしまった、と断じている。正直にいうと、内田さんの本(文体)のほうが読みやすい。着流しのおじさんみたいな平易な表現で、言うべきことはきちんと言っているので、広い読者層に受け入れられやすいと思う。
それに比べると、本書はやや物堅い。領土問題、外交問題(拉致)、経済問題(TPP)など、具体例をあげて、従属の構造を論じているが、それら個別具体の問題について、ある程度の知識がないと、論の展開についていけないだろう。現今の政治問題だけでなく、江藤淳や福田恆存など、保守派の論客の主張を読解し、戦前と戦後の「国体」の類似を理解する力も要求される。知的な緊張を強いられる分、スリリングで面白いが、読者を選ぶ一面もあると思う。
私は「永続敗戦をめぐる政府と社会の構造は、戦前における天皇制の構造に実によく似ている」というアナロジーを、非常に面白いと思った。明治憲法において「現人神としての天皇」が大衆向けの顕教であるのに対して、政治的指導者たち(明治の元勲)の真の意図は、これを実現させないことにあった(密教としての天皇機関説)。けれども、大衆の政治参加が進むにつれ、顕教が密教を侵蝕し、御前会議における「御聖断」というかたちで、天皇親政が実現してしまう。
同様に、戦後、敗戦の意味を希薄化させ、「戦争は負けたのではない、終わったのだ」と認識することが大衆向けの顕教であり、その一方、無制限かつ恒久的な対米従属(永続敗戦レジーム)が政治的エリートの密教だった。けれども大衆向けの顕教であった「われわれは負けてなどいない」という刷り込みが、抑えの効かない夜郎自大のナショナリズムとして現象化していくとき、永続敗戦レジームの主役たちは、これを食い止める能力を持たずにいる。「顕教が密教を飲み込む」事態が、再び起こりつつあるということだ。まあ大衆をナメてはいかんということだろう。
なお「永続敗戦レジーム」という戦後の国体が選ばれる過程で、昭和天皇が自ら米軍の駐留継続を切望し、具体的に行動した形跡について著者は論じている。この点(天皇の関与)については、私は判断を留保する。昭和天皇の関与が全くなかったてとは思わないが、どのくらい重要だったかは、いろいろな人の意見を読んで、引き続き考えたい。とりあえず、今般の「選挙」投票前に読むことができてよかったと思う、刺激的な論考。